[4a-19]糞親父
「大丈夫かい? ナナ」
「うん……ごめんなさい」
「何が?」
「お父さんまで出てきちゃった」
「助かったよ。ああいう偉い人の前は緊張しちゃうから、ナナのお陰で出てこられた」
ハハッ、と布津野は抱え上げたナナに笑いながら廊下を歩いていた。
ここは模擬戦をしたビーチから近いホテルだった。清潔で洗練されたホテルだが、郊外にあるためかそれほど大きな建物ではない。布津野たちや海兵隊たち以外の客も見当たらなかった。
「色、見たの?」
「うん」
「嫌な色?」
「……うん」
布津野は抱き上げたナナの背中を、とんとん、と叩いた。
「あの背の高い、細長い人」
ナナが言うのは、大統領に付き添っていた人だ。
「私を見た瞬間にその人の色が、さっ、て消えたの。私だけじゃない。ニィを見たときも消えたと思う」
「それじゃあ……とっても悪い人だ」
「そう、怖い人」
ナナの腕が首にからまって、布津野の顎の下でナナの長い白髪が左右に揺れる。こんなになるナナは滅多にないな、と布津野は思った。
長い間、ナナと一緒に生活をしていたので、彼女の能力についてはそれなりに理解しているつもりだ。彼女の見る色はとても多彩だ。それこそ色んな人がいる。ただし、ナナには悪意をもった人の色は見ない。
ふとニィ君に言われたことを思い出す。今日は絶対にナナから離れないように、と言われた。
彼は政治とか戦争とか陰謀とか、沢山のことを知っているし、色んなことに気がつく子だ。その彼がそんな不吉な事を言ったのだ。何だか嫌な予感がする。
「ねぇ、お父さん。お願いがあるの」
「なに?」
「今日はね。……、一緒に寝てくれない?」
「そう、だね」
確かにそうしたほうが良いかも知れない。品種改良素体であるナナを狙う人は多くいるし、ニィ君が言ったことも気になる。それに、こんなに震えている彼女を一人にするわけにもいくまい。
しかし、問題は部屋だ。自分の部屋はベッドが一つしかなかった。
ふむ、しかし……、やりようは、ある。
「わかった。今日はお父さんと寝ようか」
「本当に、やった!」
「その代わり、ナナの部屋にしよう。たしか二人部屋だったよね」
「うん、夜絵ちゃんと二人。大丈夫だよ。夜絵ちゃんにはメールする。今日は他の娘のところで泊まってって」
「ああ、そうしてもらおう」
「分かった。メールするね」
布津野は抱きかかえたナナが器用に携帯端末にメールを打ち込んでいくのを見た。ナナは、先ほどまでの恐怖はさっぱりと忘れてしまったようだ。そうと決まれば早く部屋に入ってしまおう。生徒たちにこんな姿を見られたら、また何か言われてしまうに違いない。
布津野の足が速まって、きゃっ、とナナが嬉しそうに声を上げる。
……その時の布津野はまだ知らなかった。
これから向かう部屋は確かに二人部屋だった。
しかし、そこにはダブルベッドが一つしかない、ということに……。
◇
イライジャはテーブルの上で交わされている会話には何一つ興味が持てなかった。
そこで交わされる言葉の一つ一つはひどく軽かった。まるで映画の配給会社があらかじめ用意したメディア向けのインタビュートークみたいだ。
この映画の魅力はなんですか? と聞かれたたら、以下のように答える。それは、あらかじめ用意されている。
俺は何度か撮影現場を見てきたのだけど、今回は最高のスタッフがそろったね。びっくりさ。みんな真っ直ぐ前を向いているんだ。右も左も分からない奴でも、前と後ろは分かるだろう。みんな前なんだ。新人のスタッフも、ベテランの監督も、もちろん俺だって。後ろを向いている奴なんて誰もいなかった。毎日がチャレンジの連続で、俺たちはそれを一つ一つ乗り越えてきた。ああ、もちろんさ。興奮してきたね。夜も眠れない。それがこうやって公開されるんだ。もう何年も待っていたみたいさ。
……駄作であるほど、こういったコマーシャル・トークは名文が用意される。シナリオライターが力を入れるのはそこじゃないだろうに。ぬるい撮影現場に反比例して記者会見直前での演技指導には熱が入るものだ。
記者会見が始まる30分前の楽屋では、マネージャーが手を言い聞かせてくる。
イライジャ。いいか、このくそったれなムービーが赤字を垂れ流して、セールスマネージャーが生理痛に苦しむ姪っ子みたいにギャーギャーと騒ぐかどうかはお前の記者会見にかかってるんだ!
……それ以上の茶番が目の前にある。
映画俳優である自分もびっくりするような迫真の演技が今、テーブルの上で交わされているのだ。
「……つまりニィ氏は日本政府の思惑とは別に動いている、と?」
細面のCIA長官が薄ら笑いを浮かべる。
ニィは足を組んで、背もたれに身をまかせた。
「くどい。何度も言ったはずだ。俺はあんな国には忠誠のかけらも感じていない。貴方たちがどのように感じようとそれは自由。しかし自由と妄想をはき違えるのはアメリカ人の悪い癖だ」
「ふむ、しかし貴方は日本の最精鋭部隊であるGOAの育成部隊員だ。しかし、その正体がイギリスでのあの事件を引き起こした諜報員。違うかね」
「育成部隊? 勘違いしないでもらおう。俺たちはGOAなどという政府の犬じゃない。もっと崇高な存在だ。そう、狼のような」
「どういう事だ? 本演習では合衆国と日本の間で可能な限りの情報開示を約束していた。それが、嘘だと?」
「貴官は質問ばかりだな。では、俺が日本のGOAの育成部隊だと言えば信じるのか?」
「貴方が交渉相手として信用に足るか、それをまずは確認させていただきたい」
ニィとCIA長官の論戦は先ほどからずっと続いていた。
互いの応答は、しかし、表面ばかりを上滑りしていて何一つ前に進んではいなかった。まるで、駄作の売上げみたいだな、とイライジャは肩をすくめた。
「イライジャ・スノー」と突然、大統領が声を発した。
その途端に騒がしかったニィと長官の論戦は、ピタリ、と止んだ。
「退屈されているようだが?」
どうやらこれは自分に対する質問らしい。
「いえ、そんなことはありません。ハリウッドの脚本も政治上の台詞も似ているな、と感心したところです」
「ほう」
「どちらも、大衆を置き去りにしている」
「それが、君の政治的な主張かね?」
大統領は腕を組んでこちらを見ている。
「主張ですか? いえ、全然ちがいます。見当違いですよ、閣下」
「……貴方が大統領に立候補した理由、聞かせてもらえるか?」
イライジャはテーブルに肘をついて、手で自分の口元を覆う。
自分が大統領に立候補した理由!
この目の前の男は、一体どこまで知っているのだろう。まるで全てを知っているような顔をしているが、何一つ分かっていない。ご大層に両手を組んで、肩をいからせてやがる。そんなに自分を大きくみせたいのか!
「さて、……閣下は今までに抱いた女を覚えていますか?」
「……どういう意味かね?」
「言葉通りですよ。まさか童貞というわけじゃないでしょう?」
口を覆っていた手を開いて、今度は目を強く押さえた。
気分は最高だ。もしこれが撮影なら、俺は稀代の悪役を演じきる自身がある。あのアンソニー・ポプキンスだって今の俺にブロードウェイを譲らざるを得まい。
「ああ、失礼。閣下はある意味、童貞に違いありませんね。なんだって、貴方は女を姦したことはあっても、愛したことはない」
「……」
「お察ししますよ。同情はしませんがね。……失礼、ご質問はなんでしたっけ? ああ、そうだ。私が立候補した理由、でしたね。申し訳ありません。用意がありませんでした」
まるで散らかったゴミクズを寄せ集めるように、両手を前に組み込んだ。このゴミクズをどうやって燃やしてしまおうか。
「……閣下を引きずり降ろすため、ですよ」
大統領は黙った。
黙りやがった。
「お前のような下衆が、模範的アメリカ人などと勘違いされて、ほくそ笑んでいるのが気にくわない。それだけです」
イライジャは確信した。今、決心が固まった。
口に発して、初めて気がつくこともある。
自分がやらねばならぬ事。それが形を成したのだ。あるがままの姿がそこにある。囚われた母は苦しんでいた。これに報いると決めたのだ。例え、父親を殺してもそれを成し遂げる。絶対にだ。
ましてや、その父親は汚れているのだから。
「あんたを殺す」
大統領は眉の皺をさらに刻み込んだ。
一度覚悟を決めてしまえば、後は駆け抜けるだけだ。
ああ、俺は絶対に大統領になる。しかし、愛国心のためじゃない。功名心でも名誉でもない。守りたい者なんて何一つない。ただ、こいつをズタズタにするため……。
「当時、軍属だった貴方はある女を強姦した。命令だったのかもしれない。志願したのかもしれない。もし、志願をしたなら今すぐお前を殺してやる」
イライジャの目は鋭く切り立っていて、大統領の視線を釘差しにした。
「お前の下衆な行為の結果、彼女は孕んだ。軍は結果に満足した。知りたかったのは、彼女が通常の性行為で妊娠が可能かを知りたかったからだ」
「……」
「そして彼女は生んだ。軍の命令どおりにちゃんと生んだ。それだけじゃない。生まれた子供を愛して育てた。その子は父親の顔は知らなかった。性欲しかなかった男は顔ひとつ見せなかったからな。……マムは一人で俺を育ててくれた」
イライジャは表情を歪めてながらも、その声は細く落ち着いたものだった。「なぁ」と彼は小さく呼びかけた。「なぁ、大統領」と小さく刻むように。
「答えろよ」
「……」
「なぁ、糞親父!」
「君かね?」
大統領はイライジャから目を逸らしてニィを睨みつけた。
イライジャは組んだ手を解いた。
納得。理解。把握。諦め。理想と現実。
世界の形は想像以上に歪だったが、その原因がハッキリ分かった。
ニィは指をこめかみに押し当てて片目だけ閉じた。
「多少はハリウッド風の脚色が加えられていますが、30年ほど前に日本と貴国の間にあった不幸な事件について、イライジャに教えたのは確かですよ」
「あの件については秘匿するという協定では無かったかね?」
ニィは自分のこめかみを指で、とんとん、と叩いた。
「正確には、第一世代品種改良素体の候補素体を合衆国のCIAとイギリスのSISが共同で誘拐した、という物的証拠について日本政府およびその関係者に秘匿する、という協定でしたね」
「詭弁だな。君は取引にたる信用を失った」
「ならば殺しますか? もっとも私の暗殺についてはそこのCIA長官がすでに何度も試して、失敗し続けていますが」
「……」
「取引にたる信用とはよく言ったものです。もしかして、先に私を殺そうとしたのは貴国であること、大統領はご存じではなかった、と言うことですか?」
黙り込んだ大統領は隣に座る長官を横目で睨む。
長官は器用に片方の眉を引き上げて、その薄い唇を動かす。
「ニィ氏はまだお若い。何か勘違いをされているようですな」
「ほう」とニィが口を歪める。
「取引相手には継続的なアプローチを繰り返す。これは当たり前のことです。ましてや我々は合衆国であり、ニィ氏は日本国とは無関係の個人であるという。こちらとしては、貴方に対する身辺調査くらいは当然の対処かと」
「なるほど。まあご自由に」
「それにしても、」
長官は足を組み替えて片手で頬をもんで、じとり、とニィを眺めた。それは交渉相手を見定める視線というよりも、体を舐め回して堪能するようなゆっくりとした視線だった。
「気をつけたほうが良いですよ。今までは貴方は一人だった。我々からのアプローチについても、上手く対処されてきた。しかし、今は日本からご友人が来られている」
「ご忠告は有難く頂戴しよう」
「例えば、先ほどの美しいお嬢さん。あの白髪は日本でも非常に珍しいと聞きます。貴国の経済発展のせいもあって、合衆国の治安は年々悪化しています。気をつけたほうが良い」
ニィは、はっ、と息を吐いて髪をかき上げた。
「こちらからも忠告しよう。俺がお前の立場ならば、ナナにだけは手を出さない」
「これはこれは、」
「そうすれば、お前は日本政府よりも恐ろしい相手と戦わなくてはならなくなる」
「……ほう」
「俺が日本政府に協力しているように見えるのは、その人が政府中枢と仲が良いからに過ぎない。思い知る事だ。この世には権力などではどうしようもない暴力がある。まぁ、権力に溺れた人間には実感はないでしょうが……。さて、そろそろ終わりにしよう」
ニィは椅子から立ち上がると、イライジャのほうに近寄って肩に手をかけた。
「イライジャ、いこう。今日はここまでだ」
「……ああ」
イライジャは大統領から目を離さずに立ち上がる。
「まて」と大統領がそれに声をかけた。「彼女は、私のことをなんと言っていたかね?」
立ち去ろうとしたイライジャは顔だけで振り返った。
「自分で聞けば良かっただろ。それとも政治で忙しかったか? 大統領」
「……」
「まあ、それももう遅い。マムはもう死んでしまった」
大統領は目を見開いて口をこわばらせた。
イライジャはその表情を見て、決定的だな、と思った。
「最低だよ。あんた。マムが死んだことさえ知らなかったのか」
「私は、」
「こんなテーブルで、脅して、強制して、殺すとか取引とか……そんなことばかりしている男なんて、マムは知りもしないよ。当然だろ」
それだけを言い置いて、イライジャとニィは部屋を後にした。