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[4a-23]それを恋と呼ぶことにした

 イライジャは目の前の光景を信じられなかった。

 観衆たちは高々と手を上げている。唾を飛ばし、喉をのけぞらせ、五百だ千だと何かの数値を叫んでいた。

 彼らの意識は舞台の檻の中に集中している。吟味するように舌で唇を濡らして、視線を舐めるように這わせて檻の中にいる少女の肌を楽しんでいた。

 彼女はマムによく似ている女の子だ。

 ナナという名の父親のことが大好きな女の子だ。

 その彼女は今、まるで羽根を切り取られた白鳥のように、ぐったりと体を鉄格子に預けている。そして、その目だけを潤ませて、じっ、とこちらを見ている。

 彼女が自分を見ているわけではない事は明白だった。

 自分の前に立つ小柄な男。彼女の父親だけを見ているのだ。

 それなのに。

 この男は娘のほうなど見向きもせずに、さっきから二階席の方を見上げている。


「一歩遅かったですね。すでに第七世代のことをバラされましたか」

「……」

「ナナは衰弱しているようです。……くそ、血を抜かれたな」

「血?」


 布津野は二階を見上げたまま、ニィに問いかけた。


「ええ、目的はナナのDNA情報でしょう」

「そうか」


 布津野の様子は無機質だった。

 イライジャはその様子にイライラした。

 自分はこの男がちゃんとした父親なのだと思っていた。しっかりと娘を愛しているのだと思い込んでいた。

 今、目の前で、お前の娘が豚どもに囲まれて泣いているのだ。

 助けてくれと、救い出してくれと、涙を浮かべて、お前しか見てないじゃないか。どうして飛び出さない。


「おい、あんた!」


 イライジャは手を伸ばして布津野の肩を掴んだ。


「なんで、行ってやらねぇんだ。あっ?」


 布津野は、ちらり、と眼だけを動かしてイライジャを見た。

 その感情のない眼の色をイライジャは嫌悪した。きっと、俺の糞親父もこんな顔をしてマムを犯したに違いない。


「あんたは父親だろ! ちゃんと見やがれ。泣いていやがるだろ。父親だろーがよ。娘だぞ!」


 イライジャは布津野の肩を揺さぶった。

 揺さぶりながら、自分が勝手にこの男に期待していたことに気がついた。

 自分にはまともな父親がいなかった。しかし、ちゃんとした父親がいたら……。

 きっと、それはマムを悲しませることなく、それがいたら幸せになれる存在。曖昧で説明ができない何か良いもの。それを自分は知らない。

 もしかしたら、父親とはこの男みたいな人なのかも知れない。そんな期待をしてしまっていた。

 イライジャは奥歯を噛んで、ナナから目を逸らす布津野を睨みつけた。

 お前は、あのニィが子犬みたいに懐いている男で、あの娘が大好きなお父さんで、ブルース・リーが奇声を上げて逃げだすような格闘家なんだろ。

 なのになんで、あの娘を助けてやらない。まっすぐ駆け寄って、そのすげー技で檻なんか壊しちまって、あそこからあの娘をすくい上げて抱きしめてやればいい。映画みたいでも良いじゃねぇか。

 それとも、これが現実ってやつなのか?


「おい。なぁ、おい!」


 イライジャがより一層強く布津野の肩を揺さぶろうとした瞬間、

 タン、とその手は布津野の手に払われた。

 まるで蝿をはらうようなぞんざいさで、目の前の父親面は、相変わらず二階席のほうを見上げ続けている。

 掴むものを失ったイライジャの手は、上に跳ねて空気を掴んだ。


「……分かったぜ」


 イライジャの足は床を蹴って、その体を前に飛び出した。


「おい、イライジャ!」


 背中から呼び止めるニィの声も無視した。

 シットシット糞ったれがブル・シット

 加速する足も、怒りも、もうネジが飛んじまっている。

 まるで映画のラストのアクションシーン。絶体絶命の状況からの一発逆転を狙う主人公。仲間面した無能には足を引っ張られ、ヒロインの細首は敵の腕の中。まさに崖っぷち。お前が出来ないなら見せてやる。

 父親ヒーローはこう演じるんだ。


「Hey, Hey, Hey!」


 イライジャは喉をからして舞台に飛び上がった。集中するスポットライトからナナを守るように両手を広げて立ちふさがる。

 目の前には糞みたいな観客が口を開けて、小便をぶち込まれるのを待ってやがる。


「Hey! fucking ladies and gentle mother fucker!」


 その罵倒に観衆は凍り付いた。

 突然舞台に乱入してきた男が口汚い言葉で自分たちを罵り出し、しかもそれが誰もが知るハリウッドスターのイライジャ・スノーだった。その事実はなかなか納得に落ちずに宙に浮遊したままに漂う。

 イライジャは、そんな観衆に向かって指を差す。


「いいか。糞野郎ども、俺は今から当たり前のことを言う。神だって同じことを言う。三歳の子供だって口をそろえて同じこと言う。いいか、最低のクズ野郎ども。よく聞きやがれ」


 しん、と静まり返った舞台に、イライジャの声はよく響いた。


「お父さんに教えて貰わなかったのか。おおっと、失礼。こんな所にはまともなお父さんなんて一人も居なかった。じゃあ、お母さんだ。マムに言われたことはないのかな? 男として最低限守らないといけない鉄則。これが出来ない奴はモテない。童貞を引きずって、そのまま首をつって死ぬ。だから、何があってもこれだけは守りなさい」


 イライジャは突き刺した指を水平にないで、観衆の表情を切り裂いていく。


「いいか、ジョニー? スティーブ? ベイブ? バルド? イディエット? みんな思い出したか? 愛おしいマムが口酸っぱくして言ってただろう。いいか、女の子を泣かせてはいけません、だ」


 イライジャは腕を振り上げて拳を作った。「女の子を泣かしてはいけません」ともう一度叫んで全員を睨みつける。それで気が収まらなかったのか、舞台の隅にいた司会役の男のほうに、ずかずか、と歩み寄るとマイクをもぎ取った。

 イライジャは会場に響き渡る大音量を出した。


「お前らはな。マムをFuckしたド畜生だ。肌の色とか人種や宗教は関係ない。遺伝子いじっているかも関係ない。お前たちはな。マムが大切にしてきた物の上に糞をたらす豚どもだ」


 イライジャはもはや両手を振り回しながら、舞台の上を縦横無尽に動いて観衆たちを罵っていた。

 それを眺めていたニィは手で口を覆い隠して、目を細めた。


「あいつ……」


 ニィは周囲にさっと視線を走らせた。

 呆然としている観客。舞台の上には司会者と檻とナナとイライジャ。どこだ? 四罪の奴らはどこにいる?


「布津野さん」

「ここは大丈夫だから、行きなよ」

「しかし、ここに反骨がいるはずです」

「ああ、あれだろ」


 ニィは、はっ、として布津野が指差した上を見た。その先にはこちらを見下ろす獣のような大男がこちらを睨みつけている。


朱烈ヂュリィェ!」

「みんなの事も心配だ。行って」

「しかし、あいつは反骨です」

「……無様な殺気をまき散らしている」


 上を見上げたまま、布津野は口を歪めてそうこぼした。


「あの程度の奴に、」と、横目でニィを見た。「負けるわけないだろ」

「……」

「もう十分だ。ナナは絶対に助けるから」

「……すみません。お願いします」


 ニィが駆けだしたのが、それが合図になったのかも知れない。

 その直後に、二階からガラスが砕け散る音がした。

 そして、すとん、と猫が着地するような軽やかな音を立てて、巨大な獣の姿が舞台の上に降り立った。ちょうどイライジャの背後だった。

 イライジャが思わず振り向くと、そこには左右の腕を大きく広げた獣の姿がある。人の身ではあり得ないほどに隆起した筋肉が、ねじりこんだワイヤーのようにしなっている。

 刹那、その両手が交差してイライジャの頭を挟み、凄まじい音を響かせた。

 観衆は絶叫して、イライジャの頭が潰れて消えるのを想像した。

 しかし、そこには、いつの間にか、

 もう一人の男の背中が現れていた。

 小柄な男だ。

 ケチャップになったはずのイライジャは、彼の足下に転がって大きな獣と小柄な男を交互に何度も見ていた。

 獣は空振りに終わった左右の手を、だらり、と垂らして前屈みになった。それは猿のようにも狼のようにも見えた。少なくとも、およそ人間と思えるようなモノではない。

 それに対して、小柄な男は普通すぎた。絶望的な状況で足がすくんでいるように、観衆には見えていた。

 獣の口が開いて、聞き慣れない言葉がこぼれる。


你是ニーシィ没色メイスェ


 小柄な男も知らない言葉をつぶやいた。


「この、素人しろうとが」




 ニィはホテルの内部を駆け回っていた。

 やることは多い。懸念はそれ以上に多い。後にした舞台からは、観客たちが叫ぶ声や足音が聞こえてくる。どうやら逃げだそうとして、混乱を極めているようだ。

 ニィは目を閉じた。


 ——朱烈ヂュリィェ


 見えたのは間違いなく、驩兜ファンドウの反骨だった。四人の反骨の一人。その中でも驩兜は戦闘型の一つだ。

 仮に、とニィは思考を走らせてみる。

 仮に、朱烈と対峙したのが自分だったら?

 間違いなく即死する、と断定できる。敏捷特化の驩兜型に勝つためには距離が必要だ。そのためには装備や準備もいる。

 ましてや反骨なのだ。生身一つでその目の前に立ちはだかるなど、愚か者のやることだ。


 ——そういえば、貴方は愚か者でしたね。


 ニィは思わず口元がゆるんで、目を開いた。

 携帯端末を取り出して耳にあてる。


「榊。ニィだ」

「こちら榊。ご命令を」

「一班をホテル内部に突入させろ。純人会が残した物証を押収。ただし、1Fホールの舞台には絶対に入るな。そこには朱烈がいる」

「朱烈! しかし、」

「布津野さんもそこにいる」

「……はい。かしこまりました」


 布津野さんと一緒にいた時間だけなら、榊は自分よりも長い。その分だけ納得も早いのかもしれない。

 ニィは続ける。


「残りは四罪の逃走を阻止する。周囲を探索して奴らを見つけ出せ」

「了解」


 ニィは懸念を振り切って、再び走りだした。



 ◇


 観衆が逃げだしたため、舞台は随分と静かになっていた。


「なるほど、たしかに色が無い」


 朱烈ヂュリィェは目下に立っている布津野を見下ろして牙をむいた。

 構えや備え、威嚇に誘導、目つけと運足。いずれにせよ、気配を発っし相手を計りあうのが闘争における常だ。

 それは動物としての本能に根ざした反射でもある。相手の反応を見て、戦うか逃げるか、狩るか諦めるか、それを決める。

 しかし、その男には何もなかった。

 気配が無い。

 思わず鼻が縮まって、ハルル、と喉がなる。

 不可解だ。この目の前の男は、まるで生まれてきたばかりの子犬のように邪気がない。まさか、闘争とじゃれ合いを混同しているわけでもあるまい。


 グワァ、と吠えてたててみた。


 それでも変わらない。

 まさに没色。

 なんの反応も、わずかな反射もない。まるですでに死んで腐った獲物のように、まったくの無益無害の何かのように、そこに立っている。

 距離は十分に近い。

 朱烈は、垂らした右腕の爪を立てた。

 この色無しの男は素手だ。

 その非力な肉体で、どこまでやるというのだ。

 垂らした腕をゆるめて、鞭のようにしならした。この男の小さな胴など、一掻きで削り取れる。

 まずは小手しらべ。


 朱烈の右腕が動いて、その爪が下からまっすぐに布津野めがけて伸びる。

 ひょい、と布津野は首を傾けた。そこに生じた隙間に朱烈の長い腕が通る。

 風を切る音。

 かわされた事を、朱烈は驚かない。むしろ当然。失望させるなよ。

 伸びきった腕をそのままに水平に薙ぐ。

 布津野は頭を下げて、そのなぎ払いを頭上にやり過ごした。

 朱烈のその頭に向かって、もう片方の爪を打ち下ろした。

 その時、


 ——消えた。


 左膝が横から蹴り降ろされる。

 朱烈は鼻に皺をよせた。視線を左に移すと布津野が二撃目の拳を脇腹に打ち込んでいた。

 肋骨の隙間に刺されるような穿痛。それが脇下から心臓にめがけて打ち出される。

 ざわっ、と悪寒が走る。流石に、不味い!

 脇を絞めて守りながら、朱烈は飛び退いた。一足、飛ぶだけで、優に5メートルは距離を稼ぐ。

 はるか向こうに置き去りにした布津野を睨む。その打ち出した拳には二本指を折り曲げて突きだしていた。あの拳の形が、刺されたような痛みの正体か。


「折られた、か」


 朱烈は脇腹をさする。まるで釘を差し込まれたままになったような痛み。それが脇腹にまだ残っていた。

 なかなか、嫌らしい工夫だな。と、朱烈は腕を戻して、再び対峙にした。

 さて、奇妙なことが二つ起こった。

 一つ目は没色の殺気が無いこと、二つ目は没色が突然消えたこと。

 この二つが、実は一つであることを朱烈は直感した。それは彼の野性がなせる理解だったのかも知れない。

 狩りにおいて、殺気がなければ草木や石に同じことだ。それを意識することなどない。この男は殺気を隠しながら踏み込んでくる。誰も草木が移動し、石が攻撃してくるなど思わない。

 さて、どうする。と、朱烈が悩んだ瞬間、布津野が一歩前に出た。

 本当に、嫌な時に動きやがる。

 この男は妙に気に入らない。

 蛇のように狡猾だ。


 連撃。


 それが朱烈のとりあえずの対策だった。

 その長い腕をしならせて、乱れ撃つ。そして、伸びきった瞬間に、鞭のように、引き戻す。

 空気を叩く音が、連続する。

 手応えはないが、とりあえず打ち続ける。元より当たるとは思っていない。まずは見極める。この獲物は奇妙な技を使う。

 数えて二十は繰り出した打撃。

 次の一撃は、爪をたてたなぎ払いだった。

 その中指が空気を掻く。

 脇をしめて腕を戻す。

 戻した手に違和感。おかしい。異常事態。

 中指の感覚が消えていた。

 視線を手の平に落とす。中指が反対方向に折れ曲がって、ぶらぶら、とつけ根から垂れ下がっていた。


 !


 咆哮を発して朱烈は、さらに後ろに飛び退いた。

 右手の中指が、痛みを思い出したように熱をもつ。激痛は走り回っているのに、ぴくり、とも動かない。ぶらんぶらん、と揺れるばかりで動かないのだ。

 間合いはさらに遠く、8メートルになった。それはすでに朱烈の間合いでもない。もはや銃撃戦の間合いだ。はるか向こうで、さらに小さく見える布津野は、まるで仏が拝むように手刀を立てていた。

 その手刀が自分の指を折ったのだ、と朱烈は直感した。

 腕力では敵わない。だから指を折りにきた。


 こいつ、擬態してやがる。

 こいつは弱者を装っている。

 擬態とは本来、弱者が有象無象に紛れる逃走行為。

 恥知らずのこの男は、

 強者であるのに己を弱いと誤魔化した。


 朱烈は両手の爪で床を掴み、足を後ろに引いた。

 まさに獣の四つん這いの姿勢、低く低く重心を落として牙をむく。すでにその頭部は布津野の腰の位置まで落ち、四肢にため込む。

 前進以外を拒否した獣の姿勢。

 朱烈の床にすれすれの視界の隅に、めくり上がるようにぶらつく自分の中指がある。


 怒り。


 野性を失った恥知らずに、誇りあるこの体の一部を奪われた。

 それは、ごく自然な憤怒。

 吠える。

 怒りを燃やして、咆哮を吐き出す。

 技や工夫など不要。

 ましてや擬態など。

 弓なりに引き絞ったこの体躯。限界までため込んだそのきしみを、


 朱烈は解き放った。



 ◇


 イライジャは目の前にある現象を理解できずにいた。

 大きな獣と小さな男。

 いつの間にか自分は床に転がっていて、その二つはどうやら戦っているみたいだった。

 少しずつ、少しずつ、理解が現象に追いついてくる。


 どうやら、自分は生きているらしい。

 どうやら、これは夢じゃないらしい。

 どうやら……、自分は助けられたのかもしれない。

 どうやら、この男に。

 あの女の子の父親に。


 大きな獣のような男が、本当に獣のように四つ足になって威嚇の咆哮を上げている。フツノはまるで扇風機に涼んでいるように、それを正面にしても平然としていた。

 その時、

 獣の体が盛り上がり、フツノに飛びかかった。


 イライジャは、それをハッキリと見えたわけではない。

 速すぎた。

 目では追い切れず、烈風が頬を叩いたのみ。

 だから、見ることができたのは、結果の状況だけだった。

 獣はフツノを襲い、覆い被さった。

 その圧倒的な膂力でフツノをズタボロにする、と思ったのだ。

 変だった。

 獣は覆い被さった後、動かなかった。その体を、への字に曲げて顔面を床に押しつけて痙攣している。長く伸びた胴体が下から上に突き上げられて、歪な鋭角で背が盛り上がっていた。

 びちゃ、

 地面につっぷした獣の口から、血が混じった酸味臭い体液が吐き出された。

 フツノは……いた。

 獣の盛り上がった腹の下にから、獣の腹を蹴り上げているフツノの姿が覗いていた。

 獣が吠えた。

 自分の腹の下に腕を潜り込ませ、フツノを掴んで引っ張り出す。獣はまるでボロ布のようにフツノを振り回した。

 宙できりもみになるフツノ。

 少なくとも、自分にはそのように見えた。

 視界の下の隅に、歩幅を開いて立つフツノがいることに気がついた時、獣が振り回しているのが、フツノの上着だけであることに気がついた。

 フツノが打ち出したその打拳は静かだった。

 彼の周囲の空気が、まとまったように思えた。

 その拳を獣の胸に、とん、と当て、

 開いた両足を小さく前に、まとめて揃えた。

 フツノの体がさらに小さく圧縮された。周囲の空気さえもフツノの拳に集約されたような気がした。音も時間さえも一瞬で、彼の拳の先に集まっていく。

 そして、それが爆発した。

 獣が吹き飛んだ。後ろの壁に貼り付けになる。

 その胸には拳の大きさで潰されている。獣は、げーげー、血を吐きこぼしながら、牙を、ガチガチ、とかみ合わせては口を開き、胸がへこんだ分だけの血と体液を吐き出すのに必死になっていた。

 マジで、ブルース・リーだ。

 同じ表現を何度も見てきた。実際にそれを演じて見せたこともある。東洋に伝わるミステリアスな技術。実際に出来る奴なんていない。だから映画になる。カンフー映画でおなじみのあれ、実際はワイヤーアクションのあれ。名前は確か、そう。

 寸勁ワンインチパンチだ。



 ◇


 布津野は残心を宿した拳を引いて、呼吸を整えた。


 ——見よう見まねでも何とか形にはなったな。


 寸勁の術理については、その本質だけは法強さんから教えられていた。その後も榊さんに何度か調整してもらって、稽古上ではそれらしきものを真似出来るようにはなっていた。

 中国の武術と日本の合気は、その運体の思想を大きく違えている。動に動を重ねて大きく発展させていく中国武術に対して、合気は逆に小さくまとめていく傾向が強い。

 とはいえ、同じ格闘術だ。源流で同じになることは多い。

 中でも寸勁の術理は運体を一点にまとめる点で合気の思想に似ている。比較的、自分にも体得しやすいものだった。

 ふっ、と呼吸を吐ききって、細く、ゆっくりと吸う。

 眼前には獣が一匹。

 大きく頑丈な体。分厚くいびつに盛り上がった筋肉。これに対して有効な攻撃は限れられている。

 初撃で試した二連撃は効かなかった。

 入り身からの足払いで体を崩し、脇への打撃で心臓を止める。人間相手なら必殺の手順。しかし、足払いでは体を崩せず、打撃は貫けずに取れずに逃がした。

 人の範疇を超えたあの肉体を壊すには、もっと威力を高める運体が必要だった。

 寸勁はそれにちょうど良かった。


为什么你ウェイシェンムェニー、」


 と、獣が何かをしゃべろうとしたが言い切らないうちに血を吐いた。


 死んではいない。

 まだ慣れてないせいか、威力が十分に通らなかったらしい。こいつはまだ十分に戦力を残している。こんな大きな爪と牙を持って、まだコイツは動けるのだ。

 呼吸を整える。

 ナナが近くにいるのだ。

 それなのに、コイツはまだ動ける。

 ナナのか細い呼吸をすぐ近くに感じた。

 しかし、今はナナを見たくない。

 今の自分をナナに見られたくなかった。

 それはただの現実逃避。でも、同じ過ちは二度としない。確実に殺す。ナナに嫌われても良い。

 確実に、徹底して、殺す。

 ふっ、と笑いがこぼれた。

 ここに、あの小太刀があったら良かったのに。

 覚石先生から頂いた刀。日本に置いてきてしまった。自分は本当に馬鹿だ。

 あれがここにあれば、綺麗にコイツを殺せたのに。


 一歩、間合いを縮めた。

 胃の中を全て吐き出した獣は、再び前屈みなる。

 より姿勢を低く、自分が作った体液の池に胸をこすりつけるほどに。

 口が引きつって、思わず笑ってしまう。

 まるで馬鹿の一つ覚え。引き出しの少ない奴。圧倒的に足りてない。本当に素人だ。こいつは何も知らない。自分よりも強い相手と戦う術を。

 獣の重心がまた引き絞られる。

 布津野は軽蔑した。

 まさか、また突っ込んでくる?

 また同じ手が通じるとでも?

 完全に呼吸を掴まれているこの状況で、和合した相手に向かって、命でも差し出すというのか?

 あわせて、もらって、かえす?

 馬鹿な。

 お前の命なぞ、握り潰して返すしかないのに……。


 その一瞬は、布津野が予想した通りに訪れた。

 目にも止まらぬ速さで獣ははしった。

 風すら置きざりにする高速。

 しかし、布津野の時間はゆったりと流れていた。

 その時間軸に獣は取り込まれる。

 布津野には、十分な余裕があった。

 自分の二本指を尖らせて、抜き手をつくる。

 予定された地点に、予定された時に、その抜き手を差し入れる。

 そこは獣の巨大な頭部の耳の穴。

 予定された角度で、抜き手は、するり、と獣の耳の中にめり込んだ。

 そのまま、指先をたぐって耳奥の器官を指に絡める。

 コリコリ、とした軟骨の指触り。

 掴んだのは三半規管。

 そして、時間が元のスピードを取り戻した。

 抜き手は、するり、と耳から抜け出る。

 獣の体はそのまま通過して、壁に激突した。

 どさり、糸切れた人形のように獣は倒れ込む。まるで仕掛けが壊れてしまったようにジタバタと四肢を激しく不規則に暴れだした。

 布津野の手が開くと、つまみ取った白い肉片が、ぼたり、と床に落ちた。

 抜き取られたのは平衡感覚を司る三半規管とそれに接続していた脳細胞。それを引き抜かれた獣は、もはや自力で立つ事ができない。

 バタバタ、と獣の手足が床にのたうち回っている。

 激痛と血を、耳と口からまき散らしている。

 そのまま三十秒間、

 やがて獣は動かなくなった。

 布津野はそれを、じっ、と見下ろしていた。




 ナナは、それを見ていた。

 見つめていた。まばたきすらせずにそれに見入っていた。


 同じ。

 あの時と同じ。

 ううん。あの時よりももっと深く黒に染まっている。

 本当にこの人は、

 悲しいけれど、

 悔しいけど、

 私を愛してくれている。


 理解とか納得よりはるか手前に実感する。

 それは体温を感じるみたいに内側からの熱やうずき。言葉にしようとすれば、全てが言い訳になってしまうような、そんな自分だけの感覚。

 初めて会ったのは十歳だった。

 あの頃の私はこれと同じ光景を見て、ずっと一緒にいたいと思った。そして、私はこの人の娘となり、恋人となったのはグランマだった。

 もう五年が経った。

 あの時の熱と疼きは、体の成長とともにより大きくなった。

 成長したのは体だけじゃない。私は言葉を覚えた。色んな言葉を覚えたのだ。このくすぶる苦しみに名前をつける必要がある気がした。


 ——私は、それを恋と呼ぶことにした。


 もう、五年が経ったのだ。

 グランマじゃなくて私だったら、良かったのに。

 どうして、初めて会ったあの時、私は十歳だったのだろう。

 グランマが60歳くらいのお婆ちゃんだったら良かったのに。

 どうして、どうして、どうして……。

 最初にこの人を見つけたのは、私なのに。


 スポットライトに引き延ばされたあの人の影が動き出した。

 大きな獣のような人の体は動かなくなって、その荒々しい色は血だまりに吸い込まれるように消え去っていく。

 それを見届けていたあの人は、こっちに歩いてくる。

 見上げるほど近くにあの人がきた。綺麗な黒。残酷な色。優しい人。

 あの人の手が鉄格子を握る。

 がちゃり、と音を立てて、私の扉が解かれて開く。

 彼が覗き込んだ瞬間、目が合った。

 すると、黒が消えて、いつものマリモみたいな深緑が広がっていく。

 私には見える。

 この人は今、恐れている。

 あんなに大きな恐ろしい獣を相手に何一つ揺らがなかったこの人の色が、私を見て、線香花火の最後みたいに頼りなげなのだ。

 私に嫌われる事を、この人は恐れている。


「お父さん」


 そう呼ぶだけで線香花火は、ぱっ、と輝く。だけどすぐに不安になって色をくすませてします。


「お父さん!」


 だるくて力の入らない両足をふらつかせて、倒れ込むように前へ。マリモみたいな緑色の中に身を委ねて、慌てて受け止められたから、抱きしめ返す。


「お父さん」

「ナナ」


 なんて優しい声なんだろう。


「ナナはね、お父さんのこと」


 顔をお腹に押しつけたまま、すぅ、と息を吸い込んで、


「大好きなんだから」


 お父さんの手が、私をすくい上げるように抱きしめる。


「……僕もだよ」







書き切りました。燃え尽きました。


舛本つたな

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公爵令嬢になったお腐(ふ)くろさん、(以下略)

本作を大幅に書き直した書籍版(kindleなどの電子書籍もあり)です。 下の画像で出版社さんのサイトに飛びます。 下読みもできますよ。

遺伝子コンプレックス
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