[4a-21]灰色
押し込まれた車の中でナナは息をひそめていた。
車内の色がホコリのように煙っている。これは疲労の色だ、とナナは直感した。諦めの色、燃え尽きた後の灰色。現実の色。
「貴方があの7番?」
それはゆっくりとした英語だった。
the number seven(あの7番目)。それが意味するのは自分であることにナナはすぐに気がついた。英語はとても無機質だと思う。全てを明確にする。自分が作りものであることを、ハッキリと表現してしまう。あの人が「ナナ」と呼んで笑う時の曖昧で柔らかい感触はそこにはない。
自分を7番目と呼んだのは隣の女性。恐る恐る視線を上げて声のする方を見る。その瞬間、はっ、と息をのんだ。辛うじてこぼれる悲鳴を両手で押さえる。
女の両目は真っ白だった。あるべき瞳は真っ白に塗りつぶされて、まるで人形のような微妙な笑いの形に口を歪めていた。
「怯えているのね、素直な子」
白眼の女は指をしならせて、指でナナの頬をなでた。
ナナは身を震わせてそれに耐えた。女の指は酷く冷たかった。まるで死人になでられたようだった。女が動くたびに灰色がまるで胞子のように飛び散っていく。この人は灰をまとっている。朽ちた人形のようだ。燃え残った塵芥を固めて作った人形。
「この白眼のこと、もう知っているでしょう?」
「……シャンマオさん」
「そう。あの子は元気?」
ナナは慎重に頷いた。
「それは良かった」
女はその白い目を閉じる。
車道の街灯が車内に刺すように入り込んで、女の顔を照らした。くたびれた女の横顔が光りに縁取られては、闇に溶けては消える。それを繰り返している。
「貴方の目には私はどう見えるのかしら」と灰色の女が問いかける。「人の善意を見るという、私たちとは反対のその目には」
「……死んでしまいそうに、見えるわ」
ナナは正直に答えた。
それ以外に答えなどなかったし、彼女がまとっている灰色に圧倒されてしまってもいた。それは、まるで死の間際を何年も耐えた抜いたような色だった。
ふふ、と女は息をついた。
「これでも随分長く生きたわ。もう40よ」
「……」
「強化個体の寿命から考えると相当な長生きなのよ。私と同世代の三苗はみんな死んでしまったわ。うらやましいわ。同じ遺伝子操作を受けたとはいえ、貴方たちは長寿なのでしょ?」
「貴方は、」
「反骨の一人、と言えばご存じかしら」
「中国の?」
「そう四罪の一人。三苗の危覧よ。貴方は?」
「……ナナ。布津野ナナです」
「ええ、知っていたわ。私たちとは何もかも違う人間」
ゆっくりと開かれた白眼が、差し込んできた街灯の光を反射して光った。
「ナナさん、私は何色かしら?」
「灰色。……燃え尽きた灰色」
「そう。やはり見えているわね。後、もっても一年くらいかしらね」
ゆっくりと頷いた危覧は難儀そうに首を傾けてナナを正視した。
「私のこの白眼にも貴方の色が見えるわ。ただ見えるのは、欲望や渇望、悪意だけなの」
「……」
「白い布の真ん中に置かれた一点のどす黒い塊。塊からこぼれた黒が布を汚して広がっている。貴方は相当な頑固者ね。それにとても若い」
「どういうことですか」
「いずれは諦めざるを得ない、と言う事よ。貴方はもう半分くらいは諦めている。そうでしょう」
「……何のことですか」
ナナの口調が堅くなったのを、ふふ、と危覧は笑って誤魔化した。
「失礼、羨ましくてね。つい意地悪をしました」
「……」
「恋をする貴方が眩しくてね。それに貴方の若さも妬ましいわ。私が若かった頃は恋なんて出来なかったから」
「……悪いですか」
ナナは下を向いてつぶやいた。
「恋、したら、ダメですか」
「羨ましいわ。私たちは恋ができるほど人並みの形を与えられませんでしたから。それにしても分からないものね。貴方のような綺麗な人を無下にする男なんて、いるのね」
「お父さん……」
「知ってるわ。ホテルの窓からこっちを睨んでいたあの男がかの没色ね。噂通りの凄まじい殺意だったわ。貴方をとても心配していましたよ。愛されているのね」
「……お父さんを、好きになったら、ダメなんですか」
「あら」
危覧は唇に手を触れてその白眼を細めてナナを見た。
俯いたナナの横顔は精巧な人形のように美しい。その頬に流れるものが涙であることを、危覧はゆらぐ彼女の色から察した。
「幸せな環境でも、それでも人は苦しむものね」
「……」
「幸運に生まれてもその中から悩みを見つけてしまう。愚かね。人形ですらも涙するようにこの世は出来ている。どうしましょう。貴方のこと、なんだか忍びなくなってきたわ」
細い息を深くついて、危覧はナナの涙を指ですくった。
濡れた指を口元に当てて少し舐めてみる。その酸味は普通の人間のものだ、と危覧は思った。多分、自分が涙を流したとしても同じ味がするだろう。
「だけど、残念ね。貴方と私は対立している。正確にはそれぞれが属している男どもが対立している。私たちの目は、彼らに利用される運命」
危覧は灰をふきこぼすようなため息をついた。
「貴方の命は、この陰謀に利用される」
◇
「総員! あの車両を発見次第、報告しろ。ナナが連れ去られた。ターゲットはホテルの正面玄関から離脱。なお、追撃は控えろ。四罪の強化兵が配備されている可能性あり。反骨クラスを目撃した。驩兜型のだ」
「「了解!」」
ニィは携帯端末を切ると、すばやく布津野の横に近づいて肩に手をかける。「布津野さん」と声をかけて横目でその様子を窺う。窓から外を睨みつけている布津野は、意外に落ち着いた声で問いかけてきた。
「ニィ君、僕は何をすれば良い?」
すでに布津野さんは研ぎ澄まされている、とニィは直感した。
いつもの間延びをした、余裕とたるみを履き違えた様子は消え去っている。今の布津野がいわゆる布津野さんではない事を、ニィはすぐに了解した。
「説明は移動しながらします。こっちです。急ぎましょう」
ニィは足を速めて部屋を出る。後ろから足音すら立てぬ運足でついてくる布津野の気配を辛うじて感じる。廊下に出るなり、そこに立っていたイライジャに向かって叫ぶ。
「イライジャ、ついて来い!」
「ニィ、何があったんだ」とイライジャは急いで後に続く。
「説明は後だ」
ニィはそう言いながら足を速める。
階段を飛び降りて、玄関ホールから外に出る。その目の前にすでに横付けにされた車が扉を開いて待ち受けていた。その側には榊が待ち構えている。
彼女は一歩前に出て敬礼をした。
「ニィ隊長」
「首尾は?」
「手はず通りです。しかし、反骨クラスですか」
「それは何とかする。榊は助手席に、しばらく全体の指揮を代行しろ」
「了解」
「イライジャ! 運転席に座れ。目的地はカーナビに従えばいい。早くしろ!」
イライジャは舌打ちをしながら、「ったく、何なんだ」と言いながらも運転席に潜り込んだ。ニィはそれに視線すらやらずに、布津野のほうを見た。
「布津野さんは後部座席に」
「ああ」
布津野を先に入れて、ニィはそれに続いて後部座席に乗り込む。
「イライジャ、出せ!」
「はいよ。くそガキ」
暗闇にエンジンを轟かせて、車は駆けだした。
揺れる車内の中で、榊が声を落として通信を始めている。総員、一時的に指揮権変更。ニィ隊長に代わり榊が指揮する。次の作戦指示まで予定行動を継続。
ニィはまず初めに、隣の布津野の手を握った。
「大丈夫です」
暗い車内では布津野の表情は分からないが、そこからは呼吸すらはばかられる威圧感を感じる。それでもニィは布津野に触れる必要があると思った。ナナがさらわれたのは自分の見立ての甘さが原因でもある。
「ナナの居場所は見当がついています。まずは、それを確認します。ナナには発信器が埋め込まれています。ロクに問い合わせればすぐに、」
そう言って携帯端末を取り出したニィは一瞬だけ躊躇した。
緊急事態とはいえ、ロクに頼らなければならない自分が心底くやしかった。しかし、それに囚われるのは愚かな事だ、という事も痛いほどに分かっていた。奥歯を噛んで、無意味な意地を飲み込もうとした時、
「いい。僕が聞くよ」
布津野がそう言って、すでに自分の携帯を操作していた。
「……お願いしても良いですか?」
「ああ」
「スピーカーモードで、俺にも聞こえるようにしてください」
「分かった」
ニィはすぐにそれを受け入れた。
どうしようもない事実として、自分はまともにロクと会話できる自信は無かったし、それはロクにしてもそうだろう。そんな確執で、無駄な時間をかけられる状況ではない。
ルルッ、と鳴るやいなや、ロクの声が受話器からこぼれる。
「父さんですか?」
憎たらしい声が心なしか弾んでいるように聞こえた。
「ロク、ナナがさらわれた」
「何ですって! ニィは何をしているのですか」
ニィは、やはり自分が出るべきではなかった、と布津野に感謝した。普段は愚か者だと呼んでいるが、この人はこういう所には妙に配慮がある。
「ロク、いいかい?」
「はい」
「お願いだ」
その声色が普段の布津野のものではないことに、ロクもすぐに気がついた。
「……分かりました。ナナの発信器をアクティブにして5秒間隔でサーバーにアップロードします。近くにニィはいますか? あるいは榊でも」
「二人ともいるよ」
「分かりました。それでは二人の携帯端末にからのサーバーアクセスを一時的に許可します。サーバーのアドレスは二人にメールで送ります」
「ああ、助かるよ」
「父さん」
そう呼びかける時だけロクの声がぬるくなる。ニィはその声に吐きそうになるのを堪えた。
「ナナのこと、」
「絶対に守るよ」
「……」
「絶対にだ」
「当然です。僕のほうでもいくつか対策を用意します。犯人に目星はついていますか?」
「四罪らしい。それとアメリカの純人会も」
「なるほど。……では、中国へは外交アプローチを用意します。純人会へは子飼いにしているアメリカマフィアに交渉を仲介するように準備を進めておきます。父さん、大丈夫です。僕のほうでも何とかしますから」
「ありがとう。ロク」
「いえ」
「それじゃあ」
「気をつけて」
電話が切れたのを確認して、ニィは目を閉じてこめかみを押さえつけた。
絶対に、ここで、ナナを助けなくてはならない。そのせいで、念入りに準備してきた大統領戦の計画なんて潰れてしまっても構わない。絶対にロクに借りを作る気は、粉微塵の一片すらも無い。
「終わりましたか?」とニィは布津野に問いかける。
「ロクからはメールすると」
「ええ、来てますね。……あいつ、緯度経度の情報だけでアップロードしたな。住所変換くらいしやがれ」
榊が助手席から何かを差し出した。
「ニィ隊長、ノートPCです」
「おう」
ノートPCを受け取ったニィはキーボードの上で指を踊らした。
携帯端末と接続し、送られた緯度経度をマップ・アプリケーションに転送するようにプログラミングをする。更新頻度は2秒間隔。モニタの上にはナナの居場所を点滅して知らせる地図が表示される。
実のところ、このような地図ナビゲーションにデータ連携する際には、文字情報である住所情報よりも座標データである緯度経度情報の方が都合が良い。先ほどのニィのこぼしたロクへの不満は単なる八つ当たりに過ぎない。布津野には座標データの知識がない事を利用してのネガティブキャンペーンだった。
それで、ある程度は気を晴らしたニィは、ナナの位置に視線を落とす。その発信源が地図上を転々と移動する様子を指でなぞった。
その行く先を延長させてある地点で、ぴたり、と止めた。
「ホテル777。やはり、か。……榊!」
「はい」
「総員に通達。予定通りにホテル777の包囲監視を継続せよ。ナナを攫ったやつらはそこに向かっている。指示があるまで予定の位置で待機」
「了解しました。予定行動を継続。持ち場で待機。伝達します」
榊が携帯端末を取り上げてよく通る声でニィに言われたことを各方面に連絡しだした。
ニィはそれを聞き流しながらPCのモニタを布津野の間に置いて、とん、と肩を叩いた。
「状況の説明をします」
「ああ」
ニィはモニタの地図を指さし、1秒ごとに移動する赤い点を示す。
「これがナナの居る場所です」その指はナナの移動方向に伸びて止まる。「ここがホテル777。もうすぐオークションが始まる場所です。高い確率でナナはここに運び込まれるでしょう」
「オークション?」
「最適化個体の人身競売です。ようやく場所を突き止めることが出来ました」
「……知っていたのかい?」
布津野の沈んだ声での問いかけに、ニィは背筋をのばした。
「はい。このバージニア州で純人会の競売が開催されていることは知っていました。それに一部の政治家やCIAが関与していることも。俺の計画ではこの証拠を押さえ、政治スキャンダルとして公開し、大統領戦を有利に進めることでした」
布津野は目を閉じる。ニィが、ナナから離れないように、と警告したのはそういった背景があったのだ。思わず唸り声が絞り出る。それなのに、自分は守り切れなかった。
それを追いかけるようにニィは続ける。
「申し訳ありません。CIA長官の純人会への関与を確信できたのは、ナナが長官を見た時の反応を見てからでした。それにこの件に四罪が関与していたのも想定外でした。これは、俺のミスです」
布津野は頭を左右に振って「ナナは無事なのかい」と聞いた。
「無事だと思います。四罪にはナナを殺す理由がない。少なくとも彼らが殺すことはない。彼らの目的はもっと別のところにある」
「どういう事だい?」
「まだ俺の憶測に過ぎません。しかし、彼らはナナを殺さずに生きたまま誘拐した。しかも、驩兜の反骨まで使ってです」
「反骨?」
「あの大きな獣のような奴です。反骨は強化個体のトップ。あいつは戦闘型である驩兜の反骨です」
「ナナを、さらった奴か」
布津野は目を閉じる。大きな獣のような男。むき出しになった獰猛な牙。ナナは怯えていた。
「そうです。法強たちとの政局が怪しい中、四罪はわざわざアメリカにまで幹部を派遣した。その行く先もホテル777。純人会のオークション会場。高貴な嗜みの現場」
「なぜ」
「もしこれが共工の反骨が計画したものならば、そこには緻密に練り込まれた意図があるでしょう。それは……」
ニィは眉を寄せて、唇に指を押し当てた。
知能強化型の共工の反骨。あの男は蛇のように思考をうねらし、無数の思惑をあやらす。
ナナ、人の可能性、競売、純人会。
あいつは常に暗闇の奥底にいる。無音の集中の先に佇んでいる。その孤独に淀み続けたあいつなら……。
ニィは指を噛んで「そうか」と目を開いた。「四罪の狙いは、第七世代を公開すること、か」
ニィは手を握りしめた。
思いつきに過ぎないこの仮説は、本来であれば反証を繰り返して確度を高めていく必要がある。今ここには反証命題を提示するパートナーとなる改良素体はいない。この思考を一人でまとめきらなければならないのだ。
ニィの口からは、ブツブツ、と思考が漏れ出す。
「純人会のネットワークには各国の実力者たちが参加している。そして、この競売の様子はそこに配信されているはずだ。奴らの目の前でナナの存在を明かす。日本は第三世代までの情報しか公開していない。人類平等を掲げた無色化計画の裏には、日本だけが有する第七世代がいた。この事実が明るみになる。純人会の政治家たちは各国を連携させ、対日同盟の機運を焚きつける」
一つの見通しが立った。
「やってくれたな! 莫煌」
本来であれば、他の可能性も検証しなければならない。しかし、時間はなかった。それを確認するための事実は全てホテル777に集中しているはずだ。今は行動あるのみ。
ニィは布津野の顔を覗き込んだ。
「布津野さん、力を貸してください」
「もちろん」
「相当な無茶をお願いしますよ」
「ああ」
「イライジャ」
と、ニィは運転席に声を向けた。
「なぁ、ボス。俺は有給が欲しいんだ。ついでに残業手当も」
「仕事に意味が欲しいのか」
「今は、何でも欲しいのさ」
「純人会はお前の母親をさらった組織だ。そして、お前の父親も純人会の会員だった。そう教えただろ。思い出したか」
「思い出したよ……くそったれ」
イライジャはアクセルを踏み込む。
車が闇を裂いて進む先には、廃墟のはずのホテルがたたずんでいた。





