[2-29]少し長めの後日談―その3
ロクは忙しかった。
事件の後始末は膨大で、積み重なって高くそびえ立つそれらは複雑に絡み合ってもいた。もし処理の手順を間違えてしまえば、トランプタワーのように脆くも崩れ去ってしまうだろう。慎重に、それでいて迅速に、対処しなければならない。
忙しいのは良いことだ、とロクは思う。
拿捕した南海艦隊の空母内部の調査結果を確認し、得られた中国海軍の戦力実態から戦略を修正し、艦艇の返還方法について中国政府の外交官との協議内容に目を通す。再三に渡る中国側からの法強およびその家族の返還要求については「人道的見地から亡命者の返還には応じない」との主張を押し通すように指示した。
膨大な懸案が行列をなして、ロクの判断を待っていた。
ロクは次々と舞い込んでくる報告メールを斜め読みで次々と処理していく。モニタに映るメールの文章を最大速度でスクロールさせながらも、彼の卓越した動体視力と思考処理能力はその報告内容を正確に把握していった。
彼は報告においてメールを特に好んだ。当事者でもない報告官の口頭陳述など時間の無駄以外の何物でもない。通常の人の思考速度はしゃべる速度の4倍以上にもなる。ましてや、最適解である彼のそれは圧倒していた。
そんな彼をして、現状は思考の淀みは許されるような状況ではなかった。全てに一貫性を細く通しながらも大胆な柔軟性が必要で、しかもそれを大量にこなさなければならなかった。
対中国への外交対応は最優先事項ではあるが、諸外国政府からも声明および問い合わせが殺到している。
彼らについても油断はあってはならない。諸外国を連合し、対日戦争を仕掛けようという動機は中国特有のものではない。特に、今回発動させたゲーミングウォー構想については気取られるわけにはいかない。この構想の実現力を担うAI艦隊の性能については品種改良素体と並ぶほどの極秘事項の一つだ。
ロクは少し間をおいて、主要各国の対応判断を他の品種改良素体に依頼することにした。全12体の第七世代の内、ロク自身とナナを除いた10体へ担当国を割り振るために連絡を入れる。
サンプル00、01に連絡を終えた後に、ロクは少し手を止めた。
次は02アルファに連絡を入れる順番で、その次は03アルファだ。
改良素体には三体のクローンが用意されていて、それぞれアルファ・ベータ・ガンマと呼ばれる。
改良素体は生後3年でその性能検査を受け、特に優れた個体が次世代の品種改良素体としてナンバリングされる。その際、ナンバリングを受けた素体の遺伝子から三体ずつクローン体が生み出される。よってクローン体達はオリジナルとは3歳と10か月ほどの若い。
これらクローン体は異なる環境下で育てられ、改良素体の環境要因での性能差についての検証実験に利用される。しかし、誘拐されたニィとサンがつくはずだった意思決定顧問の空席にはこのクローン体が補充されていた。
止まった自分の手をロクは見下ろした。
良く考えたら、ニィ・アルファはまだ9歳程度だろう。意思決定顧問に就任したのもごく最近だったはずだ。サン・アルファについても同様だ。
ロクは、ふと、自分がグランマから最高意思決定顧問を引き継いだ時は8歳と2か月だったことを思い出したが、頭を振ってそれを隅に押し込んだ。
ロクは、二人を飛ばして04に連絡を入れると、一気に最終ナンバーである11まで指示を与えた。
各自、第七世代品種改良素体は担当国に対する外交対応を一任する。これより指示があるまで、その判断と実行について最高意思決定顧問の承認を不要とする。なお、02アルファ、03アルファについては就任間もないため、06がこれを代行する。
それが終わるとロクは再びメールをスクロールし始めた。02アルファと03アルファへの判断に、少し時間をかけすぎてしまった。遅れを取り戻さなければならない。
すぐに対応できる内容はその場で指示し、文面だけでは判断が付かないものは報告者の直接の上司に転送して判断を委任、あるいは状況を確認して再度報告するように指示する。そして、重要だと思われるものについては関係者に直接ここに来るように要請をした。いくつかはナナの同席が必要になるかもしれない。
そして、夜通しのその作業の末に、ロクでさえ容易に判断しかねるメールが2通だけ残った。1通は事のあまりにも重大さゆえに即座の判断を躊躇い、もう1通はその内容の奇妙さゆえに戸惑ったのだ。
彼は流石に溜ってきた瞼の疲労感を手でぬぐいながら、まずは重大な方のメールの文章をもう一度確認する。ゆっくりと声に出すような速さで隅々まで書かれている内容を熟読していく。
その送信者名の欄には『From:内閣総理大臣/宇津々右京』とある。
件名には『無色化計画の第三段階への移行について』とある。
ロクは改めて息を呑んだ。ついに、ここまで来たのだ。
本文を展開して、その一文字一文字を目で刻むように追いかける。とは言え、その本文はそれほど長くはない。
『今回の件も考慮し、無色化計画の第三段階移行について本格的に検討する時期が来たと考える。この段階の目的は、遺伝子最適化技術を他国への公開することによる地球規模での最適化の普及にある。人種、差別、階級、貧困、全てを遺伝子から消し去る時が来た。全第七世代の意思決定顧問はこの件について協議し、中長期計画をまとめよ』
ロクは深く息をついた。
ついに無色化計画の最終段階が近づいてきたのだ。遺伝子改良技術を公開し、世界規模での遺伝子最適化を一般化する。これ以降に生まれる人類は全てが最適化個体となる。その後には人種も宗教も劣等感すらなくなる。全員が生まれながらの平等を獲得する世界。
果たして、無色計画は恒久平和を実現し得るか? その問いかけは何度も重ねられ、その巨大な実験場こそがここ日本だった。結論は出した。不可能ではない。
これから100年、世界は未曾有の混乱にまみれるだろう。日本でも遺伝子最適化を合法化して以降40年近く社会は混乱を極めた。未調整とモドキの遺伝的能力格差の問題は、秩序を乱し、犯罪と自殺者を増加させた。
……この件は、後で落ち着いて考えよう。疲労を感じ出した今の状態で取り組むべきではない。
ロクはそのメールを閉じて、もう一つの奇妙なメールのほうに視線を移した。
その送信者名も『From:内閣総理大臣/宇津々右京』だった。
件名には『誘拐被害者の48名の処遇についての提案』とある。
首相である彼の提案は命令とどう違うのだろうか、とロクは一瞬迷ったが、もしかしたら対案の提示を求められているのかも知れない。
だが、メールの本文には明らかな命令調でこう書かれていた。
『彼らを保護する施設を用意し、彼らの精神的ケアと世間一般と比較して出遅れている学校教育を支援するべし。また、この施設の責任者については、ロクの父親である布津野忠人氏を起用せよ』
……どういった人事判断なのだろうか。
彼らを保護し管理するための施設を用意することについては全面的に合意であった。特に彼らの精神状態については十分にケアする必要がある。
ロクは、彼ら元実験兵への個別インタビューの報告にも目を通していた。
驚くべきことに、彼らの全員に実際の殺人行為を強いる訓練が施されていた。
第二次世界大戦時の統計調査によると前線に参加した兵士の内、敵に発砲する兵士の割合は全体の10~15%程度に過ぎない。一般的な戦争のイメージとは違うであろうが、事実として兵士の大半は例え撃たれても撃ち返すことが出来ない。ほとんどの兵士は前線に立っても発砲すらしようとしないのだ。
実際に行われる発砲行為のほとんどが、上官の目を欺くための威嚇射撃であり、その銃口は敵兵のはるか頭上にそれていることがほとんどだ。大戦時の戦死者のほとんどは、殺人の実感が沸きにくい遠距離からの砲撃によるものだ。
それほどに、人を殺すことの精神的ストレスは強烈なのだ。人は例え自分や友人の身に危険が及んでさえも、人を殺そうとはしないのが普通である。GOAの隊員の遺伝子に戦闘特化調整が施されている理由もそこにあり、AI艦隊による自動最適化戦闘が構想された所以でもある。
しかし、その心理障壁を無理やり超えさせる術がある。それが虐殺の訓練だ。彼らが経験した殺人行為はこの訓練によるものだ。中には仲間を処刑することを強要された例もあると言う。
通常の戦闘行為で敵兵を殺した大人の兵士でさえ、戦後はなんらかの心理障害を抱え社会復帰が困難になる。彼らの社会復帰には相当な困難が伴うことが予測される。
――そう言えば、父さんと彼らの話を一緒に聞くと約束したな。
父さんはいつになく真剣な顔をして、絶対に一緒に聞こうと迫って来た。今の状況が一段落したら、時間を確保しなければならない。
父さんは、きっと僕が彼らのことを必要な犠牲だと判断したことを怒っているのだろう。彼らの話を聞かせることで、僕が何かしら変わる事を期待しているのかもしれない。
変わって何になると言うのだろう。彼らの境遇が如何に悲惨であろうとも、それは48人の命であり、それ以上ではない。それは国民の命の数に比べて無視できるほどに少ない事は揺るぎない事実なのだ。
それでも、僕は変わるべきなのだろうか。父さんのような、ナナが言うような優しい人に。
ロクは椅子にもたれ掛かって天井を見上げた。照明の明かりが目を刺したので、そっと目を閉じた。瞼の裏には先ほどまで見ていた照明の残像がこびりついている。
その残像が消えるのを、ロクはゆっくりと息を吐きながら待った。
――お前はッ! 正しさで人を殺す。
消えようとしていた残像は形を変えて、ニィの顔に変わる。
それが叫ぶ姿が瞼の中に現前して、その声が脳裏に反芻した。
――布津野さんはそんな人じゃなかった。
――お前は、何も分かっちゃいない!
左腕に走った傷跡が疼く。包帯の上からロクはそっと傷跡を抑えた。それはニィに切られた傷で、まるで今しがた切りつけられたばかりのように熱く感じる。
ニィの残像を追い払うように目を強く閉じて頭を振り払う。
すると残像はすぅと消えた。しかし、それは次に百合華の形をかたどった。
彼女の微笑みが歪んで動いた。
――貴方ごときが、兄様のようになれるわけないでしょう
ロクは痛みに耐えかねて、包帯の上から傷跡をギュッと握りしめた。
その包帯からはジワリと血痕が浮き出していた。





