[2-22]平和が歩いてやがる
布津野忠人は、口をあんぐりと開けて天井を見上げていた。
先ほどから、上から爆発のような轟音が3度鳴り響いていて、建物全体を激しく揺さぶっている。まるで爆発みたいだ。もしかしたら、本当に爆発なのかもしれない。
一体、何が起きているのだろうかと、助けを求めるように周囲を見回した。
しかし、周りの少年少女たちは逆に布津野をじっと見つめていた。その目は布津野に問いかけている。これからどうするのか、と。
「あー、うん、」と布津野は言葉に詰まって「さて、はて」とポリポリと、頭を掻きながら視線を窓の向こう方に逃がす。外は黒い男たちに取り囲まれ、頭上からは爆音と衝撃が降りかかってくる。はたしてこの状況、学校の避難訓練のようには行くのだろうか?
途方に暮れていると、近くの少女に服を引っ張られる。
「どうするの?」
「……どうしようか?」
布津野は率直に首を傾げた。
彼を取り囲む少年少女の瞳が丸くなって、少しざわついた。
「ニィは、貴方の言うことに従うようにいったわ」と少女は言う。
「そう、だった」と布津野はハハッと笑った。
少女が浮かべて不安な表情に、布津野は内心慌ててしまう。
そう言えば、ニィ君からこの子達を頼まれたのだ。まったく、どうして自分なんかにこんな重要なことを任してしまうのだろうか。
そりゃあ、僕は33歳で、ニィ君はロクとナナと同い年だから13歳で、この子達はどう見ても十代の半ばくらいだから、年齢の順序でいうと自分が責任みたいなものを持たないといけないのだろう。
しかし、とは言え、大人だってどうしようもない事はある。ましてや、自分なんていつもはロクに怒られてばかりなんだから……。
そうブツブツと呟いている布津野に対して、その少女は恐る恐る声をかけた。
「あれはC4の音だと思う。誰かが爆破しているのかも、」
「ん、C4って、確か爆弾の?」
「ええ、プラスチック爆弾のC4。粘土製の爆弾で建築物の爆破によく使われる」
「すごい、良く分かったね」
布津野に褒められた少女はビックリして、そして、少しはにかんだ。
「……C4は、良く訓練で使っていたから、」とモジモジとする少女は嬉しそうだった。
「そう」と応じた布津野は、しかし、悲しく思った。
C4と言うのは、本来、こんな子供が熟知するべき代物ではないだろう。それに数年間ほど教師をしてきた布津野には、その様子から彼女が褒められ慣れていないことに気が付いた。
この子が置かれてきた状況の壮絶さに思いをはせる。攫われて軍隊で過ごしてきた彼らにとって、自分の存在を肯定されることはほとんどなかったのだろう。命じられ、否定され、従い、こなし、一日を終えて、一日が始まる。ただそれだけの連続が、この少女を形成している。
その現実の過酷さを、自分はほんの少しも分かってやれていない。この子が経験してきた深い深い悲しみは、きっと底が見えないくらいに深い。
布津野がそっと少女の肩に手を置くと、少女は驚いて身を固くした。
「ごめんね」と布津野は謝った。
「どうして……」少女は言葉を途切り「謝るの?」と呟いた。
どうして、自分は謝ったのだろう。と布津野は自分でも分からない。
しかし、彼らを目の前にして、布津野はただ、自分が如何に恵まれた存在なのかを感じざるを得なかった。自分は十代の頃、未調整で産まれてきた事を激しく呪った。世界で一番不幸な存在だと信じて疑わなかった。それを改めて恥ずかしく思う。
「みんな」
そう、布津野が周囲に呼びかけると、全員が布津野の方を向く。
「上の爆発について、何か分かる人いる?」
布津野のその問いに、一人の男の子がおそるおそる手を上げた。
布津野はその子のことを覚えていた。吉田和也くんだ。彼は家に帰ったら、お寿司を食べたいと言っていた。
「はい、吉田くん」
そう、布津野が呼びかけると、吉田くんは自信なさそうに口を開いた。
「敵が攻めてきたのだと思います」
「敵か、敵って誰?」
「それは、分かりませんが……国内でC4を調達できる組織は限られます」
吉田くんが無言になると、壁際に立っていた女の子が手を上げて見せた。
今度は年長組の宇津木祥子さんだ。彼女は、実は付き合っていた男の子が日本にいるのだ。帰ってきた自分を、受けて入れてくれるのかとても不安に思っている。
「宇津木さん」と布津野が名前を呼ぶと、彼女は声を上ずらせて答える。
「敵はおそらく日本政府だと思います。戦闘ヘリの音が聞こえます。おそらく敵は天井を爆破しながら突入してきています。ヘリとC4、また我々の置かれた状況とこのタイミングを考えると政府である可能性は非常に高いです」
「なるほど」
布津野は深く頷いた。
利発な子たちだ。そうか、日本政府、か。
この突入を指示したのはロクだろうか、それとも冴子さんだろうか。二人はこの子達のことを知っているのだろうか。もし知ったら、ニィ君が言うように、彼らのことを殺そうとするのだろうか。
ドォン! と轟音が今度は近い。
ハイ、と男の子が手をあげた。葛城勝馬くんで、テレビゲームが大好きな子だ。
「なんだい?」
「爆破音が近くなっています」
「そうだね」
「音の方向からして、ここの真上です。敵はここを目標にしているように考えられます」
「……あっ」
布津野はハッとなって、爆破の余韻でミシミシと振動する天井を見上げた。建物の構造上の隙間から塵ぼこりが降り落ちている。
彼の言う通りだ、爆破音は確かに真上から確実に近づいて来ている。
ロクや冴子さんの意図は一体なんだ? それに建物を取り囲む男たちは何者なんだ?
――全然、分からない。
そう言えばニィ君から携帯を返してもらっていた。考えてもしょうがない。直接聞くのが一番だ。
布津野は慌てて端末の連絡先一覧を開いた。
初めはロクに聞こうかと考えたが、ふと、ロクとは喧嘩中だったことを思い出す。早く謝りたいが、今は時間がない。
布津野は逃げるように冴子に電話をかけた。気まずい事は後回しにするのが昔からの自分の悪い癖だ。
トゥルルゥ、トゥルルゥ……
しかし、冴子は電話に出ない。忙しいのかも知れない。もし、今が作戦中であれば、間違いなく忙しい。プライベート用の番号に対応する暇はないだろう。
頭を掻きながら途方に暮れ、端末の画面を眺めていると連絡先一覧リストのナナの名前が飛び込んでいた。
そうだ、ナナならきっと、
トゥルッ、「もしもし、お父さん!?」
速攻でナナの声が鼓膜を貫く。
「やぁ、ナナ」
「お父さん! お父さんだ!」
「心配かけたね」
「わぁ、お父さん、お父さんだよ、お父さんなんだね」
「ハハッ、お父さんです」
布津野は何だか照れくさい気持ちになる。
「ねぇ、お父さん。大丈夫なの」
「ああ、大丈夫。何ともない」
「そうなの? グランマが言ってたよ。お父さんは子供の兵隊に捕まっているって」
「子供の、兵隊?」
「うん、ニィが連れて来た兵隊さん」
子供の兵隊とは、つまり彼らのことだろうか。冴子さんは彼らの存在のことを知っているのだろうか。知っているなら、どうしようと言うのだろうか。
「グランマが言ってたよ。お父さんを助けるためにGOAを派遣したって、すぐに黒条会のヤクザさんと戦争になるから、そうなる前にお父さんを助けるって」
「……ナナ」
「何?」
「冴子さんは、その兵隊が日本人って知っているのかな?」
「……うん、多分。子供を誘拐して兵隊にしたって、」
布津野は目を閉じた。
立ちくらみがする。ひどい乗り物酔いのような気分がした。
心のどこかで、ロクや冴子さんのことを信じていた。ニィ君の言うような事は全て考え過ぎで、二人とも彼らを助けるために動いてくれるかも知れない。実のところ、そんな期待を自分は密かに抱き続けてきた。
「冴子さんは、兵隊さん達のことをどうするって言っていたかい?」
「ん、えーと、やっつけるって。でも、ヤクザにやらせるんだって。そうすれば色々と面倒がないって」
「……そう、か」
ドォン、ともう真上の近くまで爆破音を近づいてきている。
布津野は氷を飲み下したように、腹の底が冷え固まるのを感じた。
突然、背後からガシャリと重鉄を引き打つような音がした。驚いて後ろを振り向くと、目の前の光景に布津野は愕然として凍り付いた。
子供たちは皆、銃を取り出して手慣れた様子でそれを操作していた。
ガチャ、カチャと弾倉を込めて撃鉄を引く。
少年少女に似合わぬ重鉄の銃を見事に構え、彼らは姿勢を低く物陰に身を潜めながら、その銃口を天井にピタリと据えていた。
「何を、」しているのか、と布津野が漏らした疑問に近くの少女が即答した。
「敵であることが明白となりました。迎え撃ちます」
少女のその声は、落ち着いていて冷たかった。先ほどの褒められて、はにかんだ笑顔とは全く別物の乾いた表情がそこに張り付いていた。
布津野の正面に立っている、一番の年長者らしき長身の男の子が周囲に低い声で鋭く言い渡す。
「敵は天井突破でこちらを正確に降下中。突破後、閃光・催涙・あるいは破片手榴弾が投げ込まれる可能性あり。総員、物陰に伏せ耐衝撃態勢で備え。12時方向に向け半包囲。敵降下を確認後、十字砲火。各自、自由!」
「「了解」」
布津野は迅速に展開されていく、その効率的な組織行動に唖然とした。
彼らの構える銃口はピタリと定まっていて、そこには躊躇がないことが素人の布津野でさえ見て取れた。
彼らは今、天井から侵入してくるであろう『敵』を撃ち殺すために整然と準備している。
「……やめなよ」と布津野はつぶやき、「やめなよ!」と同じことを叫んだ。
部屋の物陰に身を潜め、身を伏せている彼らが顔だけ動かして布津野の方を見た。
一様に怪訝な表情が並んでいた。
「やめろ、とは?」
先ほど全員に指示を出していた長身の男の子、風間君が問いかけてくる。
彼は残留組としてニィに付いていくか、帰国組になるか最後まで悩んでいた。
「そうやって、迎え撃つ、とか……やめなよ」
「どうしてですか?」
どうして、なのだろうか。
こんな当たり前のことを、ここでは説明する必要があるのだ。そして彼らにその当たり前のことを理解してもらう事は、とても難しいのだろう。
「相手は敵ではないのですか?」
「……」
布津野は押し黙った。
敵だと言えば、敵なのかもしれない。
彼らが身を守るために撃つのは当然なのかもしれない。
撃たれる前に撃つ。取りあえず撃つ。相手を視れば直ぐに、話し合うよりも真っ先に引き金を引く。
初めから、分かり合おうとする余裕なんて、ここにはないのかもしれない。
布津野は携帯をギリリと握りしめた。その手の中から、「お父さん、お父さん!」とナナの声が零れている。
布津野は、携帯を耳に当てて、その場にいる全員に聞こえるように大きな声を出した。
「ねぇ、ナナ、」
「お父さん?」
「お父さんは冴子さんやロクみたいに頭が良くないけど、この子達を助けたい」
「……」
ナナの無言が、続きを催促していた。
「お父さんは、このままロクが正しいことをして恨まれていくの、嫌なんだ」
「お父さん……」
「……ごめん」
ナナの息づかいだけが、耳に押し当てた携帯を震わせていた。
やがて、か細い声が紡がれる。
「ねぇ、絶対に帰ってきて」
「ああ」
「……絶対だよ」と呟く声に、布津野は申し訳ない気持ちになる。
「絶対だ。ナナ、心配しないで」
布津野は目を閉じて息を吸い込んだ。ナナにまで心配をかけて、本当にどうしようもない。
自分も父親なんだから、少しはちゃんとしないと……。
「大丈夫、お父さんはこれでも結構強いから」
「……うん。知ってるよ」
「またね」と名残惜しみながらも携帯を切ると、布津野は前を向いた。
辺りには、こちらを訝し気にこちらを覗く表情が並んでいた。
布津野は、大きな声で彼らに呼びかけた。
「みんな、僕が前に立つ。絶対に撃たないで!」
「しかし、」と反論しようとするのを、布津野は遮った。
「君たちは家に帰りたいんだろう。ここは耐えてくれ。僕が立っている間だけでいい」
「……」
周囲は押し黙り、困惑が水に浮いた油のように漂う。
布津野は自らの不安を振り払うように、言葉を吐いた。
「僕が何とかするから」
布津野そう言うと、振り返り天井を睨んだ。
天井からは、カチャガチャと音が聞こえる。それがC4とやらを設置している音なのかも知れない。
布津野はいつもの右半身の構えではなく、真っ直ぐと自然体に構えた。相手は一人ではないだろうし、囲まれる可能性も高い。初めは自然体が対応しやすい。
精神を研ぎ澄ます。
心を空に、思考を止め、呼吸を鎮め、気を充実させる。
両手を幽霊のように前に垂らし、息を吐く。
思考よりも迅速に、体の反射がおもむくままに。
ダァン! と轟破音とともに天井が崩れ落ちた。
しかし、布津野は落ち崩れる破片に構わず、煙巻く崩落の中に飛び込んだ。
揺れる視界に、鼓膜を突く轟音。しかし、その中で二つの塊が天井に開いた穴から投げ込まれるのを見た。
おそらく何かの手榴弾が二つ。
布津野は飛び上がり両手をそれに向かって伸ばす。空中でその二つをキャッチして、着地すると同時に、それを穴の中に投げ返した。
「退避!」という怒声が天井の穴から降って来て、四人の黒づくめの大男達が音も無くそこから飛び降りて来た。
布津野は少年少女を背にし、その四人の前に立ちはだかった。
対峙すると、その四人は山のように大きく、豹のようにしなやかで、獅子のように力強く感じた。四人は真っ黒のタクティカルアーマーを着込み、両手には自動小銃をピタリと肩に据えている。
「旦那!」
と驚いた声を上げたのは宮本だった。彼は、すぐに布津野の背後にいるこちらに銃口を向けた少年少女がいることに気が付いた。
宮本は舌打ちをしながら、彼らに向かってアサルトライフルの引き金を引く。
ダンッ、ダンッ、ダンッ、と三連射。
しかし、その火を噴いた銃口は、飛び掛かった布津野が払い飛ばしてあらぬ方向に弾き飛ばされる。
銃弾を数発、まき散らしながらもアサルトライフルは宙を舞い、ガシャリ、と重い音を立ててそれは地面に落ちた。
「旦那、」と、宮本は布津野を見た。
その目の前には、後ろの少年兵を守るようにして立つ布津野の姿がある。
宮本は、状況を把握しかねた。
布津野のその背後には、少年兵が構える銃口がピタリとこちらを狙って並んでいる。
宮本は絶体絶命であることを悟った。
周囲から向けられた銃口の照準は正確だった。
戦場統計における事実として、前線で敵兵を撃ち殺したことのある兵士は全体の10%に過ぎない。残りの90%は人を殺すという心理的ストレスに耐えきれず、例え撃たれたとしても相手を撃つことが出来ないのだ。せいぜいが、敵兵の遥か頭上に射撃し、戦っている振りをするのが精一杯だ。
しかし、そこに並んでいるのは間違いなく一人前の兵士の顔つきで、構えた銃口は間違いなくこちらの胴体に狙いをつけている。
そして、彼らの銃口が、火を噴いた。
刹那、宮本は布津野に襟首を掴まれ、地面叩きつけられるように伏した。
ダッダッダッ、と弾丸の豪雨が、自分の上空を交差する。
「止めろ!」と叫ぶ声が銃声に混じって降り注ぐのを、宮本は確かに聞いた。
旦那の声だ。
目を上げると、少年少女の斉射の嵐の中に、仁王立ちで立つ旦那の姿が見えた。
「止めろ!!」と、布津野は再び叫んだ。
宮本の鼓膜はその声を銃撃音よりも鮮明に脳に伝達した。
それは異様な光景だった。弾丸行き交う絶体絶命の隙間に布津野は手を広げて立ち、声を枯らして叫んでいた。
銃撃が止んだ。
硝煙の匂いだけが、そこを漂っていた。
宮本は周囲に素早く、周囲に目を走らせた。
隊員の三人も、同じく地に伏せていた。戦死と言う言葉が頭を過ぎったが、小さく手を振る姿が見える。どうやら、全員無事らしい。
銃撃が止んで、発砲煙が立ち込める中、その辺りにいる全員が地面に伏せっていた。
敵も味方も全員が銃を抱えて、身を伏せていた。この狭い空間での銃撃戦で立ち尽くすのは馬鹿のやることだ。
しかし、ただ一人、布津野の旦那だけが真っ直ぐと、両手を広げて、辺りを見下ろすように立っていた。
旦那は少年兵たちをまっすぐ見据えると、彼らに向かって歩いていく。
彼らは戸惑いの色を隠せず、近づいてくる布津野の旦那を見上げて呆然としていた。
「どうして、撃ったの?」
旦那の声が、小さく、しかし、まるで世の理を指摘するように重厚に響いた。
「えっ……」と、少年兵たちは絶句した。
しかし、旦那は「どうして?」と重ねる。
「だって、あいつらは銃を持ってたし、こっちに銃口を、向けていたし……それに実際、撃ってきたし、」と恐る恐る、目の前の少年が戸惑いを隠せずに応じた。
宮本は身を伏せながらその光景を見入った。視界の端で千葉が銃を構え直そうとするのを手で制して止めさせる。
撃たれる前に、撃て。それは、鉄則だ。戦場において全てに勝る鉄則だ。たった一つの真実なのかもしれない。
あの少年兵の言う事は正しい。と、撃たれた立場である宮本は全面的に肯定した。
「駄目だよ」
しかし、旦那はそれをやんわりと否定した。
「君たちが戻りたいところはそうじゃないだろ。撃たれても撃たない。殺されても殺さない。そんな平和な世界に君たちは戻りたんじゃなかったのかな?」
沈黙が辺りを支配した。
宮本は立った。
立てば撃たれるかも知れない。しかし、それを恐れずに立ち上がった。
「旦那ぁ、こいつはどういうことだ?」
「宮本さん、良かった。無事でしたか」
「旦那のお陰、ってことにしておくかねぇ」と宮本は口を歪めた。
天井を爆破後、閃光手榴弾と催涙弾で相手を無力化。敵勢力を殲滅し、ターゲットである布津野の旦那を救出し、速やかに撤退。
シンプルで唯一の作戦行動が、宮本達に課せられたミッションだった。
しかし、現実は宮本の想定を遥かに超えていた。
投げ込んだ手榴弾は全て投げ返され、慌てて飛び降り直後に布津野自身にアサルトライフルを払い飛ばされ、敵であるはずの少年兵たちは旦那に叱られて、目玉丸くしてらぁ。
宮本は愉快だった。
人生で一番の痛快だった。
やっぱり、旦那には敵わなぇな!
「旦那、教えてくれや」と宮本は布津野に問いかけた。
「そうしたいけどさ、とても複雑で説明する自信がありません」と布津野は頭を掻く。
「そこの奴らのことは、まぁロクに聞いているがね」
宮本は苦虫を噛み潰したように顔をゆがめる。
ミッションの第一目標は、布津野の旦那の救出だ。そしてサブミッションは中国軍少年兵の無力化だった。
シンプルな作戦だったはずだが、しかし、どういうわけか現場はやはり複雑だ。
布津野の旦那は怪訝な顔して、こちらを見た。
「ロクは、彼らのことを知っているのかい?」
「ああ、多分な。そいつらは……」とそこで宮本は言い淀んだ。
彼らをどう表現するかは非常に危険なことだと、宮本は察知した。
少年兵と呼ぶか、中国軍工作員と呼ぶか、脱走兵と呼ぶか、誘拐被害者と呼ぶか、それによって対応が変わってしまう。
ロクと冴子の表現では、彼らは中国軍脱走兵であり工作員の嫌疑もある、となる。それは正しいのだろう。日本政府としては誘拐被害者という存在を認めるわけにはいかない。
宮本は彼ら少年兵を、改めて見渡した。
いずれも乾いた目をしていた。あちこちに包帯をあて負傷していた。五体満足な者のほうが少ないだろう。
少なくとも、目の前の彼らは工作員であるはずがなかった。
宮本は頭を振った。
いけねぇなぁ。俺は兵士だ。
俺はそういうことを考えちゃ、いけねぇんだ。
「……いや、何でもねぇ」と、宮本はため息交じりに答えた。
「宮本さん、」と問いかけようとする布津野を、宮本は遮った。
「旦那、俺はあんたを助けるように冴子に命令されてんだ。俺達と一緒に来てくれ」
宮本は無理矢理に破顔してみせた。
旦那さえ連れていけば、あとは黒条会のヤクザどもが貧乏くじを引いてくれる。この子達を皆殺しにするってぇ、胸糞悪い仕事を肩代わりしてくれるらしい。
俺ぁ今日は、はやく帰って旦那と酒でも飲みたい。
しかし、布津野はゆっくりと頭を振った。
「いいや、僕は彼らと一緒にいるよ」
布津野が少し笑う。
「僕は、ロクに彼らを会わせたいんだ。彼らの事をロクに知ってほしいんだ」
「……旦那、やめとけ」
宮本は一歩、布津野に近づいた。
予想通りの想定以上の最悪の状態であることを、宮本は悟った。
宮本の口が開き、彼の本音がこぼれ落ちた。
「ロクはそういう奴じゃねぇ」
その発言を聞いた布津野の顔を見て、宮本は恐怖した。
布津野のいつもの穏やかな目が、鋭く燃えていた。不快感とか怒りとか、そういった感情を燃料にして消えることのない、そんな炎がこちらを睨んでいる。
それは宮本が初めて見る布津野の怒った顔だった。
布津野が一歩、宮本に近づく、近づいた怒りを恐れて宮本は一歩後ずさった。
「ロクはまだ知らないだけです」
布津野はもう一歩前に踏み出して、いつもの右半身の構えを取った。
「ただ、ロクは誰からも教えてもらえなかった。命の大切さを、失った時の悲しみも」
「……旦那ぁ」
「申し訳ありませんが、宮本さん。僕は彼らと一緒にいます。ここを離れるわけにはいきません」
「……」
宮本は踏みとどまった。
そして、踏みとどまった自分を後悔した。
目の前の、小柄な布津野の立ち姿が異様に大きく見えた。こうなっては、テコでも旦那は動かないことを宮本は感じていた。
「俺の任務は、旦那を連れて帰ることだ」
「……」
「旦那ぁ、悪いが力づくだ」
宮本はハンドガンを抜き放ち、布津野に向かって狙いを付けた。
急所に当てるつもりはない。しかし、足の一本は撃ち抜かせてもらう。武器を使わずに勝てる相手では、決してない。
「千葉ぁ! 旦那の後ろに回れ、斉藤と桃井は左右。油断するな、相手はあの旦那だ」
宮本の声に応じて、三人の隊員は布津野の周りを四方に囲んだ。
両手に抱えていたアサルトライフルを背中にしまい、ハンドガンを抜き放ちながら布津野を囲む。
布津野はその場をピクリとも動かず、四人に包囲されるまで待っていた。
まるで柳のようにその場に、佇んでいる。幽霊のようなその覇気のなさが、逆に宮本を警戒させた。
――『最強の未調整』
それがGOAで通っている旦那のコードネームだ。
遺伝子最適化を受けていない小柄で貧弱な体躯をもつ布津野の旦那に、世界最強を謳う遺伝子最適化部隊の誰もが格闘戦で敵わない。
それは部隊内における周知の事実であり、憧憬ですらあった。
戦闘を生業とする組織において、徒手格闘における強さとはその実戦的な有用性以上に重視されている。それは、武器を持たない純粋に個人の戦術的価値であり、完全に独立した本人そのものの強さでもあった。
その強さにおいて、旦那は未調整であるのに最強なのだ。
そんな旦那に対する隊員たちの評判はもはや信仰に近いものがあり、旦那のことを『先生』と呼び慕う隊員は数知れぬ。
しかし、だ。
一方で部隊ではある評価がまかり通っている。
如何にあの最強の未調整とは言え、実戦では分が悪かろう。
実戦、つまり何でもあり。
不意打ち、刃物、銃撃、狙撃、集団戦。手段を問わず相手の命を奪う作業において、徒手格闘は、あくまでも、ごく一部の要素でしかない。
如何に旦那とは言え、銃で撃たれてはひとたまりもあるまい……。
宮本は素早く銃口を布津野の足に落とし引き金を引いた。
ダンッ!
手元の銃口が火を噴いた時、布津野の姿は視界から消えていた。
刹那、宮本の意識がはね飛ぶ。
視界が上下に乱れ、顎がはね上がった。強烈な衝撃が最初に、後から遅れてその痛みが体感にいたる。
暗転した視界には火花のようにチカチカと明暗が飛び交っている。宮本は自分がおそらく殴られたことをおぼろげに感じた。
いつの間にか、足が大地についていなかった。
束の間の浮遊感。直後の落下、骨が軋むほどの衝撃に肺が止まった。
ふっと途切れていた意識が戻る。
後頭部に冷たく硬い感触。それは、おそらく床だ。俺は今、仰向けに倒れている。
顔を上げると、そこには桃井と対峙する旦那の姿があった。
桃井はまっすぐ両手でハンドガンを構えている。両者の距離は3メートル、この距離ならブランデーを片手に飲酒射撃でも当たる。ましてや両手の静止射撃、外す馬鹿はウチにはいない。
しかし、桃井の横顔は蒼白だった。ピタリと静止した銃口はGOAの精鋭のそれだが、その唇は明らかに動揺に震えていた。
かすむ視界の端に、うめき声をもらしながら床に蹲っている斉藤の姿が見える。
桃井のハンドガンが火を吹いた。
その火が吹く数瞬前に、まるで桃井が撃つ瞬間をあらかじめ前に予期していたかのように、旦那は一歩踏み込むと同時に半身を切ってそれを躱した。まるでいつものように普通の打撃をやり過ごすように平然と。
宮本は目を見張った。
弾丸は躱すものではない。遮蔽物に身を潜めながら、貫通した弾が自分にあたらない様に祈るものだ。
旦那は踏み込むと同時に桃井のハンドガンのスライドを掴む。オートマチックの排莢機構が妨害され桃井の銃撃が止む。
桃井が後ろに飛び退ろうとした瞬間に、旦那が足を払った。
まるで初めてのアイススケートで滑って転倒したかのように、すてん、と桃井は尻もちをついた。
間を置かずに、旦那の腕がしなり上がって桃井を襲う。
桃井は追撃を恐れ両腕で顔の前を両腕で防いだ。
しかし、旦那の掌底は桃井の横顔の耳の下あたりを正確に、まるで蝿を払うようにパンと叩いた。
その途端に、桃井は動きを止めまるで糸が切れたマリオネットのように、ぐんにゃりとその場に崩れ落ちる。
失神した。
馬鹿なッ! まさか桃井の迷走神経を打ったのか!?
宮本は、徐々に取り戻しつつあった体の感覚を総動員して立ち上がり、もう一度動かなくなった桃井の様子に目を見張る。
確かに、完全に落ちていてやがる。まるで遠足帰りの小学生のようにグッスリだ。
迷走神経は人体の首から腹部にかけて張り巡らされた脳神経の一種だ。脳神経であるのに首筋や腹部にまで延長していることから、迷走神経と呼ばれる。
ここに正確に衝撃を与えることで、迷走神経は過剰防衛反応を起こしその根元にある脳にその衝撃を伝搬する。その結果、人は意識を断絶し気絶する。
要は、映画や漫画でみる首筋に手刀を当てて気絶させるやつだ。
そのような格闘技術自体は決して珍しいものではない。宮本自身、相手の迷走神経への打撃は接近状況における選択しとして十分に体得している。
しかし、それを戦闘態勢の相手にこうもあっさりと決めることなんて不可能だ。通常は、あくまでも不意打ちで使う技術だ。動き警戒を強めている相手においそれと出来る芸当ではない。しかも相手はGOAの最精鋭だ。
第一、迷走神経を突くことが出来るくらいなら、もっと容易に相手を殺す手段はいくらでもある。
宮本は自分の四肢が緊張で硬くなるのを感じた。
布津野の旦那はこちらをチラリと見た。
その普段通りの優し気な瞳に、宮本は戦慄した。
いわゆる個人の純粋な戦闘力において、布津野が自分の想像の遥か上に存在していることを宮本は直感した。
「千葉ぁッ! 生きてるかッ!」
「はい!」
宮本は吠えた。
4人もいたGOAの最精鋭が、わずか十数秒で残り2人だけだ。
身の内にくすぶりだした敗北の予感を吹き消すために、虚勢を張ることを厭わなかった。
千葉は布津野の背後に立っていた。
千葉の両腕に構える必殺のアサルトライフルが、ひどく頼りなげに見える。旦那ならアサルトの連射でさえも、なんとかやってのけるのかも知れない。
宮本はハンドガンをぽとりと落とした。
この距離で、旦那相手に銃器はデメリットでしかない。
銃は攻撃の意図を単純化させる。
引き金を引くという、単一の攻撃手段に行動を制限させられる。
結果、旦那に攻撃を読まれ、付け込まれるのだ。旦那クラスの武術家相手にこの距離で銃器など意味をなさない。
「援護しろッ!」
「ハイッ!」
と千葉に呼びかけながら、宮本は布津野に飛び掛かった。
こちらは二人がかりだ。多少の攻撃をものともせず旦那を掴み伏せれば良い、そうれば圧倒的な体格差で、例えあの旦那でも何とかなる。
布津野がゆらりと動き、カチャ、と聞きなれた金属音に宮本は凍り付いた。
布津野に飛び掛かった刹那、自分の額に押し付けられた冷たい金属の感触に宮本は自分を見失った。
それが、ハンドガンの銃口で、それが布津野の手に握られた桃井のハンドガンであることを理解するのに、宮本は数瞬以上の時間が必要だった。
「……旦那ぁ、そいつはないぜ」
「宮本さん相手に素手では敵いませんよ」
いけいけしゃぁしゃぁと、ほざきやがる。と宮本は内心で毒づきながらも、眉間に据えられた銃口に込められた殺意を測る。
訓練では、何度も旦那とやり合ってきた。
負けること多かったが、勝つこともあった。単純な実力では旦那のほうが上であることは認めてはいた。格闘術の訓練では旦那には敵わなぇ、がしかし、実戦ならまず自分が勝つだろうと考えていた。旦那の射撃の腕前はからっきしだった。
しかし、と宮本は今初めて気が付いた。
――俺は実戦の旦那を知らなかった。
冷や汗らしき緊張が背を伝う。
これが実戦であれば、自分は何度死んだことだろう。
もしかしたら、自分は目の前の小柄な男に手の平の上で何度も転がされているだけなのかもしれない。
いつでも殺せるのを、殺さずに。そうであるのに、自分は実戦であれば負けないと言い聞かせ続けてきた。ただ、それだけなのかもしれない。
もしかしたら、
もしかしたら、これさえも、旦那にとっては実戦ですらないのかもしれない。
「千葉ッ! 構うな!」
千葉が後ろから、旦那に襲い掛かった。
その瞬間、宮本は確かに見た。
まるで、出来の悪い生徒を見るような目でため息をついた布津野の姿を……。
布津野に襲い掛かった千葉は、一瞬で動かなくなった。
布津野は振り向きざまに突きだした拳で、千葉の心の臓を正確に射抜いたのだ。
断末魔のような顔を凍り付かせて、千葉はそのまま落ちた。
「ぜぁッ!!」
宮本は叫びながら、正拳を布津野の背面に突き出した。
それは案の上、空をきり。すでに正面から旦那は消えていた。
宮本は自分の背後から首を締め上げられることを予感して、すぐさま後ろを振り返る。
振り返った瞬間に、布津野の掌底が宮本の顎を殴打した。
首を捻って辛うじて躱すが、脳がわずかに揺れ意識が細く途切れる。足がもつれて、膝をつくと追撃の前蹴りを予感して両腕で顔面を守った。
しかし、蹴りは来なかった。その代わりに、布津野は宮本の手を取って、その小指を握りしめた。そして、ヒョイとそれを捻り上げる。
激痛に宮本は思わず直立した。握られた指は折られてはいない。しかし、まるで小指から神経を絡み取られて、全身を操作されているような錯覚に襲われた。体の自由がまるで効かず、握られた小指とは反対側の手や足さえも満足に動かせない。
布津野が掴んだ手を水平に振ると、掴まれた宮本は為すままに振り回されて部屋の壁に激突した。
即座に布津野の腕が宮本の喉元に押し付けられ、そのまま壁に貼り付けにされる。
ぎりぎりと筋肉の軋む音が宮本の鼓膜に響く。
必死に引きはがそうと腕を取るが、びくともしない。こんな剛力、旦那は訓練では一度たりとも見せたことはない。
「ねぇ」と旦那が語り掛けてきた。
宮本はそれに反射的に「……なんだ」と答えてしまった。
それくらい、布津野の口調は普段通りの自然なものだった。
「宮本さん、僕は間違っているのかな」
「……」その意外な問いかけに、宮本は意表をつかれて抵抗をやめることにした。
「彼らを助けたいと思うのは間違っているのかなぁ」
「……間違っちゃぁいねぇさ」
宮本はそう、布津野に首を抑えこまれながらも答えた。
もはや抵抗はやめた。旦那がその気になれば、俺の息の根を止めることも、頸動脈を圧迫して失神させることも自由だ。
宮本はそう決め込むと、不思議と気持ちが良くなった。ここ最近で一番の晴れやかな気分だ。
「むしろ、この状況であいつらを見捨てるなんて、俺の知ってる旦那じゃねぇよ」
宮本、へっ、と笑いこぼした。そう言えば当たり前のことだった。
この作戦は初めから失敗だったんだ。旦那に勝てるわけ、ねぇだろ。
「……でも、ロクの判断も正しいのでしょう」
「まぁ、そうだろうな」
「宮本さんはどう思います?」
「やめてくれよ、旦那。俺はそんな難しいこと考えれるようには作られていねぇ」
「それでも、僕よりはマシだ」
「どうだろうな。もしかしたら、ロクにも実のところは、分かってないのかもしれないぜ」
宮本は、ふっと体の力を抜いた。
しみじみと染みわたる感覚が体を走り抜ける。ずっと解けなかった問題が、やはり解けなくて、でも、どうでも良くなったような納得感が宮本を癒す。
「最適解なんて、ないのかも知れねぇな」
「……」
「旦那のしたい事くらいしか、ないのかもしれねぇな。正解とかじゃなくてな。みんなが後悔しない選択なんて、それしかねぇんじゃねぇのかな」
「……」
「俺ぁ、疲れたよ旦那。冴子やロクの命令をこなすのに、さぁ」
こぼれ落ちた本音を口にしたことを、宮本は後悔などしなかった。
それは宮本を構成する存在意義を崩壊させる疑問だった。
GOA、Gene Optimized Army、遺伝子最適化部隊、第三世代戦闘特化型調整、ミヤモト型サンプル10番――GOA隊長、宮本十蔵。
そういった名詞が構成する、宮本十蔵という存在の崩壊を象徴するように、宮本の目から熱いものがこみ上げてくる。
「旦那ぁ、サンを殺したのは俺なんだ」
「……」
「ナナと同じような小さな女の子だった。俺を見たとき助けに来たと思って、嬉しそうに駆け寄ってきた。ずっと不安だったんだろう。半分以上ベソかいて、一心不乱にかけてきた。……そいつを俺は、即座に打ち殺した」
宮本の脳裏に、千切れて飛び跳ねる十歳の少女の臓物が浮かび上がった。
あの時、自分に思い浮かんだ感想は何だった? そうだ、確か、肉片を焼却処分するのが厄介だと、初めに思ったんだ。
「俺は、色んな奴を殺してきた。殺して、殺しまくって、平和のために。そう言い聞かせてきた。最近は良く分からない。ロクのいう事が正しいことは頭で分かっているつもりだ。でも、もう体が上手く動いてくれやしねぇよ」
「宮本さん……」
「なぁ、旦那、平和ってなんだ?」
「……」
宮本の問いかけに、布津野は黙ったままだった。
「旦那は、さっきあそこのガキに言った。撃たれても撃たない。殺されても殺さない。それが平和だと」
「そう、言ったね」
「だとしたら、無防備を打ち殺し、無抵抗を殺してきた俺は何だ。俺は何のために、生み出されたんだ?」
「……」
布津野は宮本の拘束を解いた。解放された宮本は、しかし、その場に崩れ落ちる。
布津野は彼の前にかがみこんだ。
「多分だけど、」と布津野は言い淀んだ。「良く分かってはいないのだけど、」と言葉に迷って間を置く。
「何だ」
「うん、多分。そうやって悩むことが出来る人が、ロクの近くにいることを僕はとても嬉しく思います」
旦那は曖昧に笑った。
見慣れた困り顔で、いつものように情けない顔で、ハハッと笑った。
宮本は胸中にわだかまっていた何かを和らいでいくのを感じた。
「……どうするつもりだ、これから」
「ん、実はあんまり考えてなくって」
「相変わらずだなぁ」
「申し訳ありません」
人の命を救おうとしているのに、旦那はいつものようにどこか頼りない。宮本はつられて笑って、息を深くついた。空気は淀んでいるが、酸素が旨い。
「……もう少ししたら、黒条会のヤクザどもがここに突入してくる。黒条会のお嬢さんはロクと取引をした。政府のかわりにここにいる少年兵を皆殺しにするつもりだ」
「……」
「そいつらを助けたいなら、全部を敵に回すことになる」
「それは、大変だ」
「……まったくだ」
まったく危機感を感じさせない布津野の様子に、宮本は息を漏らした。
もしかしたら旦那なら全世界を敵に回したとしても、正しいことをやり遂げてしまうのではないのだろうか。
現実に妥協した最適解などではなく、本当に目指すべき理想解を、
「ロクと連絡が取れないかなぁ」と旦那は頭を掻いた。
「ロクにか?」
「うん、ロクと話がしたいんだ。謝らないといけないこともあるしね」
「ロクなら、ここに乗り込んできているぜ。今頃はニィと会談しているはずだ」
「えっ、そうなのか?」
「ああ、そういう作戦だったはずだ」
「場所は?」
「一階のロビーだ」
そうか、と旦那は立ち上がって、尻をパンパンと叩いて軽く伸びをした。
「それじゃ、はやく会いに行かないと」
まるで家庭菜園で作った野菜を隣近所におすそ分けしに行くように言うと、旦那は奥で息を潜めていた少年兵たちに、「一緒に行こうか」と声をかける。
彼らは互いに顔を見合わせて戸惑っていたが、やがて、ぞろぞろと遠足に引率される小学生のような従順さで旦那の周りに集まってくる。
皆が集まると旦那は部屋を歩いて出て行き、子供たちはそれに大人しくついて行った。
――平和が歩いてやがる。
後に残された宮本は、しばらく座り込んだまま、ぼぅと布津野が出て行った扉を眺めていた。
外からはヤクザ者の怒声や銃声が響いている。
旦那の周りだけが平和だった。
やがて、宮本は腰から通信端末を取り出すと回線を開く、
「こちらガーガー・ワン」
「こちらグランドマザー。ガーガー・ワン、作戦状況はどうだ」
冷徹な冴子の声が鼓膜をつく。
「冴子、どうやら俺達は間抜けなアヒルだったらしい」
「どういうことだ、宮本」
「まずは報告だ、旦那は生きている。安心しな」
「……忠人さんに怪我はありませんか」ぽそり、と冴子の声が確かに潤んだ。
本当に、旦那には敵わなぇな。
あの氷鉄のグランドマザーに、こんなしおらしい声を出させる奴なんていないぜ。
「ああ、全くぴんぴんしてやがる。帰ったら尻でも撫でてもらえ」
「良かった……」と消え入るような声には、微かに嗚咽の声が混じっている。
どうやら俺の軽口を咎めるほどの余裕もないと見える。
宮本は息を漏らした。
冴子を女に出来るのはどうやら旦那だけらしい。旦那で良かったと、本当にそう思う。
「冴子、報告だ」
「……はい」
「旦那は、少年兵たちを助けるつもりだ」
「……」
「無理矢理にでも旦那を連れて帰ろうしたが4人全員が倒されちまった。戦死はいねぇ、みんな仲良く旦那に気絶させられてねんねしてやがるぜ」
「どういう、ことですか」
冴子の歯切れの悪い返答に、宮本は酷くイラついた。
「冴子、旦那を信じろよ」
「えっ……」
「お前は旦那の嫁だろう。だったら信じてやれ」
「……宮本、何を、」
「分からねぇのか。あの旦那が命張ってるんだぞ。お前が答えずにどうすんだ。旦那は少年兵たちを連れてロクのところに向かった。旦那が何をするのかはわからねぇが。少なくとも、旦那は逃げるつもりはねぇ」
「……」
冴子の沈黙に、宮本はハァとため息とついた。
「……旦那のこと、好きなんだろ」
「……はい」
宮本は妙に痛快な気分に突き上げられて、カッカッカッと大声で笑った。