十九章 否定を繰り返す
彼はとても残酷な存在だ。
結論ありきでいってしまえばそれがすべてだろう。
理解と言う言葉が果てしないのは仕方ない。だがそれを夢見てしまった彼は、その夢に敗れた者達をどうあってもないがしろにする。
なぜならば、彼からすればそれこそが理解が出来ない内容だからだ。
くどすぎるようだが根本として、誰もが少しでも優しい世界に代わる事なんて言うお題目は、不可能なのは当然のことだ。
彼自身がそれをただいるだけで見せつけている。
必死になって世界を救っていたヒーローたちは、そういう夢を抱いて挫折した。人の負の側面は、思っている以上には深くて暗く、どうしようもない挙句に無慈悲である。
そこを知ってしまって、極端な話で善意を信じ切れる人間がいるなら、それはもう狂人と言うのだ。
実際に彼であっても、現実とのすり合わせが出来ずにゆっくりと自壊していった。
きっと人の本質の中には、ありえないような狂的な善性もあるだろうが、逆説的に悪性がないわけがないのである。
人の善性を信じる最初の一歩はきっと、そう言った負の側面を必ず認める必要があるに決まっているのだ。正しいことをしていると思っている人間は、誰よりも排他的で暴力的ですらある。そういったことを律するために、本来は悪性と言うものが存在するのかもしれない。
自分達にはここまで行える素質がある。それに気付く事が出来る事こそが、善性と言う人の持つべき部分であり、律するべき悪性への解答なのだろう。
正しさは、それだけで暴力的ですらある形ではあるのだ。正しすぎれば狂人と呼ばれ、間違い続けてもきっと同じことが言えるのだと思う。
そう言った人が悪性を見て、切除しようというのは間違いではない。
そしてそれを違うというのもきっと間違いではないが、こんなものに正解が出るなら、人間の闘争の歴史はとっくに終わっている。
その時には生物として終わっているかもしれないが、悪性を律するために善性はあり、善性をを律するために悪性がある以上は、結局は自覚して受け入れるしかないのも事実なのだ。
極端に振れた人間は厄介なのは当然だ。
だが彼と言う存在が残酷なのはそこじゃない。本当に残酷なのは、そういう人間ではなく、そのどちらにも動かなかった存在だ。
知らないのではなく、彼はどちらの方向を見てもなお違うと否定したのだ。
諦めて当然の場所を、仕方がないからと言わずに、その場に立ち続けている。始まりがあって、終わりがあるのは当然だが、始まりから終わりに行く過程の中の分岐で、全てを自覚しても変えない事を選ぶことがどういう事だと思うだろう。
変わらない場所で、変わらないままに言う。
かつて自分がそう思いながらも妥協した場所なのだ。人の悪性を許せずに、切り取ることを覚悟した彼らは、何よりその中でも規則を逸脱してまで、その悪性を認めなかった予言のヒーローは、彼の言葉が誰よりも深く突き刺さる。
「お前が諦めた決意を、俺は何一つ諦めちゃいないんだ」
怪物が言うのは、事実だった。
確かに自分は諦めたのだ。きっとあるはずだと信じた場所を、現実によって否定され、最も自分たちにとっては簡単ともいえる方法で終わらせようとした。
だが知っているのだ。彼女が知りうる限りの最善と言う結末は、自分が諦めた場所にあることを、だから傲慢でしかない男の言葉は、諦めた彼女には残酷すぎる言葉でしかない。
簪が彼女の立場なら全力で彼を殺しにかかる。
だが彼女にはそれが出来ない。どこかでではなく、彼女自身が認めてしまっているのだ。
彼の言う言葉が結局自分にとって最も正しい事であると、誰も傷つかないで、泣きもしない、これまでの全てを否定しながらも、彼が起こそうとしている結末は、未来を読まなくても納得してしまいそうになる力がある。
なによりここで何もしなければ、異世界からの蹂躙はなくなるのだ。
でもだ、それでも納得がいくかと言われれば別だ。
こんなことを認めてなるものかと言う感情が、彼女には間違いなくある。なにより彼女は見たのだ、見てしまったのだ。
その男が結局何もかも成し遂げられない未来がある事実が、彼女には見えてしまっている。
どれがだけ崇高な理想と決意をもって、狂気にも似た、いやもはただの生活のようにそれを求める男の結末は、何もかもを成し遂げられない無様な終わりでしかない。
言葉が止められ、決意は否定され、諦めが彼女の心をえぐるだろう。
それでも見えた未来は、結局それが結論なのだ。
何も成し遂げられない男の最後の顛末は、助けた人に殺される。それが結局はこの男の終わりである筈なのに、どれほどの感情をこめても、この言葉を否定できないのだ。
否定しつくして、お前の言葉になんて意味がないと言ってやりたいのに、彼をどれだけ否定できても、自分を容易く存在否定の域で認める事が出来ない人間は、その辺で奇妙な果実の仲間入りでもしているだろう。
リンチされないだけましだが、ぶら下がって朽ちていくだけだ。
彼の言っていることは、どうあっても変えようがない場所だ。現実に流されて諦めた結果が、彼女が今いる場所である。そこに彼はいる、自分の理想の全てが結局そこにあるのだ。
彼女が否定できないのは彼じゃない。自分自身を否定できないだけであるが、目の前にある理想の現身を、どこまでも人間として彼女は否定している。
自分が望んだ場所は、こんな狂気の産物のような男の形じゃない。
だからふさがれた自分の口を何度も動かそうとするのだ。
当たり前の話である。
彼の道理が間違っていないのなら、いやそもそもだ、この世界で間違っている事の方が少ない。間違っているのはいつだって、自分とそれ以外の関係だけでしかない。
だから彼女は、先を見ても否定できなかった女は、それでも彼を絶対に認められない。
彼が問いかける言葉がどれほど正しかろうと、それを信じたいと願うことがどれほど崇高でも、彼女が、小松明と言う女が身を焦がしながらも諦めた代物が、あそこまで狂った精神性の上に成り立つものであると認めてはならないからだ。
夢と希望をこめた世界がディストピアである事を認められるわけがない。
彼だから仕方ないなどと言う妥協を彼女は認められない。
そもそも誰よりも優しさを求める男が、この世界で最も残酷な男なのだ。
だからこそ、誰かによっては当然欺瞞にしか見えない。どれだけ正しくても、芯が通り、肉を持ち、動き出しても、それが誰かによって認められ続けるなどと言う可能性があり得てしまえば、それが地獄の扉である。
パクパクと何度も声を出そうとする。
彼の言葉を否定する理想を吐き出そうとする。
どこまでも変えようのない男は、ただ視線を彼女に合わせながら、次の言葉を待っている。
口にしてしまえば簡単な言葉なのに、何度も、何度もだ、彼女からその言葉が出される事は無い。だが彼女はそれを口にするだけの意志はあるのだ。
あとは自分の言葉を作るだけ。
だが予言のヒーローである彼女は、それだけに秀でているだけのどこにでもいる凡人だ。
簪の様にどこまでも突き詰める事が出来ない。彼の様に変わらないままに突き進むなんて無理だ。
自分を否定してでも正しいと思った方向に行ける化け物と、間違っていようと正しかろうと自分を突き詰めてしまう化け物、彼女はどちらにもなれるような存在じゃない。
しかしなのだ。
もし彼と言う存在の敵となれるのは、そんな彼女の様な存在だけだ。
どこまでも彼女は普通の人だ。
彼と言う存在は、どこまでも正気に狂っている。
そんな彼が気味が悪いと思わないほうが不思議なのだ。そんな存在からあふれ出てきた理想を肯定したいと思う方が、感性としては狂っているのではないか。
自分の我を押し通すなら、結局そこが問題になる。普通の人間なんて極論存在しないが、それでも普通の常識を持った人間に認めさせなければいけない。
そしてそれを肯定させるのは、彼女が否定したがる程度には難題なのだ。
だが間違っているとか正しい以前に、彼女の言いたい言葉は、もっとシンプルで簡単な言葉でもある。
傲慢にも見えるほどの態度をする彼だが、彼女が言いたいのは、態度などではない。彼の理想は認められるし、それが正しいとも思えるが、結局はあることに帰結する事でしかない。
その理想は素晴らしいものだ。
だがその理想をお前が言うから、お前が理想を汚すから、彼女は絶対に彼の決意を認められない。
その理想は私のものだ。
口元が震えているのは、自分を否定する行為であるからで、理解とは極端の場所にありながら、どこまでも似通った思考が、断絶を作り上げている。
しかしだ、これは仕方なくも当然のことでしかない。
似ているという事は同じではなく、違うことの証明でしかない。決して同一に離れない言葉だ。
ならば理解が届かないのも仕方の無い事だ。どちらにしたって理解した気になっているだけの思考でしかない。
似ているのはどうせ上っ面だけであり、自分と違う他人の思考でしかないのだろう。違うのだから仕方なくて、似ているから余計に不快になる。
知った気になったって、そうなったと思い込んでるだけ。
答えがあっても、納得が出来る代物なんて、人の数だけの否定が連ねられる代物だ。
「私は、私は、私が、私だから」
それでも今までの怠慢は払わされる。
どうあっても一度は諦めたのだ。
いろんな言葉があっても口に出せない何かは、彼が言うから信用が出来ない事以外にも、それを諦めた自分が口にすれば、自分指針がそれを汚す。
認められないのは、全社もそうだが公社こそが絶大なのだ。
あれ以下に落とされる理想など、それこそ認められるわけがない。
でも口にしないと何も世界は変えられない。そして行動を起こさなければ何も動かない。
どちらが伴っても、両方ともなっても、出来ない事は当然あるし、それは当然のことではあるが、何もしないのは、何もないのと変わらない。
それは何度も彼が突き付けられてきたことである。
言葉は何も人に語り掛けるだけのものじゃない。
世界に対して、何より自分に対して、告げる時であったって、口にしなければ、誰に対しても働きかける事は無い。
自分自身にだってそうなのだろう。
だが彼女は躊躇い言葉を作る事が出来ずにいる。
その理想を自分が口にできても、彼の様に狂えない。狂気とすら思わせるほどに、理想を願うことが彼女にはできない。
それでも彼の有様は、否定して有り余るだけの理由であるのも事実だ。
どう見たって正気の沙汰とは思えない決意をし、それに見合うような怪物の様な存在と変貌した。
彼は世界の枠に未だに存在しているというのに、その存在の比率だけでいうなら世界を圧迫してしまうだけの質量を持ってしまった。
事象核と言う世界の枠組みの中構成要素ではない。彼と言う存在が、肥大化してただの存在のままに他の存在を打ち消してしまうほどの自己を作り上げてしまった。
それをもって最接近現象、そして世界崩壊を止めてしまったのだ。
本来事象核であろうとも納得がいくはずのない現象だ。壊れた世界をどうやって直すかと言えば、世界を上回りかねない質量を持った何かが、無理矢理力技でどうにかした。
そう言う力の彼のあり方が、どうあっても否定の道に思考を進ませる。
ただの理想だけで、事象核でも何でもない怪物になった証明は、どうあろうとも彼を人間扱いしない代物だ。どれほど怪物的な事があろうと、本当におびえるべき場所は、その膨大なエゴともいえる感情の凶悪さに他ならない。
怯えるなと言う方が無茶苦茶な怪物の理想が、自分と一緒だからと肯定できるわけがない。
自分はどれだけ思っても、そんな風にはなっていない。
ならばあれの怪物性は何なのかと、そういうあらゆる自分との誤差が、彼を肯定できる理由にはならない。
似ている理想は違う理想で、同一でない誤差は、近いからこそ一層際立つだけだ。
あいつはああなるのに、自分はそうはなれない。
あそこまでの化け物になれば気持ち悪いに決まっている。否定するだけの理由しかないのだから、肯定してやる理由はどこにもない。
少なくとも彼みたいな怪物にならなくては達成できない理想など認めたくもない。
そして理論よりも先に感情の決壊が訪れる。
「諦めた、諦めたからなんだ。私以外に誰も言わないじゃないか、お前が気持ち悪いんだ。人類が仲良くしあえるなんて、望んで当然じゃないか、誰だって一度は望んでしまうような代物だよ。
正しいのは知っている。間違っていないのも理解している。けどお前が言うから、お前みたいな人でなしが行う理想の何を認めてやればいいんだ」
逆ギレもいいところだ。
だが自然と納得するところでもあるのも事実だ。
「お前みたいなやつはいないんだ。人間がそこまで高尚な行為を続けられるわけがないんだ。だから私たちはずっと、諦めを選んできたんだ。納得いくいかないじゃなくて、そうしなければもっと悲惨なことが起きていた。
その中お前がしてきたことは何だ。
手を取り合って仲良くしましょうだって、それで助けられなかった人達がいただろうが、損な奴の詭弁と狂気に何を信頼が出来る。人の話を聞けだって、お前だって人の話を聞いたためしがないくせに偉そうなことを言うな」
それも事実なのだ。
どちらもが結局は人の話を聞いてなんかいない。押し通すだけの道理で会話を殴りつけているだけ、だが理想同士のぶつかり合いなんて、そんな物なのかもしれない。
だが彼女は間違えたよりにもよってと言うと場所で彼を肯定してしまっている。
口角が吊り上がり、笑っているというよりもひきつっているような表情に見えるほど彼は表情を変えていく。気味が悪いを超えて、何か別の生物に変化したような違和感すらある。
罵声を浴びせて、以上ない様子を見せる彼に、気が狂ったと思うより先にマゾなのかと思った友人の一人はどうかと思うが、彼が厄介な理由を思い出すだけだ。
「会話を、会話をしてくれるのか。ならいい、むやみな暴力に走らないならいくらでも付き合おう。何度だって理解し合えるまで、妥協無く、絶望的な程に違うさの中から話し合いを選んでくれるなら」
ならば心行くまでと、どちらの意見が押しとおるかわからないが、妥協しえない男と彼女は会話をしようと言ってしまったのだ。
彼の狂ったような笑顔に気おされてしまったが、自分が失敗したことだけは理解する。
感情を振り乱して自分を貫こうとした彼女もまた、彼に似通った思想を持っていることは事実なのだ。戦わないで良いならそうあってほしいと願っていないわけがない。
だが彼女はその会話を否定した。
理解し合いたくなんかないと、初めてこのとき彼の表情は人間らしくゆがんだが、関係の断絶こそが彼に対する最大の否定だ。
「誰が、誰がお前となんて会話をしたいなんて言った。
人の話を聞け、人を見ろ、私はお前を納得したくないんだ。お前なんかの理想を理解なんて誰がしたい。
絶対に納得なんてしたくない。そんな風に成り果てるのが理想の世界の足掛かりだなんて、絶対に認めない」
納得したくない。
そう言われて、目を丸くする。
色々な罵声はあったが彼は理想自体は否定されたことが実はない。だが明確に今彼の思想自体が否定されたのだ。根本的に彼は正しい事をしているという発想はあるが、自分が原因で否定されるという発想は残念ながらない。
だから反論の言葉も浮かばずに、会話をどうしていいか分からないという戸惑いを見せた。
直接的にお前の言葉が気に入らないと言われている。
理想の否定は反論のしようもあるが、自我も自己も強いが、自己評価自体は実は低い男である。その性質が彼の否定に対する反論を用意できないでいるのだ。
戸惑いではなく、どうしてもそう言われても仕方ない存在と自分を貶めているのが、彼と言う男の本質の一つでもある。
だからこの罵声でしかない言葉に彼は言葉を窮する。
と言うより納得してしまうのだ。自分と言う人間性はどこまでも下劣な男であると、自分に厳しいからこそより、肯定の方向には向かわない。自己否定の塊のような男である彼は、自身に対する暴言に対してめっぽう弱いというか、その場性の全てが正しいと思ってしまう。
理想は正しくても、自分が正しいなんて思えない。
そのアンビバレンツな彼の感情は、自身の構成要素の中では実はかなりの割合を占める部分である。自身の所業に対する強烈な自己否定の結果が今の彼の姿なのだ。
誰も彼もを肯定できる男ではあるが、その男がいつだって肯定できないのは自分自身である。
誰もが今までつかなかった彼の本当の意味での急所を容易く突いた彼女は、何も言えなくなった彼の状況に逆に戸惑う。
傲慢なまでの思想の強者であると思っていた男の最大の欠点。本質的には自己の塊でしかない彼が生まれ持ったサガともいえる部分がまさか自分の否定であるだなんて誰が気付くだろうか。
だがそれに彼女が気付けば怒りは一層思えあがるだろう。
自分すら認めてやれない人間が、他の人間を認めるなんて、そんな茶番が許されるわけがない。何もないのに何を認めたと、自分自身も認められないやつが誰を救えるというんだ。
それを言うのなら、自分を認められないから周りを救えるだけなのだが、世界の中で自分をないがしろにできるから、周りに対する献身がある。自身の摩滅も気にならないだけの男が生まれた理由はそこにしかない。
それこそ絶望的なまでに自分がない男が唯一出来る場所がそれなのだが、それを否定する人間もままいるだろう。
正直に言って自分を認められないやつが、他人を認めることに何の問題があるか分からないが、そういう考えがあるのも事実だ。
そして往々にしてそういう時には、彼の様な人間は否定される側の人間である。
だが人類の中で、そこまで自分を認めてやれる人間が、どこまでいるのか教えてほしいと言いたくはなる内容ではある。
所詮それも夢想の絵空事の一つ。
出来ないからこそ憧れるような代物だ。
彼の願いとだってさして変わりがない。
簡単に言えるような言葉なんて本来は実はないのかもしれない。
友達百人出来るかな、そんな言葉を聞いたことがあるだろう。そしていくつか歳を重ねて、義務教育が終わる頃には、馬鹿な願いとでも思うか、幼い頃の戯言と笑うか、その程度の語り口から開いたって変わらない代物だ。
だがいつだって思うことがある。
それを諦める事が正しいのかと、出来なかったことを本来は涙を流しながら悔しがるべではないかと、自分はこんな事すら出来ないくせに、なぜそんなにたやすく諦めきれるのだろう。
こんなのはすべて揚げ足取りの内容に過ぎないだろう。
そう考える時に、自分と言う人間をどこまで信じ切れるのか、そこまで自分を信じ抜ける人間がいるのか、断言できる人間がいるのならそれが怖く感じ、それ以上に気持ちが悪いとすら思ってしまうのだ。
きっとそれは彼女が彼に抱く不快感と似ているのだろう。
そのうえでもう一度冒頭の言葉を言おう。
彼は誰よりも残酷なのだ。
自分が人間として欠陥品であり、きっと根本的には自分の都合でしか動けない事は、そんな事は今更言われなくても知っているし、そんな自分が高尚な事を言いながら、独善をまき散らしている現状を拒絶する人間がいる事なんてもう最初から知っている。
自分がどれほど行動から思想に至るすべてが欠陥品かなど、今更言われるまでもないのだ。
彼女の言葉がどれほどの否定に染まっていようとも、彼は自分が望む結末への信仰者にして殉教者である。
それに彼女自身が言った言葉だ。
どれほどのご高説を賜ろうとも、その男は人の話を聞いているようで一切聞いていない。
「成程、確かにそういう語りもあるのか。納得だ。実に説得力がある」
だから平気でこんな言葉が出てくる。
こいつ自身は何一つ自分の理想に対して、妥協を決してしないのだ。それを他者にも求め、結果として自分を慕ったすべての人間の命を奪い去る末路にまで陥っている。
そしてそれでも諦める事を本人はしなかったのだ。
その残酷さがわかるだろう。これから先もきっと彼はこのままで、無理だと誰から言われてもこうなる。
変わらない事の残酷さは、もう誰にも彼を止める事が出来ない証明であり、どこまでも他者しかないはずの男である存在が、結局誰の事も考えていない事の結末でもある。
思想であり理想であり空想であり夢想の体現者としての怪物が、どうあろうとも彼の本質であり、それと人を繋げて理解者たちからはヒーローと言われているだけに過ぎない。
だから彼の先にはいつだって人は見えていない。
そう言う男に反発する彼女にだって言い分はいくらでもあるのだ。
困ったように笑う男に不快感を感じているのだろう。
成程と何度も口にして、反芻を繰り返して、その行動と言動に怒りををぼ得て声を上げる。
「お前はいつになったら、どうなったら、目の前の人間を見ようとするんだ怪物」
けど結論を言えば人間誰だってそうでしかない。
見ようとする事が出来たって、それ以上が出来るなんて奇跡だ。だから言葉を交わし、体をかわし、そうやって繋がりを作ろうとしてきた。
なのに、出来てないから否定するのはきっと間違えている。
なぜならそれは、言う人間もまた、自分で自分の言葉を否定しているだけでしかない。
「同じだろう。見えてないなら、お前も、こっちも、どいつだってそうだ。だから必死に見ようと努めるんだろう。
そうしようと足掻くんだろう。
もう一度だけ言う。これが最後で、これからは、ただ言葉だけじゃない、行動だけじゃない、両方じゃない。
何もせずに、何かをしようともせずに、自分の見える世界だけで諦めたお前が、たかだか絶望で諦めてしまったお前が、まだ諦めていない俺を否定するな。
その程度で諦めた全てを、まだ諦めるには足りないと思った俺を否定するな。
諦めた言い訳に現実を使うな。
どうあったって、諦めたのはお前らだ。夢を諦めたのは、理想を排したのは、どうあったって、言い訳でしかない。勝手に絶望して、そこから這い上がろうともせずに妥協した末路でしかない。
認めてから踏み出したらいいだけだろう。自分たちは今は失敗したと、次は成功すると、そうやって足掻いていかないと現状が変わるとでも思うのか、失敗したままで結果が残せるなんてのは、どうあって自分に対する欺瞞だ。
だから諦めたなら、今度は諦めるな。絶望したなら今度は踏み出せ、立ち止まったって、ただ俺みたいに犠牲を積み上げて悲鳴を上げる事しか出来ない。
絶望しながら体を引きずって悲鳴を上げ続けろ、惨めなままで、醜いままで、そうやっていかないと何一つ変化なんて起きない。
ヒーローになるのは誰だってできる。ただヒーローであり続けるのはいつだって、そういうことを必死にし続ける事だろう。
見苦しいと笑われたって、無様だと言われ続けたって、どれだけを俺が認められなくたって、願ったそれが間違いじゃないなら、信じ続ける以外に何をするつもりだ。
敵はいつだって現実だ。それを塗り替えなくて、正しくないものが目の前にあって否定できる論理があるなら、いつかそれは絶対に実現できるはずなんだ。そうやって存在するんだ。言葉はそこに存在しているんだ。
現実を塗り替える最初の一歩はもうある。
一度口にしてそれが世界に現れたなら、現実を絶対に揺さぶるだけの振動になり得ている。それを妥協なんて出来るか、それをもう無理だとなんて言えるか、一人の声で足りないなら、一人の声で足りるだけの声を上げるだけだ。
その言葉を絶やすつもりはもうない。そのためにも世界が壊れてなんてくれたら困る。
この程度の危機で、こっちの全てが台無しにされてたまるか。
それが偽りだなんて誰にも言わせてたまるか」
世界の終わりすらこの程度と言う神経もそうだが、彼の言葉には何か訴えかけるものがあったのだろうか。
演説にしか聞えないくせに、彼はただ感情だけを振り乱しただけに過ぎない。
「その為に、敵を間違える様な事を俺はしない。敵が誰であるかを間違える事なんて絶対にありえない」
それでも続ける言葉だが、彼が言った敵の意味を理解できた者がいる筈がない。
現実もそうだが、彼にとって敵とはこの世界に広がる自分以外全てだ。
敵になると言う彼の宣言は、それ程には重い決意の中に出された代物であるのだ。
どれほどの事が在ったって、彼は間違い無く敵だけは見誤ることなどありえない。
瞳孔を開くように、目に入る全てを睨みつけるようにして、自分の敵を視界に収め続ける。それが芋虫の様な男に出来る唯一の行為であり、彼が動き出せる為の言葉の発露だ。
敵になるといったのだ。
全ての敵になると彼は決めているのだ。
ならば彼の敵は変わらない。
自分以外の全てであるのだから間違えるはずが無い。
と、ここまで言っておきながら、それすら間違いである。
彼は最も厄介な敵に気付いていながら、それだけは視界に納める事は出来ない。
この男は自分以外ではなく、自分すらもその存在に含めている。
だから決意は述べられるが途方も無く重い。
意思を吐き出されるが呪いの意味を持つ。
そしてその執着があるからこそ、彼は彼のままでいられる。
「どこまでもそれだけは信じている。絶対にこの理想を貫くだけの意味がある理由を俺は知っている」
だからこそ、
「この理想を諦めたなら、もう一度進め、絶望したならもっと絶望しろ、現実を諦めた理由にする事だけは絶対に俺は許さない。敵に屈服する事なんて絶対に許されてなるものか。
それが無様な男の決意だ。無益な男が世界に誇れる唯一なんだ」
残酷だからこそ、
「だから対話をしよう。どんなことがあたって、対話で絶対にかたをつける。
そして妥協もさせずに納得させる。この理想に意味がある事を、全ての敵に教えてやる」
そんな男だからこそ、彼はこれから世界の敵と呼ばれるまでに貶められる。
だが今はそう呼ばれる男は、見えもしない最後の敵すら感情に収めて叫ぶ。
この理想に妥協する全てに対して、どこまでも受け入れられないだろう理想に対して、その男は自身の持ちうる執着の全てを敵である存在全てに告げていた。




