再会
『お疲れ様でした。』
おそらく夜7時ごろ。いつもよりも早くクーンさんの仕事は終了した。
書類を届けて戻って来たところに、お茶を用意して待っていた。うん、女中としての働きはなかなか悪くないはずだ。
今日はもう何回か書類の配達をしてみてたんだけど、かなり多くの好奇の目にさらされて大変だった。
元々格好や黒髪黒目のおかげで目立ってたからそう苦にはならなかったけど、私の悪女説は完全に浸透しているらしい。変な視線を感じるからね。
まだそれならいい。クーンさんに迷惑にならないもん。
哀れまれてる分だけ、私が悪目立ちするから。クーンさんはただ悪女に操作されてる男ってことでしょ?
「ああ、今日は助かった。」
私の横で、椅子に力無く体を預けている。本当に疲れている姿が見て取れた。
多分だけど、私のこととか聞かれたりして大変だったよね。
何か言葉を返さなくちゃ。そう思ってみても。
『…ごめんなさい。』
謝ることしかできなかった。…他の言葉が思いつけなかった。
また私の所為で負担をかけた。負担を減らそうとしたのに。
「謝るな。ネイは俺が言えない事を言ってくれたんだ。嬉しいよ。」
優しい微笑み。この人は、全てが優し過ぎる。
私は、そんなに良い人間じゃないから。その優しさに触れる度に、心が痛くなった。
「ネイ?どうしたんだ?」
手を差し伸べてくる。纏っている空気さえもが柔らかくて、今の私には刺のように刺さった。
「そんな顔するな。」
次の瞬間、私の視界は黒く埋まっていた。
温かい感触、頭をなでる手。仄かに香る優しい香り。私はクーンさんの全てに包まれていた。
「ネイのその表情を見るのは辛いんだ。」
腕を引かれ、いつの間にかその胸に顔を埋めていた。
座っていたクーンさんには、膝立ちしている状態になっているであろう私の全体重が掛かっている。
重いだろうからと身動ぎしてみても、がっちりと固定されていてできなかった。
「泣きそうで悔しそうで、辛そうな、そんな顔見たくないんだ。」
上から声が降ってきて、その心音が聞こえてきて。少し心地よくなってくる。…ずっと、ここに居たくなる。
でも、駄目だ。
私が関わったら、駄目だ。私になんて関わっちゃったら、ろくな事無い。
気持ちや表情をごまかすなんて簡単なこと。昔から慣れてる。
人と深く関わっちゃいけない。表面上は大丈夫でも、私は人を信じることが上手くできないから。裏切られた時に落胆する辛さは誰よりも知っている。
人に深く関わっちゃいけない。私と接点を持つことで後悔させる羽目になるから。自分の嘘に気付かれたら、良心が痛む。
『大丈夫、私笑えます。』
胸の辺りを押して、私はクーンさんから離れて立ちあがった。
明るくなった視界には、クーンさんが入ってくる。やっぱり心配そうな顔をして、私を見上げていた。
「悪いが、俺には大丈夫そうには見えないな。」
意志の強い瞳は、深い紫の奥がギラついて見えた。
『大丈夫。』
これはクーンさんに言ってるようで、自分に言い聞かせていた。
大丈夫、ひとりでも大丈夫。
一人になったときの孤独さや、信頼していた人がいなくなることは、辛いことだ。だったら、始めからそうならないようにすればいい。
『あ、私、夕飯も用意したんですよ。レークさんも来るみたいだから、用意してきますね!』
そう言って、部屋を飛び出した。
とぼとぼと廊下を進む。
この時間は人もそう多くはいないから、視線も気にならない。厨房へ行くと、夕飯の時間帯で忙しそうに見んな働いているようだった。
温かい料理を出す為に、急いで仕上げて盛り付ける。
私は用意していた夕食用のワゴンをこっそりと引いて、部屋に向かった。
「ネイさん!」
執務室へ着く少し前。ちゃんと顔が作れるか心配で、どうも歩調はゆっくりになっていた。
そんな私に後ろから声をかけてきたのは、レークさんだった。
「今日は大変だったようですね。」
あらら。そこまで噂が広まっちゃってるんですか。
思わず脱力。そんな私の行動から思考が分かったのか、面白そうに笑う声が隣から聞こえた。
笑いごとじゃないんですけどー。
すみません、って言いながら、目元をぬぐっている。そんなに笑わなくてもいいと思うんだけど。
「きっと私が聞いた噂は増長したものなんでしょうね。」
分かってるんなら、私の顔を見ただけで笑わないで下さいよ。
そう言う意味を込めて、半眼でじとーっと睨みつけてやった。
だって、私やクーンさんに取ったら笑いごとじゃないもん。って、そんだけのことしでかしちゃった私が言うことじゃないけど。
「夕食をとりながら、面白い武勇伝でも聞かせて下さい。」
楽しんでるよ、この人。
矜持なんか持ち合わせてない議会の人も厄介だし、話を聞かない騎士団の人も厄介だ。
でも。
誰が一番厄介かって、このお方!レークさんに違いない。
この人は空気が読めないんじゃない。読めないふりをして引っ掻き回してるだけだ。
これは、性格ねじ曲がって、人一倍状況が読める私だから言えること。状況をごちゃまぜにして楽しんでる気がある。
最初は誰よりも優しい人だと思ったけど、笑顔だけだ。誰よりも心根が優しいのはクーンさんに違いない。
そう思ったことでさっきのことを思い出して、何となく戻り難い思いがぶり返してきた。
それでも、歩を進めていれば勝手に目的地に付いちゃうわけで。二人揃ってクーンさんの執務室に入ると、あからさまに脱力しているその部屋の主の姿が目に入り込んだ。
「なんですか、その態度。あからさまに失礼ですねぇ。」
思ってもない事を。
なんて、一連の出来事の所為で思わざるを得ない。私はいつもながらの半眼で睨めつけるだけにとどまった。
『今すぐ用意をしてしまいますね。』
二人には積もる話もあるだろう。今日は大切な事をしなくちゃいけないし。
用意が終わると、二人は挨拶をしてから食べ始めた。
「これは、美味しいですね。」
『すみません。いろいろとあったもので簡単にできるものしか作れなかったんです。』
今日の夕食はスープとサラダとパスタ。カルボナーラだ。
「これが、簡単なのか?」
少々驚きながら味わっている様は、さっきのことを思わせないほど自然な会話だった。
『簡単ですよー。いつものお料理の半分の時間もかかってないですもん。』
自分も出来に満足しながら口に料理を運ぶ。簡単だけど美味しい一品ってとこだねぇ。
「ネイさんは本当に非の打ちどころがない女性ですね。引く手数多でしょう?」
またまたこの人は。思ってもない事を。
『そんなことある訳ないじゃないですか。』
笑ってそう言い放った。そんな私の笑顔に笑顔を返してきたレークさんは、やっぱり強者だと思う。
だんだんレークさんって人が分かってきた気がする。
「これを食べ終わったら神殿へ行くことになる。それによって、今後の状況が変わってくるだろう。」
真剣な声に、思わず背筋が伸びる。これからどうなるか、とか分かんないけど、とりあえず流れに身を任せてみることにした。