[2-18]怨霊
二ィは廊下を速足で歩きながらも思考を走らせていた。
事態は危急を極めていると言ってよい。
歩きぬけ様に窓から外の様子を見ると、周囲を取り囲む黒いスーツ姿の群れが狼のように展開して数を増やしている。その手には銃が握られており、相当数がアサルトやマシンガンなどの大口径銃を携えていることが遠目に見て取れた。
銃刀法違反を徹底したこの日本において、これほどの大規模展開が可能な裏組織は一つしかない。黒条会だ。
しかし、それは、地方の中国マフィアを襲撃するには異常な数であったし、過剰な装備でもあった。如何に黒条会とは言え、これほど大々的に暴力を展開すれば日本政府も黙ってはいまい。
ざっと見積もって5000人はいるだろう。この包囲網を突破してここから脱出するのはほぼ不可能に近い。
二ィは窓から目を離さず、隣にいる女の兵卒に語りかける。
「榊上士! 黒条会の勢力規模をどう見る」
「数は5000~8000。さら数を増やしているところから、それ以上にいるかと。装備は拳銃の他、小銃、散弾、連発もあり。黒条会の総戦力かと思われます」
「突破の可能性は」
「二ィ隊長に不可能はありません」
「……まぁ、正攻法では切り抜けまい」
二ィがそう呟くのを、周りの兵卒は一切の不安気な様子も見せずにただ頷いた。
彼らはこれ以上の困難と不可能を何度も見てきた。そしてその度に、この目の前の白髪の少年とともに突破してきたのだ。この程度の状況なら、中国からカンボジアを経由し日本にいたるまでの逃避行のうちに何度も見てきた。ものの数ではない。
しかし、と二ィは口の中で呟く。
数が多すぎる。展開も早すぎる。黒条会の対応は想定内だが、想定以上に速く徹底している。異常とも言える。
数日前に面会した黒条会のトップ、黒条百合華のことを思い出す。
目算で二十歳前後の若い女だった。鋭い眼光に溢れる知性を柔らかく口元に浮かべた笑みで覆い隠したような人物。こちらを値踏みするような目つきは気に入らなかったが、しかし、油断ならぬ相手であることを感じさせた。
あの女、余計な事を……。ここにロクをおびきつもりであったのに、計画を修正しなければならなくなった。
それにしても黒条会が、これほどに過剰な対応する動機は一体何だ。
二ィがさらに思考を加速させようとした時、携帯端末の着信音がそれを邪魔した。
「喂,是什么样的事情。黒条会的家伙来了(おい、これはどういう事だ。黒条会の奴らが現れたぞ)」と端末から大声が飛び出す。
二ィは小さく舌打ちをした。
このビルの所有者、中国マフィア青蛇団の首領からだ。
「和计划相同(これも計画の内です)」と適当に答えておく。
「是计划的话不要把我们卷入(お前の計画なんぞ知るか。巻き込むんじゃねぇ)」
「那个是到共产党的叛逆(つまり、共産党に反逆するおつもりで)?」
「……见鬼!(くそっ!)」
潮時か……、と二ィは耳元でがなり立てる青蛇団の首領の悪態を無視しながら目を細めた。
青蛇団に潜伏する形でここを一時拠点としてきた。それは中国共産党の工作員を偽装する上でも好都合だったからだ。中国からの脱走兵であり諸外国の誘拐被害者である自分達を日本政府が受け入れる可能性は限りなく低いと、二ィは読んでいた。
政府としては絶対に戦争を避けたいのが現状だ。日本の国際的孤立に加え、大国のほぼ全てが何らかの形で誘拐に関与している。日本政府が中国に対してこの事実を非難しても、国際的な理解と合意は得られるわけがない。全員が犯罪者の場で犯罪を告発してももみ消されるだけだ。加えて、一部の国や宗教団体などからは遺伝子最適化を受けた人間は、人間ではなく人工物であり人権は存在しない、などという暴論さえあるのだ。
政府としては、48名程度の犠牲でこの事態を解決できるのであれば、それは十分に合理的と考えるのが妥当であろう。
ゆえに、自分達の苦境を政府に訴えても無意味であり、日本国民の世論を操作して政府の意思決定を引き出す必要がある。やり方は簡単だ、自分達の存在をメディアに漏洩拡散すれば良い。現政権に反対の立場をとり純人会の影響が強いメディアに対して行えば、遺伝子最適化の弊害として積極的な報道が期待できる。
しかし、それでは日本政府としても中国に対して強硬な態度を取らざるを得ない。戦争に発展する可能性は極めて高い。
二ィは長く中国の首脳部と関わってきた。実験の被験体として扱われたこともあれば、尋問対象として会ったこともある。時には夜伽の相手を命じられ、ベッドで共産党の高官どもに抱かれながら上層部の情報を聞き出してきた。
中国首脳部は明らかに主戦派が多数を占めている。
「……喂,在听吗?(おい、聞いてるのか?)」耳元の端末から不快な声がした。
二ィは「黒条会正叫什么?(黒条会は何と言ってきているのです)」と返した。
「解放叫布津野的家伙、言正来(布津野とか言う奴を開放しろ、だとよ)」
「布津野さんを……」
どういうことだ。
なぜ、布津野さんの存在を黒条百合華が知っている。
なぜ、布津野さん一人に黒条会がこれほどの戦力を投入する。
窓の外に展開されている黒条会の構成員はまだ数を増やしている。銃刀の類も隠すこともしない。これほどの大規模で明白な抗争を警察が見過ごすわけがあるまい。事態はうやむやにすることが出来ないほどに激化してきている。
黒条百合華はこれほどの組織リスクを支払って、布津野さんの解放を要求してきている。
「和那个、让白发的小家伙见、家伙说这里带『最適解』了、言正来(それと、白髪の餓鬼に会わせろ、こちらも『最適解』」を連れてくる、だとよ)」
「……ロクか」
二ィは合点を見つけて、口の端が思わず引き上がる。
おそらくロクが黒条会を操作してこの大抗争を演出しているのだろう。この問題を暴力団とマフィア間の抗争に仕立て上げ、全てを闇雲のうちに消し去る算段だろう。
それほどまでにして、あいつは布津野さんを取り戻したがっているという事だ。
しかし、敵ながらなかなか良い手と認めざるを得まい。政府が関与しない暴力団が中国工作員を皆殺したのであれば、対中国交渉においてもシラを切れる。
驚くべきは、ロクが黒条会を手なずけていたということだ。三年前まではロクの手駒に黒条会はいなかった。裏社会を利用するとはロクらしからぬ、がその有効性に気が付いたらしい。おそらく、この数年で手に入れた人脈であろう。
そうこなくてはな、最適解。
二ィは携帯に向かって嬉しさを隠しきれずに続けた。
「集合地点?(会合場所は?)」
「是一楼的大厅。已经家伙正到(一階のロビーだ。もう奴らは着いている)」
「知道了。这里打仗。如果不想死的话,离去(分かった。ここは戦争になる。死にたくなくば、去れ)」
「喂,……」
二ィは返事を聞かずに電話を切り、足で床を蹴り出して、風を切るように前を突き進む。不思議と足が軽い。
この逃避行も溺れ続けた三年間も、ようやく終わろうとしている。
迷いは全て布津野さんに押し付けてきた。
目の前の廊下の向こうに両開きの扉が見えてきた。その向こうはロビーには、父親を助けに来たロクがいるのだ。
――俺は、俺達は亡霊だ。
ロクがサンを殺した通り、俺たちは死ぬべき存在だ。戦争を避けるための小さな犠牲。ほんの些細な、大部分の人がその存在を知ることのない、知るべきではない、すり潰されるようにモミ消されるべき必要悪だ。
だが、ロクよ。侮るな。
俺はただの亡霊じゃない。怨霊だ。
サンのためにも、ただで消えるわけにはいかない。お前に憑りつき祟り、呪い殺してやろう。
二ィは目の前まで迫った扉を、両手を広げて押し開いた。
その開けた視界の真ん中には、ソファに腰かけ前かがみになってこちらを睨みつけるロクがいた。
ロクの周りには何人かの人間がいたが、二ィはロクしか見ようとしなかった。
ロクが開口一番、鋭く問いかける。
「父さんはどこだ、二ィ」
二ィは嗤った。声をあげて哄笑した。
あのロクが、最適解が、日本政府の最高意思決定顧問が、
口を開くなり、国家危急の一大事を目の前にしながらも『父さんはどこだ』と問うたのだ。それがお前にとってどれだけ異常な事であるか、ロクはどの程度認識できているのだろうか。
「どこだ、とは随分と哲学的な問いだなぁ。ロク」
「お前の戯言に付き合っている暇はない。お前は詰んでいる」
「詰んでいる? そうさ、俺は詰んでいる。そもそもゴールなんてものもない。そう言えば、お前のゴールはなんだ? 教えてくれよ」
「問答の余地はない。父さんを返せ」
「そうか、そうか。それがお前のゴールか」
二ィは笑いを押しとどめるように顔を両手で覆い、甲高い声でハァーと深く息を吐いた。
やはり布津野さんは最高だ。
ロクを、最適解をこれほどに歪ませる存在がこの世にいたのだろうか。
やはり、そうか、俺は間違っていなかった。
あいつらを助けることが出来るとしたら、それはただ一人。ロクを絶望に落とすことが出来るのも、布津野さんだけだ。
二ィの視界の端で、ロクの横に座っている黒い女が足を組み替え、頬づえつきながら問いかけてきた。
「お久しぶりね。白髪の君、まさかこんなに早く再開するなんて思ってもみなかったわ」
黒い長髪が印象的なその女の正体が黒条会の頭目である黒条百合華であることに、二ィはすぐに気がついた。
ふと周りに気を配ると、ロクが連れてきた人間が目に入ってくる。
さっと見渡して目につくのはロクを含めて6人、奇妙な一団だ。如何にも歴戦の極道風の壮年の男が一人に、若いが油断のない顔つきをした長髪の男。この二人はおそらく黒条会の幹部だろう。
しかし、のこりの二人は何者であろうか。若い十代の男と女が一人ずつ。一見、普通のように見える。女は背が高く短髪で色気のないジャージ姿だった。男は短く刈り込んだ金髪でがっしりした体をしている。二人は、まるで普通の高校生のようであり、なぜ彼らのような少年少女がここにいるのか、二ィには検討が付かなかった。
しかし、二ィに油断は微塵もない。なぜなら自分自身も、また自分の後ろに控える信頼している戦友も、まだ十代の少年少女であり、その実戦能力は世界トップクラスであることを自負しているからだ。
二ィは彼らの正体を知らないが、その二人の少年少女は紅葉と鬼瓦丈一郎だった。百合華は随伴を紅葉に頼み、紅葉は丈一郎も連れてきた。自分も連れて行ってほしいと自ら申し出た丈一郎を紅葉が請け負ったのだ。彼女曰く、丈一郎はモドキーズでもかなりの腕利きなのらしい。
他の百合華の側に控えている壮年の男は若頭の鬼瓦丈造であり、近くにいる長髪の若者はその補佐役の真田だ。こちらは百合華の要請に応じた形になる。
百合華はメンバーを少数に絞った。それはロクの判断でもあった。
作戦のためには二ィを交渉の場につかせ、布津野から引き離さなければならない。二人がもっとも警戒していたのは、人質を盾に引き籠まれてしまうことだった。その場合は、二ィと布津野が一緒にいる状態に対して強襲奪還という人質の命を掛け金にしたギャンブルに出る必要がある。
「奇妙な顔ぶれだな、黒条の」と二ィは百合華に問いかける。
「貴方の連れほどではございませんわ。一見しますに、年端もいかない少年少女のようですが、面に張り付いた表情は修羅場をご存知のよう。しかも、日本人ですわね。貴方達の経緯を知りたいところですが……」
ロクだけに集中していた二ィの目線は、その隣に座る百合華に移動した。
百合華は彼の視線を真っ向から睨み返して、先ほどまで浮かべていた笑みを打ち消した。
「布津野の兄様は、もちろんご無事でしょうねぇ。もし、万が一、兄様の身に爪一つ欠けるようなことがあれば、ねぇ」
百合華の手があがりその艶やかな黒髪をかき上げる。露わになったその整った容貌は先ほどまでの笑いから一変していた。細められた切れ長の瞳が切り付けるように眉間の皺を深く刻み、細めた眼には刃のような眼光がのぞく。百合華は顎をあげて露わになったその細首に爪をあて、すぅーと横に引いてみせた。
彼女は二ィを見下しながら、普段のそれとは別人のような低くドスを効かせた声を発した。
「……てめぇら如き小童どものなめ腐った性根。叩きなおした上でぶち殺す」
その恐喝を二ィは正面から受け止める。
百合華の目は笑っていない。唇がわずかに震えているのが分かる。高ぶった感情を制御しきれていない。
……布津野の兄様、と黒条百合華は言った。
「兄様とは……。そこにいるロクの父親のことか?」
百合華の目が刃のように鋭く光り、無言で肯定した。
二ィは細く息を吸い込む。
張り詰めた周囲の緊張は決壊寸前だった。この緊張が保たれるかどうかは、二ィの次の一言にかかっている。
おぼろげに、二ィは感じていた。
溺れてもがき苦しんでいた自分が偶然に攫んで縋ったあの人は、想像以上の大人物だったらしい。政府の最高意思決定顧問も、裏社会の元締めも、己の責務と相当のリスクを投げ売ってここに集っている。
自分は間違ってはいなかったのだ。そうでなければ、この八方塞がりの状況を打破することは出来ないのだから。
「さて、布津野さんが無事かどうか、ねぇ」と二ィは周囲に目を見渡す。
ロクや百合華だけではない。この場にいる黒条会の関係者の表情はみな険しい。
二ィは目の前で両手を組んで、一呼吸だけ整えた。
一瞬にして、彼は血の気が引くように冷静になる。全身が凍ったように冷たい。まるで、その身を流れる血が作り物の偽物のような気がするほどに。
二ィは目線を前に伸ばして、ロクを見た。
ロクはまっすぐこちらを見返してくる。
さて、どう答えるべき、か……。
その時、二ィはある事に気が付いて、絶句した。
ずっと自分の胸にわだかまっていたはずのロクへの恨みが、わずかに和らいでいた。
ロクの顔を見ても、激して抑えられぬ感情が沸きたってはいなかった。否、感情は沸き立っている。しかし、それはどこか山の湧き水のように静かであった。長い間、苦しみ続けたはずの溺れるような増悪の濁流が、潮が引いた朝焼けの海のように穏やかだった。
――俺は、まさか、許せるのか。
よぎったその思いつきに、二ィは恐怖した。
では、何のために、俺はここまで来たと言うのか。
目の前が突然ふさがれた様な混乱に、二ィの思考は途切れ、飛躍する。
無意識に口が開いた。
「ロク、もしも、だ。もし、俺達が中国の工作員ではなく、例えば日本への帰国を望む、そう、亡命希望者なのだとしたら。お前はどうする」
「……」
ロクの目は変わらず、二ィを睨みつけている。
二ィは後ろに控える仲間が息を呑む圧力を背中で感じた。
周囲を押しのけ潰すような沈黙が広がっていく。その中心にはロクがいた。彼は微動だにしない。まるで、二ィの言った事が聞こえなかったように、片手で口を覆ったまま、二ィを睨みつけていた。
「答えろよ、最適解」
「……」
ロクは目を閉じて小さく息を吐いた。そして、おもむろに口を開く。
「お前たちが、誘拐された日本人で構成された中国人民解放軍の鬼子実験部隊に所属し、中国政府の最適化個体の軍事能力の分析実験や戦術開発に参加していたことは把握していた」
二ィの後ろに直立不動で控えていた兵卒がざわついた。
しかし、二ィは表情ひとつ変えることはなかった。
「……つまり、日本政府は俺達の存在を知っていた、と」
「いや、日本政府は知らない。このことを知っているのは僕とごく一部の諜報に関係する者だけだ」
「いつからだ」
「二年前。お前が鬼子実験部隊に配属された時からだ」
「そう、か」
二ィにはそれだけで全てを察することが出来た。
つまり、ロクは中国共産党とその軍部内に独自の諜報網を持っている、と言うことだ。それを介して、誘拐された子供や自分がどのような扱いを受けているのか、ロクはずっと前から把握していたのだ。
おそらく、こいつは全てを知っている。否、全てを知っていた。自分があそこで受け続けた辱めも、死んでいった同胞たちの数も。こいつは高見から見物しながら冷静にその数を数え続けていた。
ロクの冷静な声が、二ィの鼓膜をなぶる。
「誘拐された第七世代の動向を監視しないわけにはいかない。お前が中国共産党に攫われてから、共産党内部の諜報網は重点的に強化してきた」
「……俺達の正体と今の状況はもう知っている、と」
「全てを把握していた訳ではない。鬼子実験部隊が姿を消し、お前の行方が分からなくなったことは報告を受けていた。当初は中国軍が鬼子実験部隊を解散したのではないかという見方が強かった。この実験部隊は、中国共産党内でさえ非人道的だと批判も強かった。……それがまさか日本に入国し、中国マフィアに潜入していたとは、そのことを知ったのは昨日のことだ」
「そうか、知っていたのか」
二ィは、腹の底からせり上がるような胸やけと吐き気に襲われた。それは嫌悪と憎悪が混ざった粘りつく何かだった。
腹立たしい事に、一瞬でも、自分はロクを許せるかも知れないと感じたのだ。しかし、ロクと会話するとそんな幻想も、それこそ塵芥のごとく一瞬で吹き飛んだ。
目の前の最適解は、自分の敵だ。明確な仇だ。
サンを殺し、自分達の惨状を把握しながらも放置し、隠蔽しながらも監視する。
それは人間のやる事ではない。
人間っていうのは、そうだ、布津野さんみたいな人のことを言うんだ。
俺が、一瞬とは言え気を迷わせて、許せるかもしれないなどと言う幻想を抱いてしまったのも、きっと布津野さんに出会ってしまったかもしれない。
二ィは組んだ両手をほどいて口を開く。
「ロク、俺達は、」
二ィは一呼吸、整えた。これが最後の確認だ。分かり切った事の不毛な確認だ。
そして、それが終わった後、俺はこの最後の迷いを切り捨てるんだ。
「俺達は、日本政府に保護を求める。俺達は中国共産党に誘拐された日本人だ。こいつらを元の平和な世界に、返してやってくれ」
空気が止まった。
まるで時さえ、その刻みを止めてしまったかのようだった。
しかし、その空白は長くは続かなかった。
数瞬の間だけを置いて、ロクが、まるで壊れがちな古時計の秒針が気まぐれに一瞬だけ止まり、そしていつも通りに動き出すように、口を開いた。
「……残念ながら、お前たちの存在を認めるわけにはいかない」
ロクの声色はひどく冷たく乾いていて、あらかじめ決められた台本を読み上げているかのように二ィには感じられた。
「それは、国益のためか?」
「日本は今、戦争をするわけにはいかない。戦争の可能性を高めるわけにはいかない」
「そのために俺達に犠牲になれ、と?」
「お前たちを家族に元に返すわけにはいかない。被害者の家族がどのような反応を起こすか、想像することは容易だ。日本政府に対応を求めるだろう。それは当然であるが、国民の命を消費する事になる」
「俺達は……、今まで耐えてきた。ロク、俺達が今まで、自ら自分達の存在を隠し、ここまで来た理由が分かるか」
「……」
「分かるだろ、最適解なんだから」
二ィは懇願するように、最後の言葉を絞り出す。
「戦争を回避するために、あいつ等だって、ギリギリまで耐えてきたんだ!」
「……」
ロクは目を閉じた。眉間にシワを寄せて、しばらく押し黙る。
やがて目を開けた時には、しかし、彼の表情は相変わらず冷たく、乾いていた。
「お前たちの配慮には感謝する。しかし、お前たちの存在が万が一、国民に知られれば日本は戦争に向かっていく。これは日本と中国との戦争に止まらない。有史以来の初めての、最適化個体と未調整の戦争だ。それは白色化計画における最大の懸念だ。断固阻止しなければならない」
二ィは腹に落ちる冷たい氷鉄の塊を感じた。
そして、二ィはその時初めて解放された。彼が抱え続けた腫瘍のような何かが切り落とされた。
疑念が確信に、迷いが決意に、希望が絶望に、期待が殺意へと……全てがようやく一つに落ち着いた。
感情も思考も凍てついた中で、二ィは布津野の言葉をふっと思い出した。
――ロクは人の、一人一人の命の重さをまだ知らないから、
まったく、貴方って人は、未調整のくせに、何にも知らないくせに、真実だけは知っている。
――それを知って欲しいんだ。
……でも、俺はロクを許せそうにないです。ごめんなさい。
「そう、か」と二ィは口を震わせながら、かろうじて声を発した。
右手で自分の額をがっと掴み、心の中で大声を出して念じた。
ロクは絶対に殺す。絶対にだ! 絶望の中で、最高の死をくれてやるんだ! アイツが一番に傷つく言葉はなんだ? 突き付けてやるんだ。あの鉄面皮が剥がれ落ちるような絶望を……。
二ィはやがて、その言葉にたどり着く。
「ロクよ……謝らないといけない事がある」
「……」
「布津野さんは、殺してしまったよ」
ロクの変化は劇的だった。
あの鉄面皮が破砕されたように剥がれ落ちた。覗き見えるその口はわずかに空いて閉じるを忘れ、目の焦点は地平線を眺めているかのように揺らいで定まっていない。
二ィは全身に絡みついた憎悪がかき消されるような充足を感じた。
正義を振りかざし、幾人の人間を見殺しにしておいて、なお平然と正論を語るあの怪物が、まるで人間の子供のような呆けた顔で微動だにしていないのだ。
愉快だった。歓喜に震え、悦楽に溺れる思いだ。これが幸せか、と二ィは思わず歪めた口の端から言葉を紡ぎ出す。
目の前の怪物に負わせた心の傷を、深く深くえぐるために。
「拷問をやり過ぎたんだ。約束の三日間まで全然持たなかった。まさか、あの程度で死んでしまうなんて思わなかった。最初に指の爪を剥いで、小指から順に第一関節、第二関節と丁寧に折り砕いていった。ぎゃあぎゃあと煩くてねぇ、こんなのまだ序の口だと言うのに。堪らないから舌を切り落としてやったんだ。そしたら今度は、あーあーと幼児のように呻いて、まぁ少しだけ煩くなくなった」
ロクの表情が、まるで自分が同じ拷問を受けているように苦痛に歪む。
二ィは愉悦に震えて、息を吐く。堪らない、もう耐えられない。生の充足と死の安寧が同時に混在している。
もっとだ、もっともっともっと……
「その後に歯をペンチで一本一本抜いてやった。当然だが麻酔なんてしてない。これはお前に対する八つ当たりの拷問なんだから。三日できっちりと死ぬように苦しみを最大化させるのは、俺でも難しかった。耳と鼻をそぎ落とすと、ブサイクなあの顔も多少は整ってきた。随分とのっぺり顔になってしまったけどね。その後は……確か。左足首を切り落として、肩の皮をはぎ取ったんだ。丁度その辺りだったかな? 俺も少し興奮してしまって冷静さを欠いてしまった。突然、動かなくなってしまった。応急処置はしたんだぜ。でも、無駄だった。ロク、本当に申し訳ない。未調整の脆さを考慮に入れてなかった、僕たちならもっと辛い……ッ」
音も無く、ロクは二ィに飛び掛かった。
ロクの振り下ろす右拳を、二ィは寸前で受け止める。その拳は恐ろしい重さで、二ィは耐えきれず体を崩してソファから転がり落ちた。
それを見下ろして、ロクが吠える。
「二ィ!!」
「ロク!!」
二ィも素早く態勢を整えて、ロクに相対した。
ロクが追い打ちで繰り出した前蹴りを、二ィは両腕を交差させて受け止めながら、後ろに飛び退りながら受け止める。
二ィが着地した直後を、ロクの足払いが襲う。
二ィは前足を踏み込んで、ガッとそれを受け止めた。同時に拳を互いに差し込み交差させる。
ロクの怒りに歪んだ憎き顔が、二ィの目の前にある。
「父さんは! 父さんは!」
「お前が殺したんだ。見殺しにした! サンのように! 俺達のように!」
二人はまるで、互いに近くにいることを嫌悪するように、互いに後ろに飛んで距離を取る。
ロクの構えは右肩を前に出した半身構え、二ィは深く重心を下ろした左半身の構えで対峙した。
二ィは激情に突き動かされながらも、ロクの構えを見た。
ロクの動きは明らかに、特殊な鍛錬を、それも相当な練度で重ねたものだった。人民解放軍の実験部隊で数年間、戦闘術を叩きこまれた二ィは、ロクの構えに一分の隙もないことを察していた。
二ィの周りにいた兵卒たちは、咄嗟の出来事に対応が遅れていたが、ここにきてようやく反応をした。銃を取り出し構えようと動き出す。
それを、見た二ィが声を張り上げた。
「手ぇ出すな!」
よく訓練された兵士は、条件反射で硬直する。
「こいつは、ロクは、俺が殺す!」
二ィの言葉が、辺りを支配していた。
それに呼応するように、ロクは黒条会の人間に声かけた。
「黒条会長、紅葉先輩、……止めてください」
黒条百合華の手にはいつの間にか拳銃が握られていた。その銃口はピタリと二ィの頭に据えられている。
鬼瓦丈造と真田も拳銃を構えている。その銃口はすでに二ィが連れてきた兵士に定められていた。
紅葉もいつの間にか、二ィの後ろに立って構えを取っていた。紅葉の背後には、寄り添うように鬼瓦丈一郎が控えている。
二人の目は、暗く沈んでいた。
「僕に、やらせてください」と、ロクは食いしばった歯の間からそう絞り出した。
百合華は目を閉じると、拳銃を下ろすと手を上げていつの間にか前に出ていた鬼瓦丈造と真田に合図を送る。鬼瓦丈造と真田は兵卒が二ィの指示通りに直立不動であることを確認すると、スッと銃を引いた。
渦巻く視線の中で、二ィとロクは対峙していた。
二人の白髪赤目の少年は、まるで世界には二人しか存在しないかのように互いに相手だけに集中していた。
その二人の姿は、まるで神話のように美しかった。