[2-17]誤差
二ィが布津野から決断を聞かされたのは、48人の誘拐被害者が詰めている大部屋に布津野の様子を覗きに来た時だった。
二ィは部屋に入った瞬間、ある種の変化を感じた。何かがいつもと違う。ここはもっと鬱屈として重々しい暗がりだったはずだ。絶望の底で蟲のように仲間たちと這いずり回る、そんな場所だったはずだ。
しかし、今のそこはそう言ったおぞましさが和らいでいた。俯いてしたばかりを見ていた仲間たちの視線が高い気がする。そしてその視線が、目の前の不思議な未調整に集まっている気がする。
その目の前には、相変わらず自信なさげに笑う布津野が立っていた。
「ロクに彼らを会わせる、ですか」
「いや、ロクに彼らの話を彼らから聞かせたいんだ」
「はぁ」
「きっと、うん。ロクだけじゃダメだと思う。冴子さんやナナも、みんなで彼らのことをもっと知る必要がある」
「必要ね……」
二ィは顎に指を当てて、眉をひそめた。
「布津野さんは、結局のところ彼らをどうしたいのですか?」
「助けたいよ」
「知っていますよ、貴方は偽善者ですから、」
布津野は困ってしまって、頭を掻いた。
その布津野に向かって言い聞かせるように、二ィは言葉を叩きつけてみた。
「彼らを助けるのは簡単です。メディアに彼らの存在を明らかにすれば良い。国民感情を中国憎しと焚き付けて中国との戦争に向かって突き進めばいい」
「戦争も嫌だよ」
「好きだと言う人はいませんからねぇ」
特に、貴方は本当にお嫌いでしょう。と二ィは歪ませた口の中で呟いた。
「結局のところ、貴方は彼らと戦争の二択を決断することが出来ない、ということでしょうか」
「そうかもしれない」
「ええ、そうでしょうね。でも事実、決断するのは貴方です」
「どうして、」
「俺が選んだからですよ」
ニィはそう即答し、間髪を与えずに続ける。
「俺たちが中国人民解放軍を、まぁこれは中国軍の正式名称なんですが、その中国軍を脱走したことで、俺たちのような存在に対する何らかの対応はいわゆる国際問題になります。他国の犯罪行為を具体的に裁く行為のことをすなわち、戦争といいます。一昔前に世界の警察を自称したアメリカ合衆国という新興国家がありましたが、彼らはこの戦争を、特に自分よりも弱い相手に対して頻繁に仕掛けていましたよ」
二ィはわざとらしく肩をすくめて、意地の悪そうに口を歪めてみせた。
「救おうとした命よりも殺した命のほうが多いなんて皮肉を、幼稚な正義感で誤魔化していた米国覇権的平和という時代です。そして、今、世界の強国は間違いなく日本です。しかしそれは経済的な優位性のみです日本経済支配は、さて、戦争という暴力を前に、どうなるのでしょうか?」
おどけ気味に首を傾げてみせた二ィの目は、しかし真剣なものだった。
布津野は頭をふる。
「僕には、よく分からないよ」
「ええ、しかし、事実として決断するのは貴方です。貴方が彼らを助けるというのであれば、中国および諸外国の最適化個体の誘拐と彼らの惨状を公表すれば良い。戦争を回避したいのであれば、それこそロクにこの事実をリークすれば終わりです。ロクがGOAを使えば、暗黙裡の内に俺たちを皆殺しにすることは容易ですから」
「……二ィ君はどうしたいんだ」
くしゃりと二ィは顔を歪めて、急に声を大きくした。
「残念ながら、俺は迷っているんです。溺れるようにね。中国軍から脱走し、皆と海を渡って日本のアスファルトを踏みしめた今でも、俺は溺れ続けている。だけどね、俺が確かにやりたいことは一つだけあるんです。明らかで明白な事が、たった一つです」
「……」
「ロクへの復讐です」
彼はまるで布津野がロクであるかのように睨みつけた。
「……結局のところ、貴方では決断できない、そういうことでしょうか」
「分からないよ」
布津野は二ィにたじろぎながらも、しかし、彼をまっすぐ見据えた。
「……でも、僕にも一つだけ明らかなことがある」
二ィは無言で顎を動かして、その続きを催促する。
「それは、上手く表現できないけど……。ロクが二ィ君のその怒りとか苦しみとかを理解しないままに他人の運命を左右するような事を決めてしまうことがダメだと思うんだ」
「……」
「二ィ君の言う通り、ロクが彼らの存在を知れば、邪魔だと思うかもしれない。戦争で何万人死ぬくらいなら、彼らを見捨てた方が効率的だとか、そんな判断をするのかもしれない。でも……そんなのは、僕は嫌だ」
「……嫌、ですか」
二ィは髪を掻き上げながら、布津野を覗き込む。
「これは決してロクを擁護するわけではありませんが、あいつは貴方が嫌だとか好きだとかそう言った理由で判断を変えるような、そんな存在ではありませんよ」
「それは、分かってる」
「あいつは政府の最高意思決定顧問です。あいつの決断には常に何千、何万もの人の運命がその秤の上に載せられているんです。そんなあいつが、この部屋にいる、たった48人の日本人なのか中国脱走兵なのか良く分からない、戦争の火種たちを、秤にすら載せるわけがないでしょう。そんなものは誤差です」
誤差か、例えば1000人と48人を比べたとき、48人は確かに誤差かも知れない。それでも1人1人には思いとか希望とか苦しみとかがあって必死に生きたいと思っている。
そう言った事実を無視して単純に数で判断することは正しいのだろうけど、ロクがそういう判断をすることは、何となく嫌だ。とても嫌だ。
「ロクが多くの人のために行動していることは、多分、僕には十分には分かってやれることは出来ないけど、でも……」
すぅ、と布津野が息を吸い込む音が二ィの鼓膜を撫でた。
「ロクは人の、一人一人の命の重さを、まだ知らないから、」
二ィは眉間にしわを寄せて、片目をゆがめた。
向いには曖昧な表情をした布津野の、意外なくらいハッキリとした光を宿す瞳がある。
「それをロクに知って欲しいんだ。ロクが大勢の人の運命を左右するような存在ならなおの事、秤に載せている命の一つ一つの実際の重さを手に取って、感じて欲しいんだ。左が48人で、右が何万人だから右が重要で左は無視するなんて、そんな数字だけで人の運命を判断するような大人に、僕はなって欲しくない」
「ムリですよ」と反射的に二ィは口にして、「不可能です、あいつは最適解だ」と自分の言葉を追いかけるように重ねた。
「そう、かも知れない。でも、ロクを信じたい」
「……大体、それはあいつを苦しめることになりますよ。あいつの判断で死んだ人間は、もう何百、何千といるのですから。逆に救われた人間は何千万人といるでしょうけども」
「それでも、ロクならきっと大丈夫だと思う」
「結局、貴方はロク任せですか……」
二ィは、はぁと溜息をついた。
こんな結論を、もしかしたら自分は聞きたかったのかも知れない。予想の範囲内の曖昧な決断に、しかし彼は自分でも驚くくらいに失望はしていなかった。
結局、やはりと言うか、布津野さんは切り捨てない事を決断したのだ、彼は自分と違って48人の命を抱えて、溺れ、もがき続けることを決断したのだ。
そして、自分も決断したはずだ。この人に全てを委ねる、と。溺れもがく事に耐えきれなくなって、無責任にも彼に全てを押し付けたのだ。
二ィは携帯端末を取り出して、それを布津野に差し出す。
「それは?」
「貴方の端末です。お返ししますよ」
布津野は差し出されたそれを受け取った。裏表を確認すると、確かに自分のものだった。
「俺は貴方に決断を委ね、貴方は決断しました。決断というよりも、願望みたいでしたけどね。それでロクに連絡をとればいい、後は貴方の好きにしてください」
「二ィ君、君は……」
「俺は俺の好きなようにしますよ。 さて、……諸君! 傾聴!!」
二ィが突然声を張り上げると、部屋にいる全員が、ザッと一瞬で立ち上がり二ィの方に向かって敬礼を掲げた。
その様子は、先ほどまで布津野が話していた絶望に疲弊しきった少年少女のそれではなく、幾度の修羅場を潜り抜けた精兵の顔つきだった。
張りつめた空気に布津野は思わず後づさる。自分が二ィと彼らの間にいることが憚られるような気がした。
その空気の中を、二ィの凛とした声が走る。
「長きにわたる潜伏の時は終わった。俺は決断に迷い、諸兄には不安な思いをさせた。これより、我々、第二鬼子実験排、一から五班は当初の予定通り帰国組と残留組に分かれ行動を別にする。……帰国組の諸君!」
「「はっ!」」
部屋にいる大部分の少年少女から鋭い返答が、辺りに響き渡る。
「諸君はここにいる布津野氏の指示に従え。彼は日本政府の最高意思決定顧問、布津野ロクの父親であり彼とコンタクトの取れる人物だ。長い間、ご苦労だった。諸君らと過ごした苦難の日々、もはや語るまい。ここは平和な祖国だ、しかし、奇怪な運命にあった諸君らが一般的な幸福を得られるかどうか、そこには困難な闘いがあるだろう。健闘を祈る」
「「はっ!」」
「残留組の諸兄!」
「「はっ!」」
今度は、先ほどよりも随分と少数ではあるが、十分に声変わりを終えた精悍な声が響き渡る。
「今一度、この祖国に帰還することを考えよ。俺について来てくれる事は嬉しいが、しかし、俺にはお前たちと一緒に為すべき事も報いる物もない。そこの布津野さんは俺が見込んだ男だ。きっと、悪いようにはならない」
しかし、二ィのその言葉には何も返答がなく、無言で否定された。
二ィはあきれたように溜息をつくと、布津野のほうを振り返った。
「布津野さん、頼みましたよ」
「……ああ」
突然、ルルゥと着信音が鳴り響く、それは二ィの胸元から聞こえてきた。
二ィは自分の端末を取り出し、耳にあてた。
「どうした……、何、黒条会が……分かった」
そう言いながら、二ィは部屋を出ていった。
残留組と呼ばれていた五、六人がその後に追従してバタンと扉を閉めた。
後には、布津野と残りの少年少女だけが部屋に残された。
これから、どうするのか? という無言の問いかけが布津野に集中したが、当然、布津野に答えるすべもない。黙りこくってしまった布津野を中心にして、不安な空気がどんよりと立ち込めていきそうになる。
「あっ」と、一人の少年が声を上げて、窓から外を指差した。
布津野は指し示されるままに覗きこむ。
窓の向こうには、この建物を取り囲むように何台もの車が止まり、そこから黒いスーツを来た男たちが大勢出てくる。それはまるで良く統率された蟻のようにウジャウジャと集まってきて、このビルを隙間なく取り囲もうとしていた。
その男たちの手には銃らしきものが握られていた。





