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報われない恋の終わりに、君を抱きしめた

掲載日:2026/05/21

 (あれは……ルーカス?)


 渡り廊下を歩いていると、友人がベンチに腰掛けているのが視界の端に見えた。


 (こんなところで、何を……?)


 彼の行動に小さな違和感を感じて、声をかけようと足を踏み出した瞬間、思わず息を呑んだ。


 ――彼の隣に、悪名高いあの女子生徒が座っていたからだ。


 侯爵令嬢、コーデリア。


 清楚な見た目とは裏腹に、手当たり次第地位の高い男子生徒に色目を使い、誘いをかける――そんな噂が絶えない人物。


 彼女の話題になったとき、ルーカスは眉をひそめていたのに。


 (はっ………?)


 彼女と話す彼は、恋に落ちた青年そのものの顔をしていた。頬は緩み、視線は彼女に吸い寄せられている。


 13年共に過ごして、初めて見る彼の姿だった。


 (なんで……?私には、そんな顔、しない……)


 胸の奥がちりちりと焦げ付く。

 叫びだしそうになる言葉を、ぐっと堪える。


 だって、私は、男で。

 ルーカスも、男で。

 

 こんな思い、許されない。


 「ユリウス様……?」


 私に気がついたルーカスから、逃げ出した。

 醜い嫉妬で、何をしてしまうか恐ろしかったから。

 


※※※



 「みんな兄上が良いって言うんだ!……最初は、僕の友達だったのに……」

 「……大丈夫よ。あなただけのお友達を用意するから」


 私は兄王子の側近候補の登龍門として使われていた。仲良くなれた子は、兄の側へ呼び寄せられた。


 兄は、そのころから横柄だった。


 5歳の私は、自分の立ち位置なんてよく理解できていなかったから、ただ、悲しかった。


 そんな私を慰めるため、母が目をつけたのがルーカスだった。兄の元へやるには、教養が足りない。


 ルーカスは、公爵家の庶子だった。

 跡取りがいなくなった途端、貴族にされた元平民。


 公爵家に引き取られたばかりだったのに、彼は私の元へ連れてこられた。


 彼は、可哀想なくらい酷く怯えていた。


 「…わ、わたしは、ルーカスと言います」


 震える声が。

 縋るように揺れる瞳が。

 同い年なのに、庇護欲を強く刺激された。


 (……この子を、守りたい)


 本能的に、そう思った。


 最初は、そんな綺麗な気持ちだった。

 それなのに。


 頭角を現したルーカスを側近に望んだ兄に、「僕はユリウス様がいい」と言い切ってくれたときか。


 公爵に冷遇されても、立ち上がって戦う姿を見たときか。

 

 何が切っ掛けだったのか、今になっては最早分からない。

 

 ルーカスに恋心を抱いてしまうなんて。


 男同士の恋愛は、禁忌だ。

 特に王族の私にとっては。


 何年も隣にいたから、分かる。

 ルーカスは私に恋愛感情を抱いていない。


 諦めようと思って、他の人に目を向けてみたけれど、無理だった。

 こんな汚れた感情、彼は求めてないのに。



※※※



 あれから、2週間が経った。


 「ユリウス様、すみません、用事があって」


 そう言って、今日もルーカスは私から離れていく。

 彼の行き先にいるのは、コーデリアだ。


 ルーカスの姿を見つけた彼女は、ぱっと華やいだ笑顔を浮かべ、駆け寄った。


 「待たせた?」

 「ううん、全然!」


 コーデリアは、無邪気にルーカスの腕に絡みついた。

 私が、触れることなど許されない腕に。

 

 軽い会釈と共に2人は仲良く立ち去っていった。

 付き合っているんだろう、そう感じた。


 噂で聞くよりも、感じの良い子のように思えた。


 婚約者がいない男女が、恋人関係になることは責められるようなことではない。 


 だから、祝ってあげてもいいのかもしれない。

 でも、ルーカスは、無理だった。


 「……どうして、私ではないんだ……」


 ルーカスに聞けない言葉が風に溶けて消えていく。

 


※※※



 ある日の、夕方のことだった。


 (……コーデリア嬢)


 教室で一人、ぽつんとコーデリアが座っていた。

 取り残されたような暗い顔を浮かべる彼女に、薄暗い考えが浮かび上がった。


 (……私を好きにさせたらいい)


 彼女は、男好きだ。

 ルーカスよりも地位があって、顔もいい私が少し優しくすれば、簡単に靡くだろう。

 

 ルーカスに恨まれたとしても、このまま2人が付き合い続けることが我慢できなかった。


 「どうしたの?何かあった?」

 「……っ、ユリウス様!!」


 驚きと戸惑いが入り混じった声が教室に響いた。


 「悲しそうな顔をしてる」


 ゆっくりと歩みよると、彼女の表情を覗き込むように視線を落とした。

 

 「もしかして、誰かに虐められてる?」

 「いいえ、そんなことは……」


 否定するその声は、明らかに元気がなかった。

 

 「……ルーカスが君に何かした?」

 「……っ!」


 図星だったのか、彼女の瞳が強く見開かれた。

 

 「何をされた……? 怖かっただろう……大丈夫?」


 優しい声を装いながら、彼女の反応を逃さないように見つめる。

 しかし、コーデリアは勢いよく首を振った。


 「違います!その逆です!」


 必死に我慢していた感情が噴き出したような声だった。


 「ルーカス様は、手を出してくれないんです!」


 その言葉と同時に、彼女の大きな瞳から涙が零れ落ちた。


 可憐な女性が泣いているというのに、私の心に浮かび上がったのは――喜び。


 (ルーカスは汚されていない……!!)


 彼は彼女に触れていない。

 その事実が、甘い蜜のように私の心を満たしていく。


 差し出したハンカチで涙を抑える彼女は、無防備に私の言葉を待っていた.。


 「そう、なんだね。貴族とはいえ、僕たちも男だよ。触れないってことは……」

 

 私は柔らかく微笑んだ。

 心のなかでは冷たい喜びが静かに広がっていく。

 

 「ルーカスは君のこと好きじゃないんだよ」


 庶子のルーカスは公爵に虐待された跡がある。

 それを隠すため、誰の前でも肌を見せない。


 そんな真実を彼女に教えてあげることなんてしなかった。



※※※   



 「振られてしまいました」


 その言葉は、夜の静けさを破るように落ちた。


 扉を開けて入ってきたルーカスの頬には、赤い手形がくっきりと残っていた。


 普段なら自信に満ちた笑みを浮かべ、堂々とした足取りで歩く彼が――

 今は肩を落とし、まるで迷子の子どものように弱々しい。


 「……そう」


 短く返すと、ルーカスは視線を落としたまま、部屋の中央まで歩み寄ってきた。


 「俺でも、彼女の力になれると思ったのに」


 低く、かすれた声。

 普段の彼からは想像できないほど弱い。


 彼はソファーに腰を下ろし、拳を膝の上でぎゅっと握りしめた。 王宮の豪奢な寝室に似つかわしくないほど、彼は小さく見えた。


 「やっぱり俺は出来損ないだった」


 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。


 (……そんなこと、言うな)


 普段のルーカスは、自信に満ちている。

 剣の稽古でも、学問でも、誰よりも努力し、誰よりも前を向いている。

 そんな彼が――

 今、私の前でだけ、こんなにも弱っている。


 (……こんな姿、他の誰にも見せないくせに)


 その事実が、どうしようもなく愛おしかった。


 「ルーカス」


 名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。

 赤く滲んだ瞳が、弱々しく揺れている。


 その瞬間、私はもう耐えられなかった。

 気づけば、彼の背にそっと腕を回していた。


 「……ユリウス様?」


 驚いたように小さく声が漏れる。

 けれど、拒まれることはなかった。


 むしろ、力が抜けたように彼の身体が私に預けられる。

 華奢な肩が、私の胸元に触れた。


 夜の静けさの中で、彼の呼吸が近い。

 その温度が、私の心の奥まで染み込んでいく。


 「ルーカスは、出来損ないなんかじゃない」


 言葉を落とすと、彼の肩が小さく震えた。

 私はその震えごと包み込むように、腕に力を込める。


 「この世の誰が否定しても、私は……君を受け入れる」


 彼はしばらく黙っていた。

 けれど、やがて小さく、消え入りそうな声で呟いた。


 「……ありがとうございます」


 その声は、弱くて、脆くて――

 そして、私だけに向けられたものだった。



※※※



 しばらくの間は落ち込んでいたルーカスも、二週間も経つとようやく調子を取り戻してきた。


 それでも、時折ふとした瞬間に影が差す。笑っていても、その奥に沈殿した痛みがまだ完全には消えていないことが分かる。


 そんなある日のことだった。


 「なんで……結婚しないといけないんでしょう?」


 唐突に投げかけられた問いに、胸が跳ねた。


 何気ない調子で言ったように聞こえるのに、その実、彼の心の奥底に触れるような重さがあった。


 ――誰とも結婚してほしくない。


 そんな本音が喉元まで込み上げてきて、慌てて飲み込みこんだ。言ってしまえば、もう戻れなくなる。


 返答に迷っていると、ルーカスが視線を落とし、ぽつりと続けた。


 「彼女はただ、親から逃げたかったんです。だから、結婚相手を必死に探してた」


 その声音には、悔しさとも哀しさともつかない感情が滲んでいた。彼はまだ、彼女の痛みを自分のことのように抱えている。


 「振られたのに……彼女のことを助けたいって思うんです」

 

 その言葉に、胸が締めつけられる。


 ルーカスは、本当に心が綺麗だ。

 懐に入れた人を決して見捨てない。

 それが例え、自分を振った相手であっても。


 そんな彼の優しさを誇らしく思う反面、コーデリアがまだ彼の心に居座っていることに、どうしようもなく胸がざわついた。


 「親の元から逃げ出して、平民になったらいい。貴族よりも、自由が多いはずだよ。……その覚悟があれば、だけどね」


 自分でも驚くほど冷静な声が出た。

 本当は、もっと感情的になりそうだったのに。


 コーデリアに相応しい相手を紹介することも、独立して生活するための職を斡旋することもできた。


 だが――私は彼女に遠いところへ行ってほしかった。ルーカスの心から、そっと消えていく距離まで。


 「……平民になった彼女が困ったとき、助けてくれますか?」


 弱々しくも真っ直ぐな願い。

 その瞳には、まだ彼女を思う温度が残っている。


 「それは、もちろん」


 頷くと、ルーカスはほっとしたように肩を撫で下ろした。


 「……よかった。俺、境遇が似てるから、どうしても力になりたかったんです。彼女が救われたら、俺も救われる気がして」


 言いながら、ルーカスは私の手を取った。

 温かい掌が、迷いなく私の指を包み込む。


 「平民になった彼女を支えられるほどの力は俺にはない。だから……ユリウス様、本当にありがとうございます」

 「………別に大したことじゃないよ」

 

 彼から慌てて顔を反らした。

 顔が、熱くなっていくのが分かる。


 彼の何気ない動作に、振り回されてしまう。

 彼が私のこと好きじゃないって分かりきっているのに。


 

※※※



 私は兄が苦手だ。いや、正直にいうと嫌いだ。


 幼い頃からずっとそうだった。兄はいつも私の一歩先を歩き、私の表情を読み、心の揺れを楽しむようなところがある。


 その余裕と狡猾さが、昔からどうしようもなく癪に障った。


 「結果が良ければ、過程など些末なことと思わないか?」

 「……そうかもしれませんね」


 久しぶりに夕食で顔を合わせた兄は、相変わらずだった。


 豪奢な食堂の空気は穏やかで、食卓には温かい料理が並んでいるのに、兄がいるだけで空気がどこか冷たく感じる。


 彼は全てを語らない。語らないことで、私の反応を引き出し、観察し、愉しむ。


 その癖は昔から変わらない。


 「良かったじゃないか、ユリウス。食欲が戻ってきたようだな」

 「その節は、ご心配をかけました」

 「心配? さて、どうだったかな。お前が痩せていくのは見ていて面白かったが」

 「……兄上」


 ルーカスとコーデリアが付き合っていた2週間、私は必要最低限の食事さえ喉を通らなかった。


 兄は当然、そのことを知っている。

 知ったうえで、こうしてわざわざ触れてくるのだ。


 「憂い事が解消されて、なにより。あれは、まだお前に必要か?」


 兄の口元がゆっくりと吊り上がる。

 その笑みは、私の奥底を探るためだけに存在しているようだった。


 「『あれ』ではありません、ルーカスです。いくら兄上とはいえ、ルーカスは渡しません」

 「……側近として、はだろ? あれは優秀だ。他にも使い道がある」

 「……どういう意味です?」


 胸の奥がざわつく。

 兄の言葉はいつも核心をぼかし、こちらの不安を煽る。


 訝しむ私を見て、兄は愉悦を隠そうともせず、喉の奥で笑った。


 「もうすぐ実に面白いことが起こる」


 兄はグラスを手に取り、軽く掲げた。

 その仕草は祝杯のようであり、同時に嵐の前触れのようだった。


 「……さて、ユリウス。お前はどう動くのかが楽しみだ」


 兄の瞳は、私の心の奥底まで見透かすように細められる。


 その視線に、背筋がひやりと冷えた。



※※※



 兄の不吉な言葉が頭の片隅にこびりついて離れない。


 それでも、表面上は平穏な日々が続いていた。

 そんな中、ルーカスと並んで歩いていると、校舎の陰からコーデリアが姿を現した。


 待ち伏せしていたのだろうか。日傘を差しているものの、額にはうっすら汗が浮かんでいる。


 彼女の視線は迷いなくこちらへ向けられていた。


 「ん?俺?」


 ルーカスがきょとんとした顔で声をかける。

 その無邪気さが、夏の光の中でやけに眩しく見えた。


 しかし、コーデリアは首を横に振り、まっすぐ私を見つめた。


 「いえ……ユリウス様にお話があって。今、二人きりで話せますか?」


 その言葉に、ルーカスが目を丸くする。

 驚きと、ほんの少しの不満が混じった表情だった。


 (……面倒くさいな)


 正直、コーデリアと話す必要など感じていなかった。

 それでも、わざわざ私を探して来たという事実が、妙に引っかかった。


 私は微笑んで応じ、ルーカスをその場に残してコーデリアを木陰へと案内した。


 彼女は深呼吸をひとつしてから、静かに口を開いた。


 「この間は、感情的になってしまって、ご迷惑をおかけしました」


 律儀な子だ、と素直に思った。

 ただ、それでも――ルーカスと釣り合うとは、どうしても思えなかった。


 「今思えば、私も酷い言葉を投げかけてしまったから、お互い様だよ」


 安心させるように微笑むと、コーデリアはそっと視線をそらした。


 「いえ、私も薄々気がついていたんです。ルーカス様が私のこと、本当に好きじゃないって。だって、ルーカス様は多分……」


 彼女はぎゅっと唇を噛み、言葉を飲み込んだ。

 その続きを聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちが胸の中でせめぎ合う。


 「……。何でもありません」


 結局、彼女は口をつぐんだ。

 気になった。だが――ルーカスのことを、彼女の口から知りたくはなかった。


 「あの、私の事情を聞いて、ユリウス様が手助けしてくれるって伺いました。本当に……ありがとうございます」


 深く頭を下げると、コーデリアは日傘を開き、夏の光の中へ戻っていった。


 「ふたりで、何話してたんですか」


 戻ると、ルーカスが頬をふくらませて待っていた。

 日差しの下で少し汗ばんだ額、むくれた表情――どれも、どうしようもなく愛しい。


 「……わざわざルーカスに言う必要のないことだよ」

 「酷くないですか、それ」


 不貞腐れたように眉を寄せるルーカスが、可愛くて仕方なかった。



※※※



 それは、本当に――なんてことのない日の夜だった。


 学園へ行き、ルーカスと他愛もない話をして、いつも通りの時間を過ごした。

 その一日が、後になって“かけがえのない日”だったと知るなんて、思いもしなかった。


 部屋の静けさを破るように、コンコン、と軽いノックが響いた。


 「公爵の方が一歩上手だったな」


 扉が開き、兄が入ってきた。

 ドアにもたれかかり、腕を組んだまま、薄く笑っている。


 その余裕のある態度が、いつも以上に不気味に見えた。


 「ユリウス。お前のルーカスが死んだぞ。毒殺だ」 


 一瞬、意味が理解できなかった。

 耳の奥で、変な音がした。心臓が、急に重くなった。


 「……何を、言っているんですか」

 「そのままの意味だ。毒殺だって。まだ十八歳だったのに……哀れなものだ」


 兄は淡々と告げる。

 まるで、天気の話でもしているかのように。


 頭が真っ白になった。

 呼吸が浅くなる。

 喉が焼けるように痛いのに、声が出ない。


 ――嘘だ。

 そんなはずがない。

 今日、笑っていた。

 いつも通り、私の名前を呼んだ。

 あの声が、あの笑顔が――もう二度と戻らないなんて。


 「引き取った庶子の後に、正当な後継者が産まれたんだ。後継者が育てば、庶子なんて不要だよな……? しかも、ルーカスは――」


 兄の言葉が続く。

 だが、もう耳に入らなかった。

 胸の奥で何かが崩れ落ちる音だけが響いていた。


 「……っ」


 気づけば、兄を睨みつけていた。

 怒りとも悲しみともつかない感情が、胸の奥で渦を巻く。

 外套を掴み、乱暴に肩へかける。


 「話の途中だぞ? どこに行こうとしてる」


 兄の声は、いつも通り落ち着いている。

 その冷静さが、今は憎らしかった。


 「公爵家です! あなたと呑気に話している時間はありません!」


 声が震えていた。

 怒りか、恐怖か、絶望か――自分でも分からない。

 ただひとつだけ確かなのは、胸の奥で叫び続ける声。


 ――ルーカスに会わなければ。

 ――確かめなければ。

 ――嘘だと言ってほしい。


 その思いだけが、私を突き動かしていた。



※※※



 「……こんな時間に? 困りますね」


 冷えきった声が、広い応接室に乾いたように響いた。

 グランツ公爵――ルーカスの父は、私を長く待たせた末にようやく姿を見せたかと思えば、まるで厄介な客でも見るように眉をひそめた。


 その態度には、息子を亡くした父親の影など微塵もない。

 胸の奥が、ひどく冷たくなる。


 「……ルーカスは……?」


 声を出した瞬間、自分でも驚くほど震えていた。

 喉が張りつき、息がうまく吸えない。

 それでも、どこかで――ほんのわずかでも、彼が生きている可能性を探していた。


 だが、公爵は鼻で笑った。


 「ここまで来られたのです。もうお分かりでしょう?」


 淡々とした声音が、容赦なく胸に突き刺さる。


 「夕食に毒を混ぜたメイドがおりましてね。ご安心を。その者はすでに処分しました」


 “処分”――

 その言葉の冷たさに、背筋が震えた。

 息子を失ったというのに、公爵の目には悲しみの色は一切ない。

 ただ、厄介事を片づけたと言わんばかりの無機質な冷たさだけがあった。


 「……ルーカスに……最後に会わせてほしい」


 絞り出した声は、祈りにも似ていた。

 胸の奥が痛くて、立っているのもやっとだった。

 せめて、最後に顔を――

 あの温かい笑顔を、もう一度だけ。


 「埋葬しましたので、それはできません」

 「……そんな……葬式も挙げずに……?」


 胸の奥が焼けるように熱くなる。

 怒りなのか、悲しみなのか、自分でも判別できない。


 ただ、心が裂けそうだった。


 そのとき、公爵の表情にわずかに影が差した。

 それが“悲しみ”なのかどうか、判断できないほど薄い影だった。


 「毒殺でしたからね。綺麗な子でしたが……最期は見るに堪えない顔でしたよ。あなたも、あれを見れば余計に苦しむでしょう」


 淡々と告げるその声が、私の心をさらに深く抉った。

 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、呼吸が乱れる。


 ルーカスが苦しんだ姿を想像してしまい、視界が滲んだ。


 「ご要件は以上ですか? ならば、お帰りください」


 突き放すような声音だった。

 そこにあったのは、息子を失った父の姿ではない。

 ただ、不要になった駒の後始末を終えた貴族の顔だった。


 私は、何も言えなかった。

 言葉が喉で崩れ、声にならない。



※※※



 公爵家を出た瞬間、夜風が肌を刺した。

 冷たいはずなのに、熱に浮かされたように息が荒い。

 胸の奥が焼けるように痛い。

 歩いているのか、走っているのか、自分でも分からなかった。


 (……嘘だ。嘘だ。嘘だ……)


 頭の中で同じ言葉が何度も反響する。

 否定しなければ、崩れてしまう。

 認めた瞬間、立っていられなくなる。


 だが――


 「……ユリウス様?」


 耳の奥に、幻のようにルーカスの声が蘇った。

 あの、少し低くて、優しくて、私の名前を呼ぶときだけ柔らかくなる声。


 その声が、もう二度と聞けない。


 その事実が、胸を鋭く貫いた。


 「……っ、あ……」


 視界が揺れた。

 膝が勝手に折れ、石畳に手をつく。

 呼吸が乱れ、喉がひゅうひゅうと音を立てる。


 (やめろ……考えるな……!)


 必死に自分を叱咤するのに、脳裏には次々とルーカスの姿が浮かぶ。


 ――初めて会ったとき、怯えながらも必死に名乗った少年。

 ――剣の稽古で汗を拭いながら笑った横顔。

 ――私の言葉にだけ、少し甘えるように目を細めた瞬間。

 ――「ユリウス様」と呼ぶ、あの声。


 全部、全部、もう戻らない。


 「……いやだ……」


 声にならない声が漏れた。

 喉が焼けるように痛いのに、涙は出ない。

 泣くことすら許されないほど、心が壊れていた。


 「ルーカス……」


 名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。


 「ルーカス……っ……!」


 堰を切ったように涙が溢れた。

 視界が滲み、地面が歪む。

 肩が震え、呼吸が乱れ、声が漏れる。


 「……返して……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 公爵か。

 兄か。

 世界か。

 それとも、神か。


 「返してよ……ルーカスを……っ……!」


 夜の街に、掠れた叫びが落ちていく。

 誰も答えない。

 誰も救ってくれない。


 彼がいない世界は、こんなにも暗い。


 「……っ、ひ……っ……」


 涙が止まらない。

 嗚咽が漏れ、胸が痛くて、息ができない。

 心臓が握り潰されるように苦しい。


 (どうして……どうして……)


 彼は優しかった。

 努力家だった。

 誰よりも真っ直ぐで、誰よりも強かった。


 そんな彼が――

 どうして、こんな終わり方をしなければならない。


 「……ルーカス……」


 震える声で名前を呼ぶ。

 返事はない。

 もう、永遠に。


 その事実が、胸の奥に深く沈み込み、世界を完全に崩壊させた。



※※※


 

 「遺体も確認せずにおめおめと帰らされたのか?  相変わらず爪が甘いな」


 兄の嘲るような声が、胸の奥の傷口に塩を擦り込むように響いた。


 「……うるさいッ、黙れ……!!」


 怒鳴った瞬間、感情が制御できなくなった。

 気づけば、傍らの机へ拳を叩きつけていた。


 ――バンッ!!


 乾いた音が部屋に響き渡る。

 机の上の書類が跳ね、ペンが転がり落ちた。


 拳に鈍い痛みが走る。

 だが、それすらも今の胸の痛みに比べれば、あまりに軽い。


 (……黙れ……黙れ……!!)


 震える拳を机の上に押しつけたまま、必死に呼吸を整える。


 兄は、そんな私の激昂すら愉しむように、薄く笑った。


 「落ち着け。毒殺とはいえ、直ぐに埋葬するのは怪しい。まだ、ルーカスは生きているのではないか?」


 その言葉に、拳を押しつけていた机がきしりと鳴った。


 (……生きている……?)


 机に置いた手に、力がこもる。

 心の奥に、微かな光が灯った。


 兄はゆっくりと歩み寄り、私の顔を覗き込んだ。


 「公爵もルーカスの別の使い道を考えている筈だ」

 「……別の?」


 声が掠れた。

 胸の奥がざわりと揺れる。


 兄は、わざと間を置いてから言った。


 「あぁ、あれは女だからな」

 「は? ルーカスが?」


 思考が一瞬止まった。

 耳鳴りがして、兄の声が遠く聞こえる。


 (……女……? ルーカスが……?)


 頭が真っ白になり、次の言葉が出てこない。

 兄はそんな私の反応を楽しむように、口元を歪めた。


 「気がついてなかったのか? まぁ私も知ったのは最近だがな」


 その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。


 ルーカスが肌を見せることを極端に嫌がった理由。

 公爵家での“冷遇”の意味。

 コーデリアに手を出さなかったという事実。


 全部、繋がってしまう。


 「女は男と違う利用価値がある」


 兄の声が、冷たい刃のように胸へ突き刺さった。


 (……利用価値……? ルーカスを……“利用”……?)


 胃の奥がひっくり返るような嫌悪が込み上げ、思わず口元を押さえた。

 呼吸が乱れ、視界が揺れる。


 もし――

 もし、公爵がルーカスを“死んだことにして”どこかへ売り飛ばしたのだとしたら。


 もし――

 ルーカスが今、知らない場所で、知らない誰かの手に囚われているのだとしたら。


 (……そんな……そんなこと……)


 胸が焼けるように痛い。

 怒りと恐怖が混ざり合い、心臓を掴んで離さない。


 「兄上……公爵は……ルーカスを……どこへ」


 震える声で問うと、兄は愉悦を隠そうともせず、ゆっくりと笑った。

 

 「さあな? 公爵家に行けば分かるんじゃないか?」


 私は歯を食いしばり、拳を固く握った。

 爪が掌に食い込み、じんとした痛みが走る。

 それでも、胸の奥のざわめきは収まらない。


 兄はそんな私を見て、ふっと目を細めた。

 その表情は、まるで“待っていた反応だ”と言わんばかりだった。


 「お前は本当に……ルーカスのことになると分かりやすいな」


 言葉はからかっているのに、声色は妙に楽しげだ。


  「いいものを見せてやる」


 兄の言葉に導かれるように、私はふらつく足で立ち上がった。

 涙で濡れた頬が冷たく、胸の奥はまだ痛みで軋んでいるのに――それでも、身体は勝手に動いていた。


 「……いいもの、とは」


 問いかける声は掠れていた。

 兄は答えず、ただ顎で「ついて来い」と示した。



※※※



 兄が向かったのは、王宮の奥にある客室棟だった。

 普段は客人を泊めるための部屋だが、今は誰も使っていないはずだ。


 「……ここだ」


 兄が立ち止まり、扉に手をかける。

 鍵はかかっていない。

 静かに扉が開くと、薄暗い部屋の中に、かすかな灯りが揺れていた。


 そして――


 「……っ……ルーカス……?」


 ベッドの上に、誰かが横たわっていた。

 白いシーツに沈むように、細い身体が横たわっている。

 金色の髪が枕に広がり、胸がかすかに上下していた。


 生きている。


 その事実が視界を揺らし、膝が崩れそうになる。


 「毒は抜ききっていない。まだ目は覚まさないだろう」


 兄の声が遠く聞こえた。

 私はふらふらとベッドへ近づき、震える手を伸ばす。


 指先が、頬に触れた。

 冷たい。

 けれど――死んだ人間の冷たさではない。


 「……ルーカス……ルーカス……!」


 堪えていた涙が、また溢れた。

 声が震え、喉が詰まる。

 それでも、名を呼ばずにはいられなかった。


 兄はそんな私を見下ろし、肩をすくめた。


 「公爵の興味を引きつけている間に、こっそり救い出させた。お前が泣き崩れている間にな」


 その言葉に、胸が締めつけられる。

 怒りでも、感謝でもない。

 ただ――救われたという事実が、心を揺らした。


 「……兄上……どうして……」


 問いかけると、兄は鼻で笑った。


 「お前が壊れるのは見たくないからだよ。それに――」


 兄はルーカスを一瞥し、薄く笑った。


 「公爵の手に渡すには惜しい駒だ。利用価値があるのは、あの男だけじゃない」


 その言葉に、私は顔を上げた。

 兄の瞳は冷たく、計算高い光を宿している。


 「……兄上。ルーカスを“駒”と呼ぶのはやめてください」


 震える声で言うと、兄は少しだけ目を細めた。


 「なら、お前が守れ。公爵から――そして、私からもな」


 その言葉を残し、兄は踵を返した。

 扉が閉まる音が響き、部屋に静寂が戻る。


 私はベッドの傍らに膝をつき、ルーカスの手をそっと握った。

 細くて、冷たくて、けれど確かに生きている手。


 「……大丈夫。もう大丈夫だから……」


 震える声で囁く。

 返事はない。

 けれど、胸は確かに上下している。


 その事実だけで、世界が少しだけ色を取り戻した。


 「必ず……守るから」


 その誓いは、誰に向けたものでもない。

 ただ、自分自身に刻みつけるように、強く、深く、心に沈めた。




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