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遺稿  作者: 緋色友架
6/10

木口舞の驚愕

◆ ◆ ◆


 木口舞は生まれて初めて、ズル休みをした。

 実直でも真面目でもない、間違っても優等生タイプではあり得ない彼女は、今までの人生で皆勤賞というものを頂いたことがない。学生時代の出席状況は惨憺たるもので、出席簿の半分は遅刻の記号で彩られていたことだろう。夜更かしや寝坊の常習犯で、待ち合わせに1時間以上遅刻するなど日常茶飯事だった。

 けれど、遅刻やサボりは飽きるほどやっていたものの。

 積極的に頭を遣い、やむを得ない事情などなにもない癖に、嘘まで吐いて――ズルをして――仕事を休んだことなど、舞の中では人生初の体験だった。

「…………」

 やむを得ない事情なんて、ない。

 ただ、それほどでもない事情ならば、確かにあった。恐ろしいほど慄然と聳える疑惑に対し、現実という名の正論を突きつけるという、なんてことのない事情が。

「……まぁ、わたしも自分がなにをしたいのかなんて、よく分かっていないんだけど」

 一人ごちて、舞は目の前に聳えるそれを見る。

 聳える――――第三者の忌憚ない目線から見れば、決してそれは聳えるなんて単語を用いるほどに仰々しいものではなかった。日本どころか世界中で溢れ返っている、なんてことのないオブジェ。中に人間が居を構えていることを差し引いたって、芸術性からは程遠いそれを、舞は鋭い目で睨みつけていた。

 昨夜。

 寝入ろうとした舞の脳髄を支配したニュース映像――――そこに映っていた、1棟のマンションを。

 尤も、ニュースで具体的な場所まで明示していた訳ではない。そんなことをすれば、個人情報だのなんだの、そういったややこしい事情がテレビ局に総攻撃を仕掛けてくるからだ。ただ、被害者の名前が分かっているのならばそれだけで、今回の場合は充分だった。

「……田崎克久――――藍色友忌、か」

 いいとこ住んでんじゃん。

 会ったこともなければ見たこともない、耳で直接聞いたことさえなかった名前を呟いて、舞は細く長い息を吐いた。

 田崎克久。自宅マンションの屋上から飛び降りて、首なし死体で見つかった青年。

 享年、21歳。

 小説家を志していた青年。藍色友忌の中の人。

 彼の住んでいたマンションは、全体を薄い黄土色で覆われた六階建て。築20年近く経っているものの、別にどこかにガタがきているようには見えない。管理が行き届いているのだろう、周囲の新築家屋よりも小綺麗なくらいだった。

 この屋上から、彼は飛び降りた。

 自らの命を、自ら断ち切った。

「…………弔いとか、そういう性分ではないんだけどね」

 言いながら、舞はマンションの中に入っていく。重い扉を押し開け、セキュリティロックのついた自動ドアの手前で管理人に事情を話し、中へと入れてもらう。

 理由は、テキトーにでっち上げた。

 好々爺の3文字がよく似合いそうな老管理人は、出鱈目極まりない理由を他愛もなく信じ、舞を屋上へと招き入れてくれた。自動ドアが開き、エレベーターの手前まで案内される。

「…………」

 吐いた2秒後には忘れてしまうような嘘を吐いておきながら、舞は罪悪感を抱くことが出来なかった。仕事をズル休みしたことについても、今やなんの感慨もない。

 胸に灯るのは、義務感にも強迫観念にも似た、1つの衝動だけ。

 先程呟いた通り、舞は何故自分がこの場所に来たのか分からないのだ。田崎克久という、どこにでもいそうなありふれた名前を聞いただけで過剰に反応し、プロフィールシートに記されていた住所に単身乗り込むという、プライバシーポリシーぶっちぎりの蛮行を犯すなど、自分らしくもない。それが他ならぬ、木口舞自身の感想だった。

 本当、何故だろうか。

 行かなくてはならないような、そんな気がしたのだ。

 ――いや。

 ――本当は、行かなくちゃならないだなんて思っている。

 ――その理由はもう、分かっている。

「…………」

 妙にゆっくりと動くエレベーターに揺られつつ、舞はごくりと唾を呑む。

 ――――件の田崎克久、つまり藍色友忌の書いた作品は、今までの投稿作に比べても、いや他のどんな作品と比べても異質だった。

 異様だったと言ってもいい。

 主人公と位置付けられていたのは、書いた本人である藍色友忌であり、彼の心内が克明に、それでいて抽象的に描写され、如何にして彼が死を選んだのか。

 ざっくりとまとめればおおよそそんな、物語とも言えないようななにかを書き上げた彼は――――もう、死んでいる。あの小説で描かれたように、自ら命を絶った。

『遺稿』には、肝心要、自身が死ぬシーンが描かれていない。仮に『遺稿』が小説であるならば、実際に出版をしようと思うのならば、構成において欠かすことの出来ないであろう死のシーンが、まったく書かれていないのだ。致命的なまでに、気持ち悪いくらいに欠落している。

 それが、計算尽くでのことだったとしたら。

 田崎克久の死というものと相俟って、『遺稿』が、1つの作品として完成するのだとすれば。

「…………多分、違うんだろうなぁ」

 自分自身の存在を、小説の中に組み込んでしまう。

 成程それは確かに新しいだろう。新しく、奇抜で、それでいて矢張り使い古された手法だ。日本には私小説というジャンルだって確立している。尤も、藍色友忌のそれは死小説とでも称するべき代物なのだが。

 それにしたって、趣が違い過ぎるのだ。

 というか、そもそもがおかしい。無理矢理にこじつけた、牽強付会も甚だしい強引な推理を、木口舞は心底恥じた。赤面した。

 小説を1編仕上げる為に、自分を殺すだなんて。

 本末転倒どころの騒ぎじゃない。異常者程度の仕業じゃない。あくまで自分が生み出す作品でしかない小説を、自身の上に置いてしまっているのだ。

 そんな人間が、いる筈がない。

 いたとしたら、それはもう人間ではない。

 夢という化物に憑かれた――――亡霊だ。

「まぁ…………釣られて来ちゃうわたしもわたしだけど、ね」

 自嘲するようにそう言って――――言ったところで、舞は、目的の場所へと到達した。

 屋上。

 コンクリート打ちっ放しの、平坦な屋上だ。そもそも上ってくることを想定していない為か、柵のようなものはなにもない。避雷針やらテレビのアンテナの残骸やらが突き立っている以外、殺風景という言葉が泣きかねないほどの無が広がっていた。

 エレベーターを降り、梯子を上って辿り着いたそこが。

 藍色友忌が――――田崎克久が、死に場所に選んだ舞台。

「……………………」

 不思議と、恐怖はなかった。

 ここから人が1人、飛び降りて死んでいるのだ。常識的な思考から言えば、なにかしら恐怖めいたものを感じてもよかっただろうし、霊感のある友人などを連れてきたら気持ち悪がったかも知れない。それなのに、舞の心中にはなにもなかった。

 なにも。

 感動も落胆も、心底掛け値なしになにもなかったのだ。

 人が死んだ場所、それもか細いながらも縁のある人間が自殺をした場所に立って。

 なにも感じることが出来ないほどに、木口舞は、神経の太い人間だったか?

「田崎さんは、親孝行のいい子でね」

 と。

 急に押し黙ってしまった舞を気遣うように、後ろからついてきた老管理人が韜晦するような口調で語り出した。

「大学やバイト先で上手くいかなかったり、親が離婚したりと、災難続きだったけれど、いつも周囲を気遣っていた。特に親御さんの手伝いを積極的に行って、…………それが、あんなことになるなんてねぇ」

 お友達のあなたから見ても、そうだったでしょう?

 微かに潤んできた瞳で、老管理人は問いかける。その目を見て、そういえば自分は田崎克久の友人だと嘘を吐いていたのだと思い出す自分を自覚して、ほんの少しだけ、胸が痛む舞であった。

 今更である。

 今更。

「……昨日、克久さんはここから――」

「? 昨日? なにを言ってるんだい?」

 ――――そう、正に今更だったのだ。

 考えてみれば、ここに漕ぎ着けるまでにおかしいことがいくつもあった。否、おかしいことしかなかったと言っていい。

 青年が、飛び降り自殺して、首なし死体となって発見されて。

 その現場にマスコミの1人も来ていないなんて。

 屋上が、現場検証の痕1つない殺風景だなんて。

 管理人がこうも易々現場に通してくれるなんて。

 そんなこと――――あり得る筈がない。

 ちょっと考えれば、すぐに分かったことなのに。

 直後に続く台詞を、舞は、背筋が凍りつくかのような心地で聴くしかなかった。


「田崎さんが死んだのは、もう10日以上前の話だよ? ……でもねぇ、みんなそんなことすっかり忘れちゃって――――これじゃ、彼が生きている時となんにも変わんないねぇ」


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