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[4a-20]ナナ

 布津野は部屋の中で立ち尽くしていた。

 もともとはナナと榊さんの二人部屋だった。今はナナと自分の部屋にしてもらったばかりだ。

 問題はベッドだ。

 大きなダブルベッドで、1つしかない。他に横になれるような場所は見当たらない。ソファもない。木製の机が一つと椅子が二つ。あとはクローゼットにエアコンにボックス冷蔵庫。

 もう床しかない。

 布津野は覚悟を決めなければならなかった。しかし、床は柔らかい絨毯などなく、滑り止めのきいた冷たくて堅いフローリングが向き出しだった。アメリカは室内でも土足で上がる習慣で、床は清潔だとは言い難い。それでも毛布とか適当に敷けば何とかなるかもしれない。

 そんな算段を巡らしながら、布津野はバスルームから聞こえてくる、サーサー、というシャワーの水音が気になってしょうがなかった。よく耳をすませば、ナナの鼻歌が混じっている。

 部屋につくなり、ナナは「お風呂に入らなきゃ」と言って、バスルームに入り込んでしまった。

 一人残されてしまった布津野は、部屋の明かりをつけて辺りを見渡してベッドが一つしかないことに愕然としていた。

 何もこんな時にお風呂に入らなくても……、と思いながらも、やはりそこは女の子なのだから、などと思い直す。なんにせよ、随分と妙な状況になってしまった。

 とりあえず、落ち着こう。

 布津野は状況を整理しようとした。ナナが見た色のない人、その直後にニィからの警告。それらを組み合わせれば、いくら自分でも何か危ない状況なのだと気がつく。

 まずはドアの鍵を確認してチェーンロックもかける。次に部屋の窓を確認。5階から見下ろせばホテルの玄関前。客用の車がまばらに停めてある。窓についてはカーテンをぴしゃりと閉ざした。

 携帯端末のマナーモードを解除して、ニィ君からの連絡が来たらすぐに対応できるように肌身に離さないようにする。後はせいぜい備えつけの施設案内パンフレットに目を通して非常階段の位置を確認するくらいだ。

 サーサー、という音が止んだ。

 さて、これからどうなることやら。ここにロクが居てくれたら助かるのに。冴子さんでもいい。

 ニィ君もとても頭が良いのは間違いないのだけど、どうにも危なっかしいところがある。


「お父さん」と近くでナナの声がした。

「ああ、終わッ……」


 顔を上げた瞬間、布津野は絶句した。

 そこにはバスタオルを一枚だけ体に巻いたナナの姿があった。よく洗濯されたバスタオルは白い。しかし、透き通るように白い彼女の肌とうまく区別がつかず、目を凝らさないとまるで全裸のように見えて、布津野をギョッとさせた。


「た?」

「うん、終わったよ」


 布津野は慌てて視線を落とした。


「ふ、服を着なさい」

「もうちょっと、体を乾かしてからね」

「は、はやく」

「もうちょっと」


 もうちょっと、って具体的に何秒だろう。何分もかかるのだろうか? 

 何かおかしい気がする。体が濡れているならバスタオルがあるだろう。バスタオルは体をふくもので、体に巻くものじゃない。ちゃんと体をふいてからお風呂に上がるように、子供の頃にちゃんと教えたはずなのに。

 布津野は視線と身の置き場に迷って、取りあえず身近にあったベッドに腰を下ろした。

 あと、何分くらいこうして下を向いていればいいのだろうか。

 その時、とん、とベッドを揺れて、すん、と石けんの香りが漂ってきた。そして湯でほのかに暖まったやわらかい感触が、自分の右肩にふれる。

 布津野は身をこわばらせた。


「ナナ、」

「なーに?」


 ナナが猫がのどを鳴らすような声を出した。

 それは最近、飼い始めた猫が食べものをねだる甘え声に似ていた。冴子さんによく懐いて、名前も彼女がつけた。アエガグロピラ・リンナエイという語呂も悪ければ覚えも悪い名前。どうやらマリモの英訳らしい。普段は省略してアエリンと呼んでいる。


「服は着替えたの?」

「ううん」


 日本語は曖昧だな、と布津野は思う。肯定の「うん」と否定の「ううん」がこんなにも似ているのだ。

 その時、ナナが体を滑らせて自分の膝の上に転がった。落として視界に彼女の体が割り込んでくる。肌なのかタオルなのか区別がつかない白くて柔らかいものが膝の上で、やはり猫のように、伸びやかにくつろいでいた。

 その拍子に、もともと頼りなく巻かれたいたバスタオルがほどけそうになった。布津野は反射的に手を伸ばした。胸元から、はだける寸前でそれを押さえつけた。

 押せた手から、少女の柔らかい感触と暖かな熱気と健康的な息づかいが伝わってくる。そのすぐ側には、妻によく似た顔があどけない瞳を輝かせて、じっ、と見つめている。濡れたようにてらりと光る唇は、鮮やかなピンク色を発して微笑んでいた。


「お父さん、」

「ナナ! ……やめなさい」


 と、布津野はきつめに言い放つ。

 ナナは顔を曇らせた。細く整えた眉を寄せて、ピンク色の唇を引き絞め、大きな瞳は濡れて揺れていた。それでも彼女は、膝の上に体を預けながら手を上に伸ばした。その華奢な指先が布津野の頬に触れようとしたとき、


 トントントン、とノックの音がナナの手を止めた。


「誰だい?」と布津野は大声で扉に問いかける。


 日本語で発したその問いかけに扉は答えることはなく、しばらく間を置いて再び、トントントン、とノックを鳴らした。

 布津野は顔をしかめた。ルームサービスは頼んでいない、生徒な誰かなら答えてくれるはずだ。もしかして、ニィ君が懸念したことが的中した可能性はある。


「ナナ、着替えなさい」

「お父さん……キスして」

「早くしないと、ほら起きなッ」


 ナナの白い手が伸びて布津野の頭を絡め取り、ピンク色の小さな唇が布津野の口を塞いだ。か弱いはずの彼女の腕が全力でからみついて、その柔らかい体と唇を押しつけてきた。

 布津野は、すん、と息を吸った。

 そこにはいつものナナとは違う匂いが混じっていた。石けんやシャンプーの香りでもない。鼻の奥を刺すような甘酸っぱい匂い。同じ匂いを布津野は知っていた。ベッドの上で嗅いだことがある。これは女の匂いだ。

 トントントン、と三回目のノックが二人を離れる合図になった。

 布津野がナナの肩を押し、ナナは腕を解いた。

 ピンクの唇が震えて開く。


「……ごめんなさい」


 何も言わない布津野から離れて、ナナはベッドから降りた。

 そのまま鞄の中をまさぐって、服を取り出す。巻いていたバスタオルを足の下に落とした瞬間に、布津野は目を逸らしてベッドから立ち上がった。


 トントントン、


 まるで開けてはならない秘密の扉に挑むように、ノックは鳴り止まなかった。布津野は扉の前まで歩いて行く。真っ白になってしまった頭の中にノックがやけに響く。


 うるさいな


 と、布津野は思った。本当に、とても、うるさい。

 布津野は扉の覗き穴に目を当てる。

 小さな穴の向こうには、見知らぬ男が立っている。スーツ姿のアメリカ人。正面にいるのは白人だが、右側には黒人らしき陰が見えた。白人が2人、黒人が1人。その服装はホテルのスタッフのものではない。


「ナナ」と布津野は振り返らずに聞いた。「着替えたかい?」

「……うん」

「そこで、じっとしていなさい。いいね」

「ごめんなさい」


 ドアの向こうの3人よりも、ナナとちゃんと話さなければならない。どうしたら良いのか分からないけれど、それでもちゃんと話さなければならない。ナナはとても良い子で、こんな自分のことを大切に思ってくれている。そして、自分はナナのことを愛しているのだ。ロクや冴子さんと同じくらい愛しているのに。

 それなのに……。

 穴の向こうにいる白人がショットガンを取り出すのが見えた。奴はその銃口をドアの鍵のあたりに据える。

 布津野は細く息を吐いた。扉から一歩退がって、壁際に身を寄せる。

 ドアの向こうから発砲音。

 ドアノブのあたりが吹き飛んで、ぐちゃぐちゃになる。

 大きな音を立てて押し開かれる扉から、押し蹴った革靴が見えた。

 ふっ、と沸いたのは怒りだった。


 ——土足で入るな。


 布津野の手が蛇のように伸びて、押し入ろうとした白人の首襟を掴み、その頭をドアの縁に押しつける。

 布津野のもう片方の手は開け破られたドアを掴んでいた。そのまま一歩踏み込み、全体重をかけてドアを押し込んだ。

 ドアが閉まる金属音に、ゴリッ、と骨を削るような音が混じる。

 白人の頭蓋骨はドアに挟まれて砕かれた。

 彼は口を大きく口を開いて、声にならない悲鳴を上げる。

 布津野はその髪を掴むと、膝を繰り上げて顔面を叩いた。

 男は後ろに吹き飛ぶ。

 ぶちぶち、と掴んだ手から髪がもぎ取れた。


 布津野は指に絡まった毛髪の束を振り払い、廊下に足を踏み入れる。


 そこにいた残りの白人と黒人は固まって動かない。

 彼らの同僚は、頭の形が変形し、顔面がグチャグチャに潰されて、左半分の髪の毛がずり抜けた状態で、転がっている。

 二人が動き出す前に、布津野はすでに動いていた。

 右の黒人が脇下から拳銃を抜き出そうとした時には、すでに布津野の下段蹴りが膝を払い崩していた。

 腰が抜けるように、体が落ちる。

 ちょうど腰の辺りまで落ちてきた黒人の顔面を、布津野はかぎ爪の形にした掌底で迎え、そのまま両目に指を潜り込ませる。

 ぬちゃり、と肉と固い眼球の隙間に人差し指と薬指をくぐらせる。

 絶叫を上げようと開いた前歯を、抉り込んだ指を頭蓋に引っかけて反動をつけた掌底で打ち砕く。

 砕けた歯は黒人の喉奥に刺さり、絶叫は咳き込みに変わる。そのまま両手で顔を覆い、倒れこもうとした。

 その瞬間、布津野の手は蛇のように黒人の脇下に伸び、そこのホルスターに格納されていたナイフを引き抜く。

 チリリ、と向けられた殺意にひりついてた首筋。

 振り向きながら身をひねる。射撃音。首筋に放たれた弾丸をかわす。そのまま、撃ってきたもう一人の白人にナイフを投げつけた。

 トン、と場違いなほど軽い音を立てて、

 ナイフは男の首に突き刺さった。

 男は拳銃を落として首を抑えながら膝をつく、どくどくと首筋から噴き出す血液が、白いカッターシャツの襟を染めていくのが見えた。


 ——刃物のほうが、綺麗に殺せるな。


 布津野の奥底にそんな当たり前の感想が広がった。廊下では三人の男たちがのたうち回っている。

 頭を潰された白人は動かなくなった口を痙攣させ、ふさがった鼻息を、ぴすぴす、と鳴らしている。

 眼球と前歯を失った黒人は、両目を押さえてうつぶせになりながら、牛のような呻き声を喉の奥から響かせている。

 喉からナイフを生やした白人は、ふーふー、と浅い呼吸を繰り返し、流れ出る血を止めようと必死に喉を押さえる。


 布津野はその中心で立っていた。


 周囲にいる三人は冷たい死のそこに、ゆっくりと引き込まれようとしていた。

 それでも布津野は立っているだけだった。

 この三人は、良い人だったのかもしれない。

 子どもがいて、親がいて、奥さんがいて。帰ってこなければ悲しむ人がいるような人がたくさんいたのかもしれない。彼らにも自分にとってはナナのような、ロクのような、冴子さんのような。そんな存在がいたのかもしれない。

 そう仮説してみても、布津野の奥底に突き刺さった氷柱つららは微動だにしなかった。その柱は死んでしまったあの女の子に支えられている。かつて自分が殺すのを嫌がって守れなかった、あの女の子に。

 本当に守りたいなら……、

 布津野は廊下に転がっていたショットガンを拾う。

 確実に殺さなければならない。

 頭がひしゃげた白人に銃口を向け、その引き金に指をかけた時、


「お父さん」


 沈み込んだ奥底にいた布津野を呼びかける声がした。

 布津野は思わず振り返る。

 破れてしまった扉の向こうに、部屋の奥で愛おしいナナが震えている姿があった。彼女は怯えていた。


「見ないで」と、布津野の口から出てきたのは懇願だった。

「……私、」

「部屋に入ってなさい!」


 思わず、怒鳴った。

 ビクリ、と体をすくませて、ナナは獣から逃げるように視界から消えた。手にした銃がやけに重い。自分が守りたかった人。確実に守りたかった。

 さっきまでのナナの柔らかい匂いと優しい声は消え失せた。もう、血と肉の匂いと呻き声しか聞こえない。


「貴方は本当に、」と背後から声がした。「偽善者ですよ」


 なんだ、ニィ君か。

 布津野は振り返って顔を曇らせた。そこに居たのはニィだけではなかった。その背後に生徒たちがずらりと並んでいる。その間に紛れ込むようにしてイライジャの姿もあった。

 彼らは目を丸くしてこちらを見ていた。ショットガンをぶら下げて血にまみれた自分の姿をしげしげと見ていた。


「それにしても、まぁ派手にやったものです。戦場でも、こんな凄惨な事はしませんよ」


 呻いて転がる男たちを見渡しながら、ニィ君はこちらに近づいてくる。


「貴方はかつてこう言ったそうですね、殺されても殺さないのが平和だ、と。口ではそんな甘ったるい事を唱えながら、その手は猟奇的に殺す。貴方は相当ですよ。宗教家の才能があります」


 そのニィの軽口に布津野は目を閉じた。じっくりと傷口を抉られる痛みを受け入れる。彼は鋭い感性で世界を的確に切り取ることができる。それが今はとても痛い。


「……失礼、少し言い過ぎましたか。貴方にナナを守るように言ったのは俺です。やり方はむごかったですが、やるべき事を成し遂げました」

「君の命令がなくても、僕はやったよ」


 ニィ君のせいにするつもりはない。


「そう、ですか」

「……彼らは?」

「CIAの職員。少なくとも表向きは、ね」


 ニィは片手を上げて後ろに指示を飛ばす。


「こいつらの応急処置をしろ。死んでも構わんが、生きていたほうが都合が良い。一通りの処置が終わったらしゃべれそうな奴を俺の前に」

「「了解」」


 ぞろぞろ、と生徒達がやってきて呻き声を上げて倒れ込んでいる男たちの手足を拘束していった。誰も布津野とは目を合わせようとしない。避けられている事を布津野は何となく感じた。

 視線を落とすと、そこには頭を潰された男をうつぶせにして呼吸を確保している生徒たちがいる。

 今、この子たちは人の命を救おうとしている。僕が殺そうとして、彼らが助ける。逆になってしまったな、と布津野は思った。確かに、僕は偽善者だった。


「ほら、」とニィが布津野の顔を後ろから掴んだ。そのままひねって自分の方にむける。「早く元の布津野さんに戻ってください。話しにくいから」

「……ああ、ごめん」

「謝らなくてもいいですよ。貴方はよくやりました。流石は布津野さんです。それに俺は嬉しいのですよ」

「……」

「貴方はやっぱり、こっち側の人間です」


 布津野の眼前にはニィの顔がある。その目はキラキラと輝いていた。それに耐えきれなくなって、布津野は目を閉じた。


「貴方は、ちゃんと切り捨てられる人だ。可能性を消せる人。その手でちゃんと間引ける人。選択は排除の背反合一。決断と諦めもそう。貴方はその真理を体得している。平和と殺人も同じ。弱きを守ることは強きを殺すこと。陰陽は混然しながら矛盾すること無し」

「ニィ君……」

「その歪んだ表情、とても素敵ですよ」


 うっとり、とした表情でニィは布津野の顔を覗き込む。


「おどろくべき事に貴方はまだ悩み続けている。その体の奥底にかげを宿しながらも、表向きはしか見ようとしない。だから私は愛を込めて貴方を呼ぶのです」


 ニィは唇を布津野の耳によせて、ささやきかけるように吐息をこぼした。


「愚か者で偽善者だと」


 ふっ、とニィは笑って布津野を見下ろした。

 布津野の表情に刻み込まれている葛藤を鑑賞する。どうしてなのだろう、とニィは嘆息をもらす。この愚か者はなぜもこう苦しい生き方しか出来ないのだろうか。


「ニィ隊長、処置を終えました」

「そうか、話せる奴はいたか?」


 ニィは名残惜しそうに布津野から視線を引き離した。


「一名ほど。喉にナイフが刺さっていますが」

「アメリカのファッションは随分とロックだな。鼻にピアスは聞いたことがあるが、喉にナイフは初めて知ったぞ」


 うすら笑いを浮かべながら、ニィはその男の近くへと歩み寄る。男は左右を生徒に取り押さえられ、喉に刺さったナイフの周りをガーゼで覆いその上からテープで厳重に固定されていた。


「さて、」と言ってニィはそこに座り込んだ。「名前は? ナイフマン」

「……」


 脂汗を流し、血を失ったせいか顔面を蒼白にした白人の男は無言でニィを睨みつけた。


「苦しそうだな? 分かった分かった名前はいい。お前のことはナイフマンと呼ぶことにするよ。さて、ミスター・ナイフマン」


 ニィは男の肩に手をのせた。


「君がCIAの職員で、ラルフ・ロス長官からの命令で白髪の少女を誘拐しに来たのはもう知っているから話さなくても良い」

「……」

「君に教えて欲しいのは、オークションの場所さ」


 ニィは男の目が震えたのを見逃さなかった。


「時間がないんだ。お互いにね。いかにナイフマンでも、そのままじゃあ死んじゃうだろ。だから、ね」


 ニィは、にっこり、と笑った。


「お前をこれから拷問にかける事にするよ」


 びくり、と男の体が跳ね上がろうとするのを両脇にいた生徒たちが押しつけて元の位置に座らせた。

 布津野はそれを見ていた。耳の中の翻訳機も正確にニィの発言を日本語に変換していた。


「ニィ君、」

「偽善者は黙ってなさい」とニィは振り返らずに言う。「これにはナナの命もかかっています。他の命もだ。俺たちはまだ戦っている。そうでしょ?」

「……」

「さて、では続きをしようか」


 ニィは英語に戻って、男の喉から生えたナイフの柄を指でなでる。そして、その柄をがっしりと掴んだ。


「知りたいのはオークションの場所と時間。時間がないから拷問の方法は手短にしよう。簡単だ。まず初めに、俺がこのナイフを抜く。そしたら血が噴き出す。そして、お前が場所と時間を言う。満足な答えだったら止血をする。お前は助かる。簡単だろ?」


 その言葉を聞いた瞬間、男の目は見開かれ呼吸が早まった。その体が小刻みに震えだしたが、男は暴れようとはしなかった。彼に喉に刺さっているナイフの柄は、ニィに握られているのだ。


「ナイフマンの異名をとるお前なら、よーく分かっているはずだ。ナイフを抜けば血が出る。人間の体の8%は血液で、その半分くらいがなくなると死んでしまう。お前だったら大体90オンスくらいか。何秒もつか分からないが、何分は持たないだろう。OK、準備はいいか? ナイフを抜く、場所と時間を言う、それから止血だ。分かったな。三秒カウントしてスタートだ。よし、始めるか」


 ニィは空いて手で男の首を掴んで、柄を握り直した。じっ、と男の目を覗き込む。その目は恐怖に揺らいでいた。男が小さな声で「やめてくれ」と言う。


「場所と時間だ」

「知らないんだ」

「それは、残念だ。もう3秒経った」


 ニィは一気にナイフを引き抜いた。

 まるで噴水のように血が喉から吹き上がった。ニィは返り血を浴びながら、男の目をじっと見る。


「あ、あっ、あーー!!」

「時間と場所だ」

「あ! あっ」

「場所はどこだ。オークションの」

「郊外の廃墟のホテルだ! 昔はホテル777と呼ばれていた。今夜だ。そこに白い髪の女の子を連れて行けと言われた!」

「嘘はいけないな、ナイフマン」

「嘘じゃない! はやく止血を」

「そのホテル777とやらは既に調べた。あそこは単なる廃墟だった。誰も居ない」

「本当だ! 年に一度。お偉いがたが『高貴な嗜み』の仕入れに集まる。お願いだ、おねがいだ……助けて」

「ナイフマン、凄い演技だな。しかし、バレバレだ。俺には分かる」

「本当だ、信じて、くれ……お願い、だ」


 男の首が、がくり、とのけぞった。


「止血しろ!」


 ニィが呼びかけると左右の生徒達が男を引き起こして首筋にガーゼを重ねていく。

 ニィは立ち上がると辺りを見渡した。


「第五班はこの三人を隠れ家に移送して潜伏しろ。数日これを確保してくれれば良い。必要な情報は抜き取っておけ」

「「了解」」

「残りはホテル777に仕掛けるぞ、今すぐだ。準備しろ」

「「了解」」


 生徒たちはまるでニィの頭脳と繋がった手足のように、それだけでそれぞれの場所に移動していく。後に取り残されたのは、布津野とイライジャだけだった。


「ニィ、一体どういうことだ」と問いかけたのはイライジャだった。

「イライジャ、とうとう掴んだぞ」

「説明が全然足りてないぞ。ホテル777は違うんじゃなかったのか?」

「いや、ホテル777だ。間違いない」

「しかし、お前がさっき言ったんだぞ。そこはもう調べたと」

「あんなのは嘘だ。本当はホテル777なんて知らなかった。死の間際まで追い詰めて、本音を引き出すための芝居さ」

「……ったく」


 イライジャは髪を掻きむしった。


「それにしても、本当にCIAが? ハリウッドの脚本家だってそんな陳腐な筋書きは書かないぜ」

「単なるCIAではない。オークションに関わっている。PHAだ」

「そんなものが、本当に実在していたなんてな」

「誘拐とオークション。その目で見れば分かるだろう。お前の母親がどうやってアメリカに連れてこられた」

「……」


 イライジャは眉をしかめる。

 ニィは布津野の方を振り返った。


「さて一番説明が必要なのは貴方でしょうね、布津野さん」

「……」

「まだ元に戻らないのですか? そんな事ではこの先が思いやられますよ。何せ相手は陰湿だ。そう言えば貴方はすでに戦ったことがあったはずですね。日本のPHAは貴方に壊滅させられたと聞きましたよ」


 ニィは薄く笑った。


「相手の名はPHA。Pure Human Association。日本では純人会と呼ばれている組織です」


 布津野の目が見開かれた時、


「きゃあ!」と女の子の細い悲鳴が聞こえた。


 布津野の体はそれに反射した。

 ナナの声だ。

 ドアを突き破って、部屋の中に殺到する。黒い影がナナを抱えて窓に足をかけている。その影はまるで獣のような形をしていた。しなやかな四肢をもった巨大な獣。

 その獣はちらり、と布津野をみると。ナナを抱えたまま窓から飛び降りた。

 布津野は窓に殺到した。ここは五階。ナナを探して下を見る。あの獣が壁面を蹴り飛ばして、地上に着地するのが見えた。


「ナナぁ!」

「お父さん!」


 獣はナナを近くの車に詰め込んだ。

 そのまま車は急発進をして消えていく。獣はその場に残っていた。それは二本足で立ち上がって、布津野のほうを見上げた。その大きく裂けた口があいて、獰猛な笑みをつくる。

 次の瞬間、獣はもの凄い速さで駆けだして、あっという間もなく姿を消す。

 布津野は窓から身を乗り出して、ナナを連れ去った車の行く先を探していた。



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舛本つたなの別作品リンク
公爵令嬢になったお腐(ふ)くろさん、(以下略)

本作を大幅に書き直した書籍版(kindleなどの電子書籍もあり)です。 下の画像で出版社さんのサイトに飛びます。 下読みもできますよ。

遺伝子コンプレックス
― 新着の感想 ―
[一言] 最初は難しそうだなぁって思ってたけど気がついたらここまで読んでました...この先も楽しみすぎる 布津野さんの家族思いのところがブレないの大好きです シャンマオvsロクの時もロクが自分でやるっ…
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