[2-27]少し長めの後日談―その1
紅葉はナナと学校の畳敷きの道場で稽古をしていた。
二人は稽古着に袴をはき、互いに向き合っている。二人の周りにも同様の恰好をした他の生徒たちが多くいた。それぞれ柔軟体操したり別の組を作って稽古したりとそれぞれではあったが、彼らは共通してチラチラと二人の様子を覗っている。
その時間は普段ならば布津野が担当している護身術の授業時間だったはずだが、道場には布津野の姿は見当たらなかった。自習になったのであろうか、生徒たちは各々組をつくってそれぞれで稽古をしている。
「……それで、とりあえず一件落着というわけなのかな?」
「どうなのかな。ナナには良く分かんないよ」
紅葉は、エイ、と声を上げて打ち込んでくるナナの腕を捌くと、その腕を優しく絡み取って拘束していく。そのまま丁寧にナナの関節を折りたたんで地面にゆっくりと組み伏せる。
パンッとナナが稽古場の畳を平手で打つ音が響く。
いやはや、なんとまあ細っこい美少女なんだナナちゃんは、と紅葉はニンマリとしながらも名残惜しそうにナナの拘束を解いた。腕回りなんて掴んだ手の指一回り分しかないし、それがフニフニとしてマシュマロみたい。まるでお人形さんみたいで慎重に技をかけないと壊してしまいそうで冷や冷やだわ。
こりゃ、危なっかしくてそこらの半端な男どもとなんて稽古させられません。と紅葉はちらりと周囲からこちらを盗み見ている男子生徒を威嚇するように見返した。
ナナちゃんは、そのお人形さんのような可愛らしい姿から男子たちから圧倒的な人気を誇る。私の美少年・美少女脳内ランキングの中ではロク君と並ぶ堂々の第一位で、こうやって隙あらば飢えた思春期男子が群がり寄ってくる。
睨まれた男子生徒たちは気不味そうに目をそらしておのおのの稽古を再開する。
ふっ、意気地のない男どもめ。そんな君たちにナナちゃんに指一本触れる権利などお姉さんは許可いたしません。
「次は紅葉さんが打ち込む番ですよ」
「おっ、ごめんごめん」
いつの間にかナナちゃんが立ち上がって右半身の構えで立っていた。
ふむ、その頼りない構えはロク君の鋭い構えとは対照的なほどに隙だらけで、もうなんていうかとにかく可愛い。しかも稽古着に少し大きめの袴の裾が床に少し引きずってしまっている。たまに裾を踏んでよろめくのが殺人的な萌えポイントだ。
誰だ?! こんな絶妙につまづきやすいパーフェクトな着こなしをさせたのは! それは私だ!
「紅葉さん? あの、はやく……」
「はっ、そうだった。じゃあ、いくぞ」
こくり、と頷いて真剣な表情で待ち構えるナナちゃんの可愛らしさに、腰から砕けそうになりながらゆっくりと直突きを打ち込む。
ナナちゃんはそれを丁寧に捌いて私の裏(背側面のこと)に回り込んで腕を取った。急な接近にナナちゃんの柔らかい感触と同時に石鹸のいい香りがする。
――ああっ、至福です。
そこから二教固めからの小手返しという複雑な手順にゆっくりとナナちゃんを誘導しながら、出来るだけナナちゃんとのスキンシップを最大化するために話題を振る。
「それで先輩はどうして今日休みなのかな?」
「ん? お父さん?」
「そ、この護身術の授業も急きょ自習になったんでしょ」
まぁ、そのおかげ様でこうしてナナちゃんとタップリねっとり1時間もスキンシップさせて頂けるわけですが。
ナナちゃんは二教固めの手順に手間取って眉を曇らせている。
「ニィのせいだよ」
「ん、ニィって、あのロク君に良く似たあの意地悪そうな子のこと」
「そう……、ロクもニィと同じくらい意地悪いけどね」
ナナちゃんは、口をへの字に曲げる。
「そうなの? ロク君は割と素直な子だと思っていたけど」
「え~、違うよ。それは紅葉先輩に対してだけ」
「ふむ、そうなのか……」
仔犬のように稽古をつけてくれと駆け寄ってくるロク君は、なんというか素直で稽古熱心な印象だった。しかし、もしかしたらそれは私だけだったのかもしれない。
……初心やつではないか、と紅葉はほくそ笑む。
「でねぇ、そのニィがお父さんと一緒じゃなきゃ、ダメだって言ったの」
「むむ、どういうことだい」
「だから、捕まえた中国の艦隊とか色々とね。色々と大変らしくて、ニィの協力も必要らしいんだけど。ニィがお父さんがいないと協力しないと言い張っているらしくて、それでお父さんも呼び出されてここにいないの」
「ほう」
頬を膨らませるナナちゃんの様子を横目で見せながら、かけられた小手返しに合わせて受け身を取る。指導のための受け身は非常に重要だ。相手の技が間違わないように上手く誘導し綺麗に受け身を取ることで、あるべき技の流れを相手に体感させるのだ。
受け身を取って地面に伏す私の腕関節を、たどたどしく絡めて抑え込む拍子にナナちゃんの胸元の柔らかい感触が伝わってくる。これはたまらん。絶対に男子生徒どもなぞには渡すわけにはいきません。
「そんな大変な状況に呼び出されても……先輩も大変だろうにねぇ」
「ねぇ」
「で、結局、戦争にはならなかったんだよね」
声を潜めながら、ナナちゃんに聞くと、うん、と頷きが返ってきた。
「ロクが言うには、大筋は思惑通りに済んだらしいよ。中国の艦隊も手も足も出ないでそのまま捕まえて、方強さんっていう司令さんも逮捕したんだって」
「へぇ~」
「それで、中国政府の人と秘密で話してとりあえずは戦争にはならないようにしたって言ってた」
「へぇ~」
……戦争ってなんなんだろう。
実際はナナちゃんの言うような単純なことではないだろうが、この数日間にロク君とニィ君ががんばって戦争を回避させたことは想像できる。しかし、実際のところ具体的にどうしたか、というところまでは流石に分からない。
でも、とりあえず戦争にならないのであれば良かったと素直に喜ぶべきなんだろう。
前後は良く分からない。でもロク君にせよ、そしてニィ君も戦争にならないようにギリギリまで頑張っていたことは、現場にいた私にはビシビシと伝わってきた。
きっと、それが上手くいったんだろう。それは何よりの事なのだ。
「ねぇ、ナナちゃん」
「なに?」
「ちなみに、これからどうなるのかな?」
「どうって?」
「さぁ?」
と自分でも良く分からないけど、あの場にいた当事者として素直に不安になる。
あの中国マフィアの一階ロビーの大広間で繰り広げられた光景は、今でも鮮明に覚えている。戦争回避のために、それぞれの思惑を抱えながらも全員が必至に争っていた。でも最終的には協力して、結果として戦争は起きなかった。
どうして、協力できたのだろうか?
少なくともロク君とニィ君は殺し合いを繰り広げるくらいに対立していたはずだ。二人の戦いはまだ目に焼き付いている。
明らかに相手の命を奪うために繰り出される技の数々は、稽古で交わされる技とは全く違った。そこには相手への配慮や思いやりなど微塵もないシンプルな殺し合い。
そんな二人が最後の最後で互いに協力して、今の結果があるのだ。
もし、あの戦いでどちらかが相手の命を奪い、どちらかが死んでしまったら今ごろどうなっていたのだろう。
「大丈夫だよ」
とナナちゃんが全てを見透かすような瞳で笑う。
「お父さんがいるから、大丈夫だよ」
「……ナナちゃんは、本ッ当に先輩のこと大好きだよね」
「うふふ」と、はにかんで笑う。
「むむ、うらやましいねぇ」
バン! と畳を叩いて稽古が一区切り終わったことを知らせる。ナナちゃんと起き上がって互いに礼をした。
「まぁ、難しいことは後でクロちゃんに教えてもらうか……」と顎を指で捻っていると「あら、モミちゃん。何の事かしら? 数学? それとも量子力学のことかしら?」と後ろから突然にクロちゃんの声がした。
ビックリして振り返ると、そこには手で含み笑いを隠して見せる百合華が立っている。
「って、クロちゃん。どうしたの? 何でここにいるの? あの後ゴタゴタで大変だって、学校も休んでたじゃないか」
「ええ、黒条会内部だけではなく政府とも調整が必要で厄介でした。でもようやく、一通り収めるべきところに押し付けて終わらせましたわ」
長い黒髪をサラァとさせて、クロちゃんは艶やかに笑う。
そんなクロちゃんを見て、ナナちゃんは私の後ろにサッと隠れた。なんとなく、気がついてはいたけれどナナちゃんはどうやらクロちゃんのことが苦手らしい。
クロちゃんは首を少し伸ばして後ろに隠れたナナちゃんを覗き込むと、私の後ろからナナちゃんが警戒心むき出しの猫のような顔でクロちゃんを睨みつけている。
「ちょうど良かったわ。例の事件のことの顛末、気になっているのではなくて?」
含み笑い気味のクロちゃんの声がした。
「当然だよ。教えてくれるの?」
「ええ、もちろん。……よろしければ、ナナさんもどうかしら?」
ナナちゃんは後ろから私の道着の裾をギュッと掴んだだけで、無言だ。
あらあら、とクロちゃんはこぼして首を傾げて見せた。
私は思う。こういったクロちゃんのどことなくワザとらしい仕草がナナちゃんを警戒させる原因なのではないだろうか……。
「残念ねぇ、随分と嫌われちゃったことね。何も取って食べようというわけではありませんのに。まぁ、取って食べたくなるくらい可愛らしい娘ですけど」
……クロちゃんはいつも一言余計だ。
後ろにしがみ付くナナちゃんを振り返って、私は親指をサムズアップさせてニカッと笑いかけてやった。
「大丈夫だよ。ナナちゃん。もしクロちゃんがひどい事しそうになったら、私がクロちゃんをやっつけてやるからね」
「……本当?」
「本当だよ。クロちゃんの親友として、クロちゃんの悪行は私が正す!」
「だったら、うん。別に……」
しぶしぶといった様子で頷くナナちゃんの頭を撫でながら、「どうだ、いい仕事しただろ」とクロちゃんに斜め上目線からドヤ顔をかまして見せる。
「……なんだか、酷い扱われ方ですわねぇ」
特に傷ついた様子もなくクロちゃんは肩を小さくすくめて見せて、くるりと長い黒髪をたなびかせて後ろを向いた。細くて長い指をひらひらとさせて背中越しに「それじゃあ、放課後に生徒会室で、」と言って立ち去っていく。
キーンコーン、カーンコーンと時間を区切るチャイムメロディーが待っていたかのようにクロちゃんを見送る。
「……私たちもそろそろ上がろうか?」
「うん」
そう言ってナナちゃんと一緒に、私は更衣室に向かった。