信じるということ
帰りの馬車は無言。夜の時間はいつもと違って一人きり。ううん、一人ぼっちだった。
私はお風呂に入ってから、自分で髪を拭う。いつもならクーンさんがやってくれてるのに…と、ここまで考えて急に赤面してしまった。
クーンさんが、私のことをその…す、すすススキ、じゃなくて、好きって……?!
考えた事もなかった。自分が誰かから好かれることなんて。
ずっと疎まれて、漸く私を大切にしてくれる人たちが出来たと思ったら、すぐに居なくなった。…また、すぐに居なくなるかもしれない。
そうだよ。きっと、一時の気の迷いだ。また、すぐに裏切られる。私の前からいなくなっちゃう。
だけど、クーンさんはそんな人?
…違う。まだ短いけど、一緒にいて、真摯で誠実で、嘘なんてつく人じゃないって分かってる。なのに、クーンさんの言葉が信じられない。
てゆーか、そんな素振り見せなかったくせに、いきなりあんな状況で言わなくたって。
…あ!
ひらめいた。もしかしたら、私があんな風になってたから、気を紛らわす為に言ってくれたのかも。って、キスの意味は?…よく考えたら、初めてだった。
思いだして、恥ずかしくなって。私はベットの端っこで、小さく蹲る。そして、膝に顔を押し付けた。
きす、しちゃった。唇を手で覆う。あれ、クーンさんが本気だってことを示してるのかな?それとも、やっぱり気を紛らわす為に…?
てゆーか、考えて答えが出ないんだから、今は別のことを考えるべきだ。この先を、どうするか。
いっそのこと、逃げる?それもいいかもしれない。
うん、それが最善。と、言う訳で荷造りを…って言っても、カバンも服もお金も持ってないし。
ぐるりと部屋を見渡しても、自分のものと呼べるものが存在しなかった。この屋敷の中にもたくさんの使用人さんがいて、誰にも気づかれないうちに逃げだすってのも無理そうだ。
はあ、と嘆息一つ。
「ネイ?どうした?」
『宰相さまっ』
宰相さまが扉の近くに立っていた。いつの間に入ったんだろう。全然気付かなかった。
私が吃驚している訳が分かるのか、苦笑して近づいてくる。その手には白いものが握られていた。
「陛下から手紙だ。ネイのことだから、今のうちに逃げだそうとするだろう。だから、そうはさせないという稀を伝えて欲しいとのことだ。」
丸分かりかい。思考が読まれてるのって嫌なんだよねー。てゆーか、展開的にはここで逃げ出すのが王道だから、そう考えちゃうのは仕方ないのかも。
「それより、さっきから百面相をしていたが、何かあったのか。」
何かって、今日はそりゃいろいろありましたよ。乙女だということが知れ渡り、クーンさんに告白とキスをされ、おまけに陛下からは逃亡するなと伝言され。私の意志で動いたことが一個もない。
『宰相さま。』
声をかければ笑顔が返ってきた。顔自体は怖いけど、その人を知っているからこの笑顔がとても優しいことが良く分かってる。なんだ、と聞いてくれるその姿に、おじいちゃんを重ねてしまった。
だから、甘えるように訊ねる。
『信じるってどう言うことですか?』
「それは、難しい問題だな。」
近寄ってきて、ベッドに腰掛ける。それは、真剣に考えてくれようとしてるんだって、そんな風に思える行動だった。
しばらく難しそうな顔で考える。
「まずは、自分を信じる事から始めるべきだ。誰かを信じるよりもまず、自分を信じること。ネイは、自分を好いていない。おそらく、期待もしていなければ信じもしていない。」
違うか、と問われ、思わず考え込んでしまった。
自分は自分でしかない。それを、信じるというのはどう言うことなのか。加えて、自分を好きじゃないことを言い当てられた。本当に、そうだから。
私は小さな声で肯定を示した。
「それが分かってるなら、後は自分の良いところも悪い事も知ること。それが出来れば、自分の理解者になれるよ。」
…難しいことを仰る。
理解できない私は首を傾げたけど、宰相さまは今は分からなくてもいいよ、と言って頭を撫でてきた。
「それともう一つ、自分を信じる事が出来たら、人を信じる事をすればいい。
あと、ネイが聞きたかったことは、おそらく人を信じる方法と、人に信じられる方法だろう。」
…うん、そーだね。
少し考えてしまったけど、結局はそう言うことだ。私は人を信じる事が出来ない。人に嫌われることが怖いのに、その人を信じる事が出来ないなんて、自分勝手過ぎるよね。
「人に信じられたかったら、まずは自分から。」
その言葉は、重くのしかかった。だって、本当にその通りだから。人を信じたいのに、出来ない。だけど、信じて欲しい。そんなの、不公平だもん。
「例として、うちの愚息を出そう。」
『クーンさん?』
そう、と返事が返って来た。何てタイムリーな。その話題は今や私の中では触れちゃいけないことですよ。
って、宰相さまが私たちの間に起きたことなんて知るはずもない。私は小さく頷いて、話を聞くことにした。
「ネイはこちらに来てから、ずっとクーンと居るだろう。あれは、嘘をつくような人間だったか。」
『…いいえ。』
むしろ、吃驚するほど真っ直ぐだ。表情は出にくいけど、決して裏で画策するような人じゃない。私を、本気で心配してくれる人。
「あいつの言葉は信用に足る。違うか?」
『…その通りです。』
今まで嘘なんて無かったもん。私を心配してくれて、私を支えてくれて。クーンさんにとったら利害何もない。それなのに、無条件の優しさをくれる人。
「その返事が出来るんだ。ネイはクーンを信じる事が出来る。私の言葉に嘘はない。これも、そのうち理解してくれると嬉しいよ。」
はい、と返事をすると、宰相さまはもう一度私の頭を撫でて、頬笑みを浮かべてから部屋を出て行った。
…なんか、答えが出た気がする。
信じるということ、だけじゃない。今日の昼間の出来事、クーンさんに言われたこと。
たぶん、自分に都合の良いように決めつけようとしてた。クーンさんが向けてくれた好意を、いつかは離れていくものだから、って。
それに、私の気持ちも。自分の気持ちに鈍感になってた気がする。ううん、分からないふりしてた気がする。
だって、そうでしょ?今まで信じられなかった人たちが傍にいた。信じてもらおうと思っても何度も裏切られたから、信じてもらうことを諦めてた。でも。思い返してみると、自分から信じようとはしていなかった。
私、今までどのくらい殻に籠ってたんだろう。
考え直してみても、答えは見つからない。だって、その殻から脱したところで、あの人たちは私と関わろうとしなかったし、今私の目の前にいる訳でもない。だったら、ここから始めよう。
自分の心に答えを出した私は、クーンさんが今ここに居てくれないことがとてつもなく淋しく思えてきた。
明日、素直になってみよう―――
そう思ったら、心も身体も何だかすっきりと軽くなった気がして、深い眠りにつくことが出来た。