[2-Last]おかえりなさい
宇津々ながめが教育実習を終える日は、雨が降っていた。
ぽつぽつと曖昧な、中途半端な雨。それは、彼女の人間カテゴライズの課題を象徴しているように思えて彼女はふっとため息をついた。
まぁ、しょうがない。実際のところこの短い教育実習の間に解決できるとは思っていなかった。
季節は梅雨に差し掛かり、湿気の強い中途半端な温暖は不快だったが、彼女は少しだけ晴れやかな気分だった。少なくとも私は教育実習を今日で終了する。そして、その貴重な三週間は自分にとって重要な時間となることを確信していた。
教育という現場は考えていた以上に、泥くさくて、刺激的だった。
教育学という理論体系が歌う人間形成は、本当に歌のように抽象的で正しかったけど、その実践の現場はもっとアーティスティックで現代音楽のようにリズムも和音もないカオスだったと私は思う。
正解は何一つ無かった。カテゴライズすら不可能だった。
でも、この短い教育実習でもしかしたら理想の教育を私は目に出来たのかも知れない。
布津野先生の謎は、結局、解明することは出来なかったけど。取りあえず、その謎を理想として受け入れることで私の中では一応の決着をつけることが出来た。
そういう決着をつけることが出来た理由は、実は私のお爺ちゃんのお陰でもある。
私のお爺ちゃんは、実はとっても偉い人だ。そのお爺ちゃんが今朝こう言ったのだ。
「ながめ、爺から頼みがあってな」
「なに? お爺ちゃんからのお願いなんて、大層なことよ」
「ふむ……、もしかしたら本当に大変な願いかも知れぬ」
「なによ、私に出来ることなんて肩たたきくらいよ」
かっかっかっ、とお爺ちゃんが笑う。それはいいなぁ、と言っておかしそうに。
私は不安になる。私の記憶では、祖父は常に偉大で頑強だった。しかし、その時の祖父はどことなく小さく見えた。祖父の目は妙に遠くを見るように潤んでいて、何やら思い悩んでいる様子が伺えた。
それは私の知る限り初めて見る祖父の姿だったのかも知れない。長年、日本の首相を務めあげてきた私の自慢のお爺ちゃんの面影がそこには薄く感じられた。
「ほら、お前がいつも話して聞かせる未調整の教師がいるじゃろう?」
「ん、布津野先生のこと?」
「そう、布津野じゃ。そやつがのぅ」
「お爺ちゃん、布津野先生のこと知っているの?」
「ふむ……いいや、会った事はないがの。儂はそやつのこと見てみたい。この目でな」
「あらあら、またどういった風の吹き回しかしら」
私は不思議と嬉しかった。
あの祖父が、日本国首相である宇津々右京総理大臣でさえも、布津野先生に注目するのだ。いくら家で私が何度も布津野先生の人間性に対する考察を祖父に語って聞かせていたとはいえ、忙しいはずの祖父が布津野先生のことをこれほど具体的に気にかけるとは。
何か運命じみたものを感じなくもない。祖父はどうして先生に興味をもったのかしら……。
少なくとも、私の人間カテゴリの例外である布津野先生は、あの祖父に特別視されるほどに規格外だという事だ。私は妙な納得感と充足を覚えてニンマリと口を緩めてしまっていた。
「お爺ちゃんの、後生のお願いということだったら、しょうがないわね」
「なんじゃ、後生の願いなどとは言っておらぬじゃろ」
「あら、今なら私の肩たたき券がセットでついてくるわよ?」
「……ふむ、それならば、まぁ悪くはないのぅ」
……そんなわけで、私はこの学校の教育実習の最終日の土曜日、午前の授業だけで下校となった午前12時にあてがわれた職員室の机を片付けた後に、壮行に贈られた花束を両手に抱えて布津野先生の前に立ったのだ。
ここ数日、仕事を休んでいた布津野先生は、忙しそうに溜ってしまった事務仕事を片付けていた。しかし私に気が付くと、あの愛嬌のある皺を目元に刻んで、あまり整っていない表情を和らげてみせる。
私は、不意に泣きそうになってしまった。
わずかに数週間の教育実習がこれで終わるのかと思うと、万感が胸に迫るものがあったわけだが同時に不思議にも思った。私はもう少し、冷めた人間だったはずだ。少なくとも、私のカテゴライズ上では自分はそのように分類されていたはずだった。
ふと、教育実習を思い返しても、これといった具体的な記憶は浮かんでこなかった。強いて言えば、結局、私は布津野先生をカテゴライズすることが出来なかったなぁ、と後悔だけがある。
そんな違和感も、今は無視してしまおう。少なからず私は高揚していたし、学校教育の面白さを教えてもらったのだ。涙の一つくらい浮かべてすすり泣いて見せるのも悪くないかもしれない。
「先生、」
「宇津々先生、お疲れ様です。それとも、おめでとうございます?」
どっちだろうね、と口をほころばせる布津野先生を見て、私はようやく泣く覚悟を決めた。
「……ありがとうございました。」
「いいえ、何もしてませんよ。最後の方は私用で、なかなかご一緒出来ずに申し訳ございません」
「いえ、そんな事ありません。私、布津野先生に会えて良かったです」
「ええ、私もです」
風がさらうように、ふっと布津野先生は笑った。
どういうわけか、その彼の顔はとても綺麗に見えた。
いつもの整のってはいない、ちょっと不細工な未調整の顔立ち、それは変わらないはずだった。しかし、名工の手で作り出された渋い陶磁器のような深みのある一種の美しさが、その顔に練り込まれているような気が、私にはした。
……一時の高揚した気分が見せる錯覚だとは思うけど。
「布津野先生、奥様は元気ですか?」
何気なく、私はそう聞いてしまった。
布津野先生は、ニコリと笑いをこぼして、首を傾げて見せた。
「えぇ、実は最近少し悩んでいるようでして……。彼女は僕よりもよほど頭の良い人だから、気になりますが僕にはどうにも、ね」
「そうですか、あのサエちゃんが……」
「あれ? もしかして、冴子さんのことご存じなんですか?」
目を丸くする布津野先生を見て、私は笑いを抑えきれず噴き出してしまう。
「ええ、サエちゃんのことは実は幼いころから知っています。私よりも年下ですけど、昔から随分としっかりとした綺麗な子でした。私の祖父の仕事の関係で、今でも時々、お会いしているんですよ」
「はぁ」
布津野先生は呆然として、頭を掻いていたけれど、やがてニッコリと今日一番の笑顔をしてみせた。
「そうですか、冴子のお友達でしたか。アイツに貴方のような友達がいて、なんだか嬉しいです」
私は全てに合点がいった気がした。
サエちゃんは、透き通るくらいに綺麗で優秀な子だった。私が知る限り最も『多くの人から愛されている』女だったし、愛されるべき女性だと思っていた。
私は幼い頃から、彼女に憧れていた。崇拝していたのかもしれない。仮に世界中の男たちがサエちゃんに愛を捧げても、全然足りないと思っていた。あのサエちゃんが誰か一人の男のモノになるなんて、考えることが出来なかったし、我慢もできなかった。
……でも、この人になら違和感はない。
「布津野先生、今日、よろしければランチをご一緒にしませんか? 今日の授業はもう終わりましたし、」
「ええ、もちろん。先生の修了祝いといきましょう」
「ありがとうございます。実は私の祖父が偶然近くに来ていて、先生にお礼を申し上げたいと言って聞かないんです。ご迷惑ですけど、祖父も一緒でよろしいですか?」
「はぁ、それはそれは、もちろん問題ありません」
「ありがとうございます。それでは、後程、お電話しますね」
そう言って、宇津々ながめは深く頭を下げた。
◇
何かがおかしい、と布津野は冷や汗に震えていた。
これは宇津々先生の教育実習の修了祝いを兼ねた昼食だったはずだった。
自分の感覚では近場のランチ一人千円を少し超えるくらいの、ちょっと値の張るレストランで食事して、「会計は僕がやるよ。お祝いですから」と言って小金を奢ってドヤ顔を決めて終わるような、そんな小市民的なイベントだったはずだ。
しかし、電話で校門前に呼び出されたのは少し前のこと、そこには黒塗りの良く分からないが高級車らしき大きな車が横につけていて、運転手らしきスーツ姿の男が自分を見つけてお辞儀をした。
しかし、自分は関係あるまい、と思った。多分、百合華さんが組の人に迎えでも寄越したのかも知れないので、彼女の一応の義兄弟である自分に挨拶をしただけであろうと思った。
そう言えば、百合華さんにお礼をまだ言ってなかったなぁ、などと思いながらその高級車を避けて通り過ぎようとすると「布津野先生!」と呼びかけられた。
振り返ると、高級車の後部座席の窓からひょっこりと顔を出して手を振る宇津々先生が見えた。布津野は嫌な予感がして、すっかりと暑さが厳しくなった梅雨時のうっとうしさを洗い流すような冷や汗を流したのだ。
高級車の高級そうな革張りのシートにちょこんと腰を浮かせながら座りながら、車に揺られること15分か30分かは正直よく覚えていない。隣に座る宇津々先生と何かたわいもない会話を交わしたような気がするが、これも正直よく覚えていない。
そうして到着した先は、残念ながら予想通りだった。見上げると首を痛めそうなほどに高いビルに、車を降りた瞬間に待ち受けたように頭を下げて出迎える裾の長いスーツを着た男女たち。そこは、多分、僕には名前なんて分からないけど、都内で一番か二番くらいに高級なホテルだろう。
サビ付いた玩具のロボット人形のごとく、カチコチになりながら案内されるままに中に入る。正面玄関に入ると地価のくっそ高いことで有名な東京の一等地を吹きさらうが如く広々と構えた吹き抜けのロビー。こんな所でのランチは一体いくらするんだろう?
……会計はワリカンで、いいよね
横にいる、こちらはごく慣れた様子の宇津々先生に小さな声で問いかける。
「あの、僕、ジャケットすら着ていないのですけど、」
「大丈夫ですよ。今日は祖父のプライベートルームですし」
「プライベートって、」
思わず足を止めてしまった。
宇津々先生はくすりと笑うと、僕の手を取って引いて歩かせる。……あの、やめてください。恥ずかしいです。
しかし宇津々先生は何が面白いのか、楽しそうに笑いながら手を引いたままずんずんと歩く。エレベータに乗り、どうやら最上階らしき、とにかくもはや地上とは思えないような階層につくと、とうとうそのプライベートルームらしき大きな両開きの扉の前についた。
「祖父は中で待っていますわ」
宇津々先生はようやく手を放してくれた。
僕は、さすがの僕でさえ、ここに来てこの事態が只ならぬ事であることに気が付かないわけにはいかない。これは間違っても宇津々先生の修了祝いではない。会計の心配も無用かもしれない。
その祖父さんとやらは、おそらく凄い人だ。きっとそうだ。少なくとも大金持ちである。間違いない。
なので、とりあえず聞いてみることにした。
「宇津々先生、あの、」
「はい?」
「先生のお爺様は、そのどういった方ですか?」
「入れば分かりますよ。布津野先生も知っている人です」
「はぁ」
「さぁ、お爺ちゃんが待ちかねていますよ。ずっと、布津野先生に会いたいと楽しみにしていたんですから。あのお爺ちゃんを待たせる人なんて、滅多にいないんですよ」
そう言って、宇津々先生はその重そうな扉を気軽にノックして入った。
開け放たれた向こうの空間にはテーブルに腰かけている老人が一人いる。
その顔は、実は僕の予想通りだった。良くニュースで見かける超有名人。今や世界中で最も知られている政治家だと思う。
内閣総理大臣、宇津々右京。
その総理大臣は顔を少しだけほころばせて、テーブルから立ち上がってこちらに向かって一礼した。
慌ててこちらも頭を下げる。
……やばい、絶対に怒られる。
正直、もうガクブル状態だ。
まさか、珍しい苗字とはいえ自分の担当した教育実習生が首相のお孫さんなんて思わないじゃないか。
先のニィ君の事件で、随分と勝手な事をしたことも、普段からロクや冴子さんに迷惑をかけて大切な政府の仕事を邪魔してしまっていることも、怒られる理由は思い当たる節しかない。
背中を宇津々先生に押されて、断頭台に向かう罪人のような気持ちで何とかテーブルに近づいていく。
目の前には首相が立っている。ヤバい、オーラが半端ない。気圧されてしまって、立っているので精一杯だ。
崩れ落ちるように椅子につくと、首相も向いに腰かけた。
あっ、しまった! 首相よりも先に座っちゃった!
謝るべきだろうか? と慌てていると、間に座った宇津々先生が笑いながら口を挟んでくれた。
「良かったわね。お爺ちゃん。ようやく憧れの布津野先生に会えたわね」
「ああ、お前のお陰じゃ」
つられて首相も笑う。
僕もつられて顔を引きつらせる。
「あの、その、ええと、この度は、すみませんでした!」
とりあえず色んな意味を込めて頭をテーブルに打ち付けんばかりに下げる。
僕の脳天から、首相の興味深そうな声が降りてくる。
「ほう、すまんとな。何の事じゃ」
「えっと……、色々と」
ほっ、と老人は息を吹いた。
「色々か……、確かに色々とお主には迷惑をかけてしまっているのう。儂もお主に謝らねばならぬ。覚えておるか、先日のニィの件じゃて。お主は儂にこう言った。ロクはまだ13歳だと、父親として他人を犠牲にすることは絶対に許さぬ、とな」
「アッ、ハイ。そうですね、いっちゃいましたね」
あれは確かに本心だけど、でも、その場の勢いも十分に乗ったもので……
「儂も首相を務めて長い。40年は経ったはずじゃ。久しぶりにあのように叱咤をされた」
「申し訳ありません」
「そのように頭を下げてくれるな。儂こそ謝らねばならぬ事ばかりじゃ。しかし、首相にもなると謝って許されることなど無い。結果が出るまでやり続けるしかない。どうか謝れぬ儂のために、お主もそう頭を下げるのを止めてはくれぬか」
そう言われて、恐る恐る顔を上げる。
そこには雰囲気満点の圧倒的な存在感を放つ老人が座っている。皺深い顔は長い間、苦悩を重ね続けた証拠が刻まれた後だろう。何というか生きる姿勢が、通常の人間とはかけ離れているような、そんな姿だった。
改めて対峙するとやはり圧倒される。顔を上げたことを後悔してしまった。
「さてさて、何から話そうかのう」
首相は顎髭を撫でながら、こちらをじっと見ている。
「……そう、じゃな。色々と興味は尽きぬが、やはり本題からしゃべらせて頂こうかのう」
「はぁ」
「ロクとナナ、それに冴子も。あの3人だけではないが、白い子供たちの存在意義についてじゃな。これは極秘ゆえ、外に漏らすことないよう気にかけてくれぬか」
「白い子供、ですか」
「ああ、お主には知る権利も義務もある。そう思うが、どうじゃ」
「はぁ、教えて頂けるなら有り難いですが」
「ふむ」
老人は椅子に深く腰を預けて、両手を組んだ。
その少し濁りを含んだ両眼は相変わらず、じっとこちらを見ている。
「無色化計画……彼ら品種改良素体たちはそのために生まれたと言う事になる。実は、儂には双子の弟がいたのじゃ、名を左京といってな。あやつは天才的な科学者でな、特に遺伝子と脳科学の第一人者じゃった。若くして死んだがのぅ」
そう言って、深い嘆息をこぼした首相は遠い目をした。
布津野は姿勢を正して覚悟を決めた。これは老人特有の長い話になる気がした。幸いに内容は非常に興味のある範囲で助かったが、重労働になることは確定的だろう。
「弟はある仮説を思い付いた。その仮説自体は珍しいものではなかったが、それを具体的な計画までに落とし込める才が奴にはあった。それが無色化計画の原型となったものじゃ、奴が残した大量のレポートにまとめられたそれを見つけた時、儂は思わず吹き出してしまった。あやつめ、そのレポートに『遺伝子最適化の実現と、それを使った理想的平和状態の実現』などと正気の沙汰とも思えないタイトルをつけていたのじゃからなぁ」
老人は、ほっほっと懐かしそうに笑うと、「さて、」と息をついて布津野に問いかける。
「布津野さんや、お主はウイリアムス症候群というのを知っているか?」
「いえ、そういった知識は疎くて、ロクにいつも教えられてばかりです」
「ほっほっ、あのロクがそうやって他人にひと手間かけるのは、お主だけじゃてな」
「はぁ、手間といいますか、僕は怒られてばっかりで」
「ふむ、あやつは賢しい奴じゃてな。相手の間違いを指摘するよりも無視することが多い。やはり、お主はロクにとって特別なのであろう」
そう言われても、布津野にはどう特別なのか実感が沸かない。
つまり、僕はロクに叱られてばかりいると思っていたが、どうやらロクが叱るのは僕だけということらしい。勘弁してください。
その布津野の浮かべた苦笑いを、老人はチラリと一瞥しながら続けた。
「さて、ウイリアムス症候群とは、優しすぎる子供が生まれる遺伝的発達障害のことじゃ。この子供の遺伝子には7番目の染色体上で25個の遺伝子が欠けている。聴覚が異常に発達し人と親密なコミュニケーションをとる事に病的なほどに熱心になる。他人を思いやり、他人から嫌われる事に強烈なストレスを覚え、それが実生活の障害になることも多い。つまり、優しさという性格的特徴は遺伝子の影響を受けているという極端な例の一つじゃな。
さて、もう一つ極端な事例がある。ある実験で41人の殺人犯の脳を調査した記録がある。その結果、彼らの前頭前皮質の糖代謝量が普通の人間に比べて非常に少なかった。これは聞いたことはあるか?」
「いいえ、知りませんでした」
「ふむ、俗に言う悪の遺伝子というやつじゃ。神経伝達物質であるセロトニンは欲求を自制する役割がある。前頭前皮質に異常があり、この分泌量が不足すると、犯罪に走る可能性が高くなると考えられる。人の悪性が脳構造とその機能差によって強く影響を受けているという事実の一つである」
「……」
「つまり、人の善悪は遺伝子に規定される」
老人は、確信を込めて断言した。
「善悪の定義は置いておこうかのう。それはナナしか成し得ぬ偉業じゃ。ここではとりあえず、既存の社会に適応できるか、という単純な定義にしておこうか。もちろん、善悪は遺伝子のみに規定されない、日ごろの行いや努力にも左右されるのは事実じゃ。しかし、社会を構成する全員に自制や努力を期待するのは困難であり、それを強制する刑罰システムを完璧にすることも難しい。とすれば、どうする?」
老人は僕に、用意された答えに誘導するように問いかけた。
遺伝子の欠損で優しい子供が生まれ、殺人犯の脳構造が普通の人のそれと違う。仮に人の善悪が遺伝的に決まっているのだとしたら、より良い社会を実現する方法は……
「つまり、人の遺伝子を変えるしかない、と」
「そう、それが弟の残した結論じゃ。そして、弟はそれを可能にする基礎理論を全て発見しおった。その計画は今日では『無色化計画』として、多くの品種改良素体が引き継いで研究を継続している」
そこで、老人は少し間を置いた。
迷いを味わうように口をモゴモゴとさせて布津野を見ていたが、やがて口を開く。
「……今、一般的に普及している第三世代をベースにした遺伝子最適化は、軽度のウイリアムス症候群になるように意図的に調整されておる。つまり、産まれてくる子供たちは遺伝的に他人との関係を大切にし、その崩壊に強いストレスを感じるように組み込まれている」
彼はそう言い終えると、老人とは思えないほどの鋭い光をその眼光に宿らせた。その視線は、まるで解剖するかのように布津野に向けられている。
布津野は、なんだか途方もない話だなぁ、とテーブルの上の水が入ったグラスに手を伸ばす。
人の善悪を含めて遺伝子を改良することで社会を良くしていく。そんな途方もないことを考えていた人がいたことも大変だが、それを実行に移した目の前の老人もまた途方もない。
相変わらず、頭の良い人はどうしてそんな発想が出来てしまうのだろう。自分なんて自分の事だけで精一杯だと言うのに、他人の事まで考えて遺伝子まで変えちゃうんだから……。なんだろうねぇ。
そんな事を考えながら水を飲んでいる布津野を、老人は皺ばかりの眉間を少し寄せて観察していた。そして、布津野がグラスをテーブルに置くと、顎髭をさすりながら小さく唸る。
「ふむ……ここらで一度、感想でも聞かせてもらえんかのぅ」
「えっ、感想ですか?」
「ああ、どう思う。儂の為したことを、」
「はぁ、どう、でしょうね? なんだか壮大なお話だなぁ、とは思いますけども。僕に聞かれても、どうしようもありませんよ」
「……まぁ、そうじゃの」
老人は落胆したように寂しく笑った。
布津野はその反応を見て、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。きっとこの人は自分なんかに特別な話をしてくれたのだろう。
そう思い至ると、少なくとも何かは答えないといけない、そんな焦りが沸いて慌てて口を開く。
「でも、ですね……」
「ふむ」
布津野は笑った。
そう言えば、この老人に対して一つだけ自分に言えることがあった。
「僕は貴方に感謝していますよ。貴方がいなければロクとナナ、冴子さんだって産まれて来なかったんですから」
老人の深い眼が見開いて、しばらく布津野の浮かべた笑いを見ていた。
そして、彼は布津野につられるように穏やかに笑った。
◇
布津野は宇津々が申し出た自動車を断って、電車で家に帰ることにした。
どうにも車で送迎されるのは、居心地が悪くてかなわない。ましてや、あんな高級車でなんて……。
とても、疲れた。
どっと疲労感が押し寄せる。この一週間くらいは本当に慌ただしかった。
思い返せば、本当に一週間だったのかと疑いたくなるくらいだ。特に、初めにニィ君が現れて中国の艦隊を追い払うまでは、実は数日もないごく短い期間だったのだ。
自宅の最寄り駅に降りて、フラフラと家を目指す。
辺りは静かで、もう午後7時を回っていたので、薄暗くなりつつある。梅雨の夜に特有の湿気た涼しさが、何ともいない塩梅で布津野の疲れを癒す。
そういえば、今日はロクも冴子さんも家に帰っているはずだ。家族が全員そろうのは一週間ぶりだろう。
布津野は無性に西瓜が食べたくなった。
久しぶりの団らんには西瓜があった方がいい、絶対にいい。
布津野は近くのスーパーに立ち寄ろうと少し寄り道しようとして、はた、とその場に立ち止まった。
目の前に伸びるごく普通のその路地は、そう言えば、初めてニィと彼が出会った場所だった。
布津野はニィと別れた時のことを思い出して、頬を掻いた。
まさか、キスされるとはねぇ……。
流石に海外経験の長いだけあって、挨拶がグローバルだ。それに、中国で性別を問わず色んな人の夜の相手をさせられてきたニィ君にとって、あの程度はちょっとした愛情表現なのかもしれない。
それも、悲しいなぁ。
彼は外国に行くと言っていた。どこに行くのだろう。連絡先は貰ったので、少ししたら聞いてみてもいいかもしれない。
布津野はスーパーで手ごろなサイズの西瓜を買った。値段は千円くらいの片手で持てるくらいの大きさだった。
スーパーの袋に入ったそれを下げながら、帰路につくと自宅が見えてくる。大きな一戸建ての自宅の窓からは明かりが漏れていて、微かにナナの声がした。
自然と足取りが速まって、チャイムを弾くように押した。
「はい」と玄関越しに冴子さんの声がする。
やがて玄関が開かれると、彼女が顔をほころばせて出迎えてくれた。
「忠人さん、おかえりなさい」
「ただいま。西瓜を買ってきたよ」
右手に下げたビニール袋を掲げて見せる。
「あら、」
「小さいやつだけど」
「十分です」
そのまま、中に入ると、タッタッと駆け寄るナナが見える。
「お父さん!」
「ナナ、ただいまー」
「おかえりー」
飛びついてくるナナを、空いた左腕で抱きとめる。
さて、こうやってナナを受け止められるのは何時までだろうか? 日に日に成長して、冴子さんみたいに美しくなるナナの反抗期は来るのだろうか? 正直恐ろしいです。
よっ、と声をかけながら、ナナを床に降ろしてリビングの扉を開く。
そこには、ロクがいた。
ロクは包帯が巻かれた左腕を右腕で掴みながら真っ直ぐ立って、顔をうつむかせていた。
さぁ、これでようやく、みんながそろった。
「ロク、ただいま」
ロクはゆっくりと顔を上げて、こちらを見ると顔をくしゃりと歪めた。
「……おかえりなさい」
――第二部:『僕は33歳、こんなんだけどお父さんだから』 終わり
こんにちは、桝本つたなです。
ここまで読んで頂いた方々、本当にありがとうございました!
また、感想・レビュー・評価・ブックマークを頂いた方々、本当にありがとうございます。中には誤字脱字を教えて下さった方もいて、本当に頭が上がりません。
せっかくの後書きですので、2部の振り返りと今後の執筆についての予定をば。
では、早速2部の反省から、、、
2部はあれですね。┌(┌^o^)┐ホモォ...でしたね(笑)
私の別作「アマヤドリ壮の夜間食堂( http://ncode.syosetu.com/n6397co/)」でもホモネタはありましたが、あちらは展開としてはホモォではありませんでしたが、今回はこうなってしまいました。
一応、腐った方々の受けを狙ったわけではなく、ニィというキャラクターの破天荒さがそうさせたつもりです。
ニィの知っている大人は、自分を犯すような人たちばかりで、そんな大人たちの夜の相手を強いられてきました。そんな彼が布津野を前にした時、咄嗟に出た愛情表現がああいったものだった、という訳です。ニィが布津野に恋愛感情を抱いているわけではないと、思います(作者である私も、ここら辺は分からない。キャラは勝手に動くものですから、)。
でも、後悔はしていないけど、反省はしている。感想で忌憚のないご意見を頂きたいところでもあります。
それでは、三部もお付き合い頂けますと幸いです。





