[4b-10]雪
イライジャは母の墓に積もった雪を、手で払いのけていた。
故郷であるアパラチアの山間の町。もう12月になった。辺りは雪は深く積もっているが、あの牧師の手入れが行き届いているのだろう、墓地の小道と墓石の周辺は雪かきがされていて歩くことには困らない。
「マム……」
イライジャは墓石の前にかがみ込む。『オクタビア・スノー』と刻まれた文字を指でなぞりながら、空虚な気持ちを持て余した。
マムはあまり宗教に熱心ではなかったし、ここの教会はプロテスタントだから洗礼名はない。墓石に刻まれたのは本名だが、実のところマムには日本人独特の言いにくい名前があったのかもしれない。
確かニィはマムを、ナンバーレスだと言った。改良素体の候補個体には5歳になると選抜があり、優秀なものだけナンバーが割り振られるらしい。
ニィは2だ。そしてマムはまだ5歳にもならない時にアメリカに誘拐された。
払いのけたはずの雪がまた積もりはじめていた。墓石を撫でるように雪を取り除く。
「イライジャ、おかえり」と老人のしわがれた声。
振り向くとそこには牧師が立っていた。
「やぁ。牧師」
「お母さんに挨拶かい?」
「ああ」
牧師も横並びになって、俺の横に立った。
「他のみんなには会ったかい?」
「いや……。何だか申し訳なくて」
「大統領戦を辞退したことかい?」
「ああ。俺を応援してくれた人もいただろう」
田舎町の同郷から大統領候補が出たのだ。それはそれは大盛り上がりで、選挙戦中に激励のメールや手紙を多くもらった。俺はそれを裏切ったことになる。
ニュースでもそう報道されていた。十分な支持を得ながらの直前の辞退は有権者に対する重大な裏切りだと、しかめっ面のなんとか大学教授のコメント。否定はできない。するつもりもなかった。
「みんな応援していたさ。しかし、お前を恨んでいる奴なんていない。このド田舎から出た俺たちのヒーロー。それがお前さんだ」
「そうか……。俺はずっと悪ガキだったから。特にあんたなんか、もうこりごりなんだろうと思っていた」
「それはその通りだ。だから、みんなで酒を飲もうじゃないか。昔みたいに説教をしてやろう。楽しみだ」
「勘弁してくれよ」
しゃがみ込んだまま、うなだれる。
足下は綺麗に除雪されていた。この人はこうやって死んでいった人たちの世話をしてくれている。説教の一つくらいは聞くべきかもしれない。
「ありがとう」と牧師に感謝する。
「ん?」
「墓地を綺麗にしてるのも、あんただろ。お陰ですぐにマムのところにたどり着いた」
「ああ、最近は便利になった。融雪剤ってのがあってな。それをばらまいておいた」
「おいおい。反キリスト的じゃないか」
「神の愛は無限だ。儂はそれを信じておる。それに日本製で最新の融雪剤を使っとる。環境被害のないエコなやつじゃ」
「相変わらず、だな」
思わず笑いたくなった。
この牧師は、昔からマムと俺を助けてくれた。子どもの頃は、マムに気があるスケベ牧師だと警戒していた時期もあったが、彼には奥さんもちゃんといるしそう言った噂もたった事はない。
「なぁ」思い切って聞いてみてもいいかもしれない。
「なんだ」
「あんた、知ってただろ。マムの事」
「……」
沈黙はおそらく肯定。当たっていた。選挙のせいで、自分は政治というやつが少しだけ分かるようになったのかもしれない。
牧師のため息が聞こえてきた。
「念のために言っておこう。儂しか知らんかったよ。この町ではな」
「つまり、あんたも」
「純人会じゃ。昔のことだが」
「……そうかい」
ニィ。この世界はお前が言うとおりに複雑で狂っている。本当に嫌になってくるよ。
「言い訳をさせてくれるかい」
「どうぞ。子どもの頃、俺もあんたにたくさんしてきたからな」
「ありがたい」
牧師は左右を見て誰もいない事を確認すると、俺の横にしゃがみ込んだ。
「純人会、といっても中枢を追われた身。いわゆる古株の隠居じじいさね。しかし、彼らからオクタビアを保護するように言われて、それを請け負ったのは儂が純人会に属していた牧師だったからだろう。昔はの。純人会は政治とは無縁じゃった」
「つまり、……純人会は宗教同盟だった」
牧師は頭をふって、下を向いた。
「お前は本当に頭の良い子だよ。昔から手を焼いた」
これもニィに教えられた通りだった。
牧師は白いため息をはいた。
「プロテスタント、カトリックだけじゃない。ユダヤもイスラムもだ。日本が遺伝子最適化を合法化した際に、これに対して創造科学的見地から統一的な批判を行うために作られたのが純人会の始まりだ。単なる意見共有のための連絡会。旧約聖書同盟と呼ばれることもある。対立する宗派を超えて、最適化についてのみ批判の足並みを揃えるための秘密同盟」
「その一部が政治に関わるようになって、誘拐や暗殺を始めた」
「まるでリンゴが腐るようにな。……純人会が堕落を始めたのは、二十年前くらいからじゃ。日本が経済的に発展し世界に君臨しはじめた。次第に、俗世への具体的な実践こそ信仰には必要だ、という意見が純人会にも広がりだした」
そこからの展開は、やはりニィに教えられた通りなのだろう。
純人会は単なる犯罪組織ではない。その本質は最適化に対する既存道徳の反抗であり、圧倒的多数の未調整たちによる反動だ。犯罪行為に手を染めているのはごく一部の過激派だけだ。純人会に犯罪ラベルを巻いたのは、日本政府のプロパガンダに過ぎない。
「当時の儂は、遺伝子最適化などあり得ないと思った」
「というと、今は?」
「今でも感心はせん。しかしな、お前とオクタビアさんの生活をずっと見てきた。それに、白い少女を助けた未調整の父親。ほら、あのジェダイさん。友達なんじゃろ」
「ああ」
「あの人はどんな人じゃ?」
「最高の父親さ」
「だろうさ……。結局、最適化されても主が課せられた愛は何一つ損なわれることがなかった。お前達家族、それにあのジェダイさん。間違いなく愛し、思いやりあった。結局、信仰は何一つ損なわれていなかった」
両手で口を覆って、はぁ〜、と白い息を吐く。
ミスター・フツノともっと話しておけば良かったと思う。もしかしたら、自分も父親というものに気がつけたかもしれない。自分の胸の奥にある大きな空白を、あの人なら教えてくれるだろう。
「ハワード大統領は、」と牧師は口をついて、こちらを見る。
「……大統領は?」
「聞きたいかね? 君はおそらく傷ついている」
「ええ、聞かないといけない。そう思います」
ふむ、と牧師は母の墓に視線を移した。
「大統領は、あの討論会の直前にここに来てたよ」
自分でも不思議だったが、告げられたその事実に驚きはしなかった。
「その時、儂は大統領に言いそびれた事があった」
「へぇ」
「それが、心残りでの。今は悔やんでおるのよ」
「それで、なに?」
「……大統領からオクタビアさんへの手紙をな、届けなかったのは儂じゃ」
今のは少しだけ驚いた。
「オクタビアさんの保護を純人会から命じられて、外部からの彼女への連絡は全て監視するように言われていた。まだ大統領が若かった頃だ。毎月何枚も積み重なっていたよ。手紙は君が5歳になるまでずぅっと続いた」
「それは、」
「中身は全て読んだ。良ければ一緒に暮らしたい、責任を取らせてくれ、不自由はさせない、などと書いてあった。若者らしい恋文じゃったよ。純人会がそれを許すわけがない事を、あの頃の彼には分からんかったようじゃ」
「……つまり、あいつは」
牧師は胸元で十字をきって目を閉じると「神よ」と小さくつぶやく。
「君の父親は、愛しておったよ。君の母親を。少なくとも愛そうとしていた。その機会を与えなんだは、この儂じゃ」
牧師のその声は、雪に溶けてかすかなものに消える。
寒い。痛いくらい、寒かった。
両手で口を覆う。歯茎が凍ったみたいにガチガチする。
あの時、自分を助けて死んだ男。
大きな背中だった。
それが父親だった事に、今さら気がついたのだ。
 





