閑話Ⅲ‐その2‐
“お前たちに、わが名を呼ぶことを許そう”
またもや光が視界を覆い、声が響いた。
その美しさ。聞き惚れてしまうほどだった。だが、見上げると少女が涙を流している。すぐさま立ち上がり、その涙を拭っていた。
「やっだー、僕の前で僕の乙女とイチャイチャしないでよーう。」
間の抜けた喋り声。微かにさっきの声だと判断できたが、どうも気が抜けてしまう。
「神、さま…このお方が…」
レークは熱い視線を送っているが、俺はどうも気が抜けてしまった。
『私がいつあんたの乙女になったって言うの。』
神に向かっての堂々とした物言い。流石ネイだ。
「この方が、神…」
見目麗しいその御人は、木で作られた馬のようなものに乗っていた。
『ジュノ、とりあえず木馬で遊ぶの止めなよ。もっとほら、神様っぽい感じで光を背負ってみるとかした方が、見栄えがいいよ?』
相変わらずの口調。二人の会話と、レークの態度に温度差を感じ、自分はどう言う態度を取るべきか計ろうとしていた。
「やあやあ、守人に選ばれたお二人さん。僕は神様。名をジュノワールと言う。」
そこから俺たち二人が乙女の証人である守人であること、ネイはその知識を使ってこの世界を変えるために来たことが告げられた。
その際、神にはいっさいの緊張感の欠片さえもが見受けられなかった。
経緯が語られる毎にネイの顔は難しくなっている。しかし、神は変わらず呑気なものだった。
…ある一言が語られるまでは。
「思い出してごらん。」
神にそう言われた次の瞬間、ネイは切り裂いたような悲鳴を上げた。
『きゃあああああああ!』
頭を抱え、その場に崩れ落ちる。咄嗟に手を差し伸べ、抱きしめる。その小さな身体は小刻みに震え、涙がとめどなく溢れ出していた。
ネイにはもう一人の自分の記憶があるというのが神の話だ。しかし、それが俺にはよく理解できなかった。
ネイはネイに変わりないだろう?
あまりの混乱に、話は明日に回すと言い、明日になれば落ち着くので早々に眠らせるように言われた。
ネイを抱えて家まで連れていく。その間ずっと、俺に縋りつくようにしていたネイは、俺が部屋を出ていこうとするのを止めるほど一人になるのを怖がっていた。
それでも、やらねばならないことがある。一人残して行くのは気が引けたが、自室へと戻る。早くに着替えると、伯父の部屋へと急いだ。
「珍しいな、お前が来るとは。」
少し面白そうに、目を弧の形に細めていた。どうも腹が立つ。
しかし、だからと言って文句を言うつもりはない。早く、ネイの元へ行かなければならないのだから。
いつも意志の強い瞳を持ち、真っ直ぐに俺を見つめる。その瞳が、涙を溢れさせるその様は俺の心を乱す。
早く、傍へ、と。
「明日のことを頼みに来ました。」
「明日…?」
何事かと不思議そうな表情。そうか、と思い、事情を説明した。
「ネイはやはり<最後の乙女>であったか。それで、ネイの様子はどうなんだ?」
これは内面を話すことになってしまう。それは、ネイが嫌がるはずだ。
「何やら混乱しているようで、今は傍に居てやることしか出来そうにありません。ですから、明日の朝から昼までの半休をいただきたい。
一人にすることなど出来かねますから、どうかお許し願えますか?」
これが俺の我儘だということは分かっている。仕事を投げてまでやることではないと、理解できている。
それでも、俺が傍に居てやりたいと思うんだ。
「…いい顔をしているな。お前にしちゃ、いい傾向だよ。」
何やらニヤニヤとした顔で見られている。こういう空気があまり好きではない。
何がいい傾向なんだ…?
理解に苦しむが、一応了承を得た。俺は急いでネイの部屋へと向かう。普段なら何て事の無い距離だが、少し遠く感じた。
いつの間にか駆けだしていたが、廊下で女中のダルシアに呼び止められる。
「ネイさまが、クーンさまをお持ちしております。何があったかは分かりませんが、片時も離れずにお傍に居てあげて下さいませ。」
それを聞いて、分かったと一言だけ残し、また駆けだす。
扉を開いてすぐ傍まで行くと、夜着に着替えたネイが足を抱えて小さくなって泣いていた。
声をかけると。
『…うっ、ん……』
我慢するように嗚咽を漏らし、俺に縋りつくように抱きついてきた。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
大声を上げて泣きはじめたネイは、次第に声が掠れていき、今は鼻を啜るくらいになって落ち着き始めていた。
「頭の中を整理しよう。何があったのか、聞きたい。」
そう切り出すと、素直に話し出す。その内容は、俺よりも、そして以前ネイが話してくれたものよりも、遥かに悲惨だった。
両親の離婚、育児放棄、祖父母の死、父の暴言、そして自らの死。
ネイはそれを他人事のようではあったが、真実味を帯びて話した。神が言っていたことが如実に表されている。
今のネイは、前のネイにもう一人のネイが重なっているようだった。
「二人分の自分の記憶が、混同しているのだな。」
小さく頷いて、また一筋涙を流した。それを、不謹慎にも綺麗だと思った。
ネイはかなりの時間、泣いていた。夜ももう更けていて大分遅い時間だろう。
「…泣き疲れているんじゃないのか?」
そう言って、俺の胸に体重を預けてしがみついている手を何とか解き、持ち上げてベッドの正しい位置までネイを運ぶ。
慣れたように持ちあげられている間、ネイは俺の首へと腕を回した。
『独りに、しないで…』
小さな呟きは、ネイの本心なのだろうか。今までとまるで違うネイは、小さな子供のようだった。…俺から離れようとしない。
これは、常識的に考えても、よくない事だ。夫婦でも、婚約をしている訳でもない。なのに一つのベッドに入って共に寝るなど…
確かに、女を抱いた時も過去を振り返れば何度かありはするが…
自らどうであれ好意を持っている女と共になど、今まであり得たことがなかった。しかし、目を合わせてくれない少女は、小さく震えている。
…この状態で放っておけるわけがあるか。
一瞬戸惑いはしたが、ネイの隣へと滑り込み、それから震える小さな身体を抱きしめ、いつもと同じように頭を撫でた。
「…ネイ。少しだけ、お前の考えに意見したい。いいか?」
先の語りに、どうしても言いたいことがあった。ネイは自己評価が低過ぎる。己の存在の大きさなど、きっと気付いていないのだろう。
「もう一人のネイは、お前が死んでも誰も泣かないと、誰も心を動かされることはないと言ったな。だけど、違う。」
跳ねあげるかのように顔を上げ、漸く目を合わせてくれた。その目は大きく見開かれていたが、少し腫れており、赤くなっている。それが小動物を連想させた上に、己の腕の中に収まっているという事実を、その近さ故に気付かされた。
「今は、俺やレーク、城に居る人だって、ネイと関わった人間はみんな明るくなった。面白い考え方や行動は、みんなの心を動かしている。
みんな、お前のことを想っているよ。」
思った事を伝えた後のネイは、少し安堵したように微笑んだ。そして、泣き疲れたのか、瞼が重たくなっているようだ。
目を完全に閉じ切る前。
「――…よい夢を。」
目を合わせてそう言うと、もう一度微笑んで、眠りへと向かった。
それから一刻ほど俺はこれからの出方を考えながら、ネイの頭を撫でていた。
なぜなら。
「――…この状況で寝られる訳がないだろう。」
この時、己の気持ちと欲望に気付いた。
―――俺は、ネイを…好き、ではなく、愛している。
そう自覚すると、ますますこの状況が厄介になる。しかし、どこか心地よさを感じていた。
己の腕の中で胸に縋りついているこの少女が、自分に気を許していると思えるからだ。
ああ、そうか。俺は随分と前からネイを想っていたのだな。
自覚してしまえば、後はもう募るばかりの情。今までにない感情を思い知った。
自分の生活に、昔から常に追われている。城に住んでいる時には、毎日大人から嫌がらせや暴言を今よりも遥かに多く受けていた。誰が助けてくれる訳でもない。ひたすらに耐えた。
それから、身体の弱い兄よりも健康な俺が王に向いていると進言するものがいて、俺の意志など関係なく、派閥が真っ二つに割れた。そして、暗殺未遂に何度も遭った。
兄を慕い、力になることを元々望んでいた俺は、身の危険を感じて早々に王位継承権を放棄して、遠縁の叔父に当たる宰相殿に引き取られ、騎士団に入団。何とか今の地位に就いた。
毎日の攻防の中、異世界から来たという少女の笑顔に惹かれ、癒されていた。他のもの、特に他の男に笑顔が向けられると、少し、いやかなり面白くないという事もあった。
それが今ならすべて分かる。腑に落ちた。
俺が神から授かった守人と言う役目は、もしかしたらちょうど良かったのかもしれないな。
俺はネイを全ての柵から救い出し、助けたい。そして、ただ傍に居たいんだ。
小さく微笑み、自分の胸にくっついて離れない少女を一度ギュッと強く抱きしめた。少し苦しそうな声を上げる。
それに今度は苦笑を溢して力を弱めると、寝ている事をいいことに額に唇を落とした。
「俺は何に換えても、ネイを守って見せる。」