動揺
「失礼します。」
ノックと共に入室してきたそいつは、この部屋には滅多に来ない人だった。
「久しいな、マーサ。」
マーサとはもう長い仲だ。俺がこの城にやってきたその時から、俺の事を知っている数少ない人物だ。そして、俺が卑しい血と呼ばれているのを知っていながら、そんなことは気にするなと豪快に笑い飛ばしてくれた人物でもある。
最近はネイが俺の世話をしていたために、会うことはめっきりなくなっていた。ネイが俺の傍を離れてから他の女中が世話を焼こうとしてきたが、俺はそれを一切拒絶している。だから、役人以外がこの部屋に来るのは本当に久しぶりだった。
…たまに宰相や神官が呼んでもいないのに出入りしているが。
「誰も寄せ付けずに一心不乱に仕事をしていると聞いたので、お茶をお持ちしました。」
こうやって、俺を心配してくれる人物でもある。母親の記憶はほとんどないが、これが母親と言うものだろうというような包み込むような雰囲気をいつも纏っていた。
「口調、普通でいい。」
そういうと、いつもの調子に戻り、豪快に笑った。
「あんたは仕事に夢中だし、ネイは見かけないし、ミリアは様子がおかしい。<最後の乙女>が現れてからと言うものの、この城内は少し騒がし過ぎるきらいがあるねえ。」
手慣れたようにお茶を注ぐ。口調と所作が合っていないその様子が、なんとも不釣り合いだった。
「さっきだって、ミリアのヤツ急にぶつかってきてね。」
…おかしい。ミリアが仕事中に誰かにぶつかるなど有り得ない。仕事に関してはどこまでも真面目で、ネイに関しては俺にすら注意を厭わないほど頑固な性格をしている。仕事に矜持を持っているあいつのやることではない。
「謝りながら、手を差し出してきてね。立ちあがるのを手伝ってくれたんだけど…身体を起こす時にこれが手に挟まれていた。事情はよく分からないが、秘密裏に渡されたんだ。」
掌に収まる大きさの紙が目の前に差し出される。これは、以前にネイの状況を伝えてきた者と同じ形をしていた。
奪い取るようにしてそれを受け取り、勢い良く開いて読み始める。書き記されていることを、俺は信じたくなかった。
「ミリアが渡してきたなら、それじゃ間違いなくネイ関連だろう。それで、ネイのことならあんたに伝えるべきだろう。間違っていなかったかい?」
「…ああ、ありがとう。申し訳ないんだが、レークと宰相を連れてきてくれないか。ついでに、頼みたい。この手紙の事は他言無用としてほしい。」
早急に手を打つべきだと思い、そう願い出た。
扉が閉じる音が消え、静寂が残った部屋に、俺は一人きり。心が後悔の渦に巻き込まれていた。
なぜすぐに助けに行かなかったのか、と。ネイが<最後の乙女>であるからと、安心し過ぎていた。手を出すことはないだろう、と高を括っていた。
己の不始末を苦しく思い、頭の奥がズキッと痛むような感覚がする。思わず顔をしかめた俺は、眉間に手を這わせ、痛みが治まるのを待った。
…どれほどそうしていたのだろうか。二人が揃って息を切らせてこの部屋に飛び込んできたのと同時に俺は顔を上げる。
悔いても遅い。ならば今から動くまでだ。
そう決心して、二人に話を持ちかける。それは俺の意志の範疇でしかない。
ネイが乙女だから独り占めは出来ないと分かっている。それでも、彼女の心の多くを自分に向けて欲しいと思っている俺は、どれ程自分本位な人間なのだろう。分かってはいるが、止められない。こんなにも狂おしいことなど煩わしいと思っていた俺が、その甘美なまでの幸せに酔いしれて、己の心の舵がとれないのだ。
「ネイに異変が起きた。これを読んでくれ。」
渡した小さな紙を、レークはじっと見つめる。その表情は見る見るうちに険しいものとなった。もう一人へと紙が移行される。しかし、その人物は老眼の所為か上手く読めないらしい。
紙を遠退けたり顔を顰めている様は滑稽で、普段なら笑い飛ばしていてだろうが、今それをするには似つかわしい。一秒でも時間が惜しい俺は、自分の口から説明することにした。
「…ネイが、俺を忘れた。」
言った自分の表情が曇るのが分かった。
目を背けたい異変とは、ネイが俺を忘れたということ。俺と言う存在が記憶から抜け落ちてしまったという事実だ。
「それは、どう言うことだ!」
そんなことは、俺の方が聞きたい。真実など分からないのだから。ただ、ネイに異変が起きたのであれば、それはネイを攫ったやつらの仕業だろう。
「なぜ、そんなに冷静でいられるんだ!お前の大切な人が、お前を忘れたんだぞ?!」
「冷静ではありません!」
俺は震えるほど拳を握りしめていた。
…冷静なんかじゃない。それに、これは俺の責任だ。
「…その紙に走り書きされているのは、三項目。ひとつは“ネイの体調がすぐれず、人形のようだ”と書かれている。ふたつ目は“ネイが魔道師のことを忘れた”、最後は“今日の夜会に参加する”。
意味がどうであれ、起きてる事実だけを書き述べられていると思う。」
手紙を渡すなど、危険極まりない行為。それを無理をしてまでやってのけたミリアの、小さな叫びと恐怖が届けられたような気がしていた。それほどまでに、ネイが危ない状況にいるのだと伝わってきたのだ。
「ネイの体調が悪いんだ。もう黙っていられないだろう。相手の尻尾をつかむのは諦め、早々に奪還しよう。」
そう言い残すと出て行ってしまう。頭に血が上るのが早い宰相は、それをどうやら冷やしに行ったようだ。そう言った自己判断も早くて助かる。冷静でなければ、奪還することもできないだろう。正しい選択だ。
残された二人では、計画を算段することもできない。こう言ったことを考えるのは、やはり年の功である宰相に尤も才がある。
「…貴方は、何を悔いているのですか。」
「すぐに、ネイを奪い返していなかったこと。」
投げかけられた質問にすぐ投げ返す。今、何かをしていなければ、自分がどうにかなってしまいそうだった。
目の奥がズキズキする。俺は先程と同じように、眉間にしわが寄り、仕方なしにそこを右手で抑えていた。
それが余程苦悩に満ちているように見えたのか、レークが俺の心に追い打ちをかける。後から分かる事だが、これは単なる親切だ。
「後悔は無駄です。今すぐ捨ててください。」
「でもっ…」
「捨てなさい。」
いやにきっぱりと言う様に、俺は反論の勢いを削がれた。
確かにその通りだ、と。今考える事ではないと、明確に分かり得る事だ。それさえ、俺は見失っていた。後悔し、何もできなかったと自分を責めることで、まだ終わってもいないのにネイの記憶の中から自分が抹消されてしまったことを諦めようとしていることに腹が立つ。
ネイは俺を忘れたりしない。だって、俺はネイを信じているから。
少し前の言葉を思い出し、少し柔らかい気持ちになる。
ネイはきっと俺を信じてくれている。だから俺も信じる。そうすれば、おのずと原因も見えてくるだろう。どうして俺が記憶から抹消されてしまったのか、その答えが見つかるはずだ。
「…助ける。絶対に。」
「はい、その通りです。」
いつもならば怒り狂ってしまいそうなその飄々とした態度に、今回は救われた。冷静さに事欠き、後悔に苛まれ、己を見失うところだったのを、目の前にいる男が救ってくれたのだ。
「貴方はもっと自分に自信を持ってください。そして、もっと我が儘になっていいんですよ。いき過ぎてはいけませんが、自分に正直になることも必要です。そうでなければ、大切なものを今度こそ本当に失ってしまうでしょう。」
我が儘。正直。自分にいらない感情だと、切り捨ててきたものだ。俺に要求されてきたのは、従順さのみ。自分には理解できない。そう思った時、不意にネイの顔が頭に浮かんだ。
ネイが愛おしい。この腕に納めたい。それは、自分の正直な気持ちではなったか。…まったく持ってその通りだ。
ネイ、お前はすごい。自分でも気づいていなかった感情を、芽生えさせてくれていたんだから。
「俺はとっくに我が儘だ。」
さっきも思ったじゃないか。ネイを己のものにしたい問う欲求。二人を巻き込んでまで、ネイを助けて俺の腕に納めたいという欲求。
絶対に叶えて見せる。
「その意気です。」
俺はレークと二人、ニヤッと笑みを溢しあった。