報われない恋の終わりに、君を抱きしめた
(あれは……ルーカス?)
渡り廊下を歩いていると、友人がベンチに腰掛けているのが視界の端に見えた。
(こんなところで、何を……?)
彼の行動に小さな違和感を感じて、声をかけようと足を踏み出した瞬間、思わず息を呑んだ。
――彼の隣に、悪名高いあの女子生徒が座っていたからだ。
侯爵令嬢、コーデリア。
清楚な見た目とは裏腹に、手当たり次第地位の高い男子生徒に色目を使い、誘いをかける――そんな噂が絶えない人物。
彼女の話題になったとき、ルーカスは眉をひそめていたのに。
(はっ………?)
彼女と話す彼は、恋に落ちた青年そのものの顔をしていた。頬は緩み、視線は彼女に吸い寄せられている。
13年共に過ごして、初めて見る彼の姿だった。
(なんで……?私には、そんな顔、しない……)
胸の奥がちりちりと焦げ付く。
叫びだしそうになる言葉を、ぐっと堪える。
だって、私は、男で。
ルーカスも、男で。
こんな思い、許されない。
「ユリウス様……?」
私に気がついたルーカスから、逃げ出した。
醜い嫉妬で、何をしてしまうか恐ろしかったから。
※※※
「みんな兄上が良いって言うんだ!……最初は、僕の友達だったのに……」
「……大丈夫よ。あなただけのお友達を用意するから」
私は兄王子の側近候補の登龍門として使われていた。仲良くなれた子は、兄の側へ呼び寄せられた。
兄は、そのころから横柄だった。
5歳の私は、自分の立ち位置なんてよく理解できていなかったから、ただ、悲しかった。
そんな私を慰めるため、母が目をつけたのがルーカスだった。兄の元へやるには、教養が足りない。
ルーカスは、公爵家の庶子だった。
跡取りがいなくなった途端、貴族にされた元平民。
公爵家に引き取られたばかりだったのに、彼は私の元へ連れてこられた。
彼は、可哀想なくらい酷く怯えていた。
「…わ、わたしは、ルーカスと言います」
震える声が。
縋るように揺れる瞳が。
同い年なのに、庇護欲を強く刺激された。
(……この子を、守りたい)
本能的に、そう思った。
最初は、そんな綺麗な気持ちだった。
それなのに。
頭角を現したルーカスを側近に望んだ兄に、「僕はユリウス様がいい」と言い切ってくれたときか。
公爵に冷遇されても、立ち上がって戦う姿を見たときか。
何が切っ掛けだったのか、今になっては最早分からない。
ルーカスに恋心を抱いてしまうなんて。
男同士の恋愛は、禁忌だ。
特に王族の私にとっては。
何年も隣にいたから、分かる。
ルーカスは私に恋愛感情を抱いていない。
諦めようと思って、他の人に目を向けてみたけれど、無理だった。
こんな汚れた感情、彼は求めてないのに。
※※※
あれから、2週間が経った。
「ユリウス様、すみません、用事があって」
そう言って、今日もルーカスは私から離れていく。
彼の行き先にいるのは、コーデリアだ。
ルーカスの姿を見つけた彼女は、ぱっと華やいだ笑顔を浮かべ、駆け寄った。
「待たせた?」
「ううん、全然!」
コーデリアは、無邪気にルーカスの腕に絡みついた。
私が、触れることなど許されない腕に。
軽い会釈と共に2人は仲良く立ち去っていった。
付き合っているんだろう、そう感じた。
噂で聞くよりも、感じの良い子のように思えた。
婚約者がいない男女が、恋人関係になることは責められるようなことではない。
だから、祝ってあげてもいいのかもしれない。
でも、ルーカスは、無理だった。
「……どうして、私ではないんだ……」
ルーカスに聞けない言葉が風に溶けて消えていく。
※※※
ある日の、夕方のことだった。
(……コーデリア嬢)
教室で一人、ぽつんとコーデリアが座っていた。
取り残されたような暗い顔を浮かべる彼女に、薄暗い考えが浮かび上がった。
(……私を好きにさせたらいい)
彼女は、男好きだ。
ルーカスよりも地位があって、顔もいい私が少し優しくすれば、簡単に靡くだろう。
ルーカスに恨まれたとしても、このまま2人が付き合い続けることが我慢できなかった。
「どうしたの?何かあった?」
「……っ、ユリウス様!!」
驚きと戸惑いが入り混じった声が教室に響いた。
「悲しそうな顔をしてる」
ゆっくりと歩みよると、彼女の表情を覗き込むように視線を落とした。
「もしかして、誰かに虐められてる?」
「いいえ、そんなことは……」
否定するその声は、明らかに元気がなかった。
「……ルーカスが君に何かした?」
「……っ!」
図星だったのか、彼女の瞳が強く見開かれた。
「何をされた……? 怖かっただろう……大丈夫?」
優しい声を装いながら、彼女の反応を逃さないように見つめる。
しかし、コーデリアは勢いよく首を振った。
「違います!その逆です!」
必死に我慢していた感情が噴き出したような声だった。
「ルーカス様は、手を出してくれないんです!」
その言葉と同時に、彼女の大きな瞳から涙が零れ落ちた。
可憐な女性が泣いているというのに、私の心に浮かび上がったのは――喜び。
(ルーカスは汚されていない……!!)
彼は彼女に触れていない。
その事実が、甘い蜜のように私の心を満たしていく。
差し出したハンカチで涙を抑える彼女は、無防備に私の言葉を待っていた.。
「そう、なんだね。貴族とはいえ、僕たちも男だよ。触れないってことは……」
私は柔らかく微笑んだ。
心のなかでは冷たい喜びが静かに広がっていく。
「ルーカスは君のこと好きじゃないんだよ」
庶子のルーカスは公爵に虐待された跡がある。
それを隠すため、誰の前でも肌を見せない。
そんな真実を彼女に教えてあげることなんてしなかった。
※※※
「振られてしまいました」
その言葉は、夜の静けさを破るように落ちた。
扉を開けて入ってきたルーカスの頬には、赤い手形がくっきりと残っていた。
普段なら自信に満ちた笑みを浮かべ、堂々とした足取りで歩く彼が――
今は肩を落とし、まるで迷子の子どものように弱々しい。
「……そう」
短く返すと、ルーカスは視線を落としたまま、部屋の中央まで歩み寄ってきた。
「俺でも、彼女の力になれると思ったのに」
低く、かすれた声。
普段の彼からは想像できないほど弱い。
彼はソファーに腰を下ろし、拳を膝の上でぎゅっと握りしめた。 王宮の豪奢な寝室に似つかわしくないほど、彼は小さく見えた。
「やっぱり俺は出来損ないだった」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
(……そんなこと、言うな)
普段のルーカスは、自信に満ちている。
剣の稽古でも、学問でも、誰よりも努力し、誰よりも前を向いている。
そんな彼が――
今、私の前でだけ、こんなにも弱っている。
(……こんな姿、他の誰にも見せないくせに)
その事実が、どうしようもなく愛おしかった。
「ルーカス」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。
赤く滲んだ瞳が、弱々しく揺れている。
その瞬間、私はもう耐えられなかった。
気づけば、彼の背にそっと腕を回していた。
「……ユリウス様?」
驚いたように小さく声が漏れる。
けれど、拒まれることはなかった。
むしろ、力が抜けたように彼の身体が私に預けられる。
華奢な肩が、私の胸元に触れた。
夜の静けさの中で、彼の呼吸が近い。
その温度が、私の心の奥まで染み込んでいく。
「ルーカスは、出来損ないなんかじゃない」
言葉を落とすと、彼の肩が小さく震えた。
私はその震えごと包み込むように、腕に力を込める。
「この世の誰が否定しても、私は……君を受け入れる」
彼はしばらく黙っていた。
けれど、やがて小さく、消え入りそうな声で呟いた。
「……ありがとうございます」
その声は、弱くて、脆くて――
そして、私だけに向けられたものだった。
※※※
しばらくの間は落ち込んでいたルーカスも、二週間も経つとようやく調子を取り戻してきた。
それでも、時折ふとした瞬間に影が差す。笑っていても、その奥に沈殿した痛みがまだ完全には消えていないことが分かる。
そんなある日のことだった。
「なんで……結婚しないといけないんでしょう?」
唐突に投げかけられた問いに、胸が跳ねた。
何気ない調子で言ったように聞こえるのに、その実、彼の心の奥底に触れるような重さがあった。
――誰とも結婚してほしくない。
そんな本音が喉元まで込み上げてきて、慌てて飲み込みこんだ。言ってしまえば、もう戻れなくなる。
返答に迷っていると、ルーカスが視線を落とし、ぽつりと続けた。
「彼女はただ、親から逃げたかったんです。だから、結婚相手を必死に探してた」
その声音には、悔しさとも哀しさともつかない感情が滲んでいた。彼はまだ、彼女の痛みを自分のことのように抱えている。
「振られたのに……彼女のことを助けたいって思うんです」
その言葉に、胸が締めつけられる。
ルーカスは、本当に心が綺麗だ。
懐に入れた人を決して見捨てない。
それが例え、自分を振った相手であっても。
そんな彼の優しさを誇らしく思う反面、コーデリアがまだ彼の心に居座っていることに、どうしようもなく胸がざわついた。
「親の元から逃げ出して、平民になったらいい。貴族よりも、自由が多いはずだよ。……その覚悟があれば、だけどね」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
本当は、もっと感情的になりそうだったのに。
コーデリアに相応しい相手を紹介することも、独立して生活するための職を斡旋することもできた。
だが――私は彼女に遠いところへ行ってほしかった。ルーカスの心から、そっと消えていく距離まで。
「……平民になった彼女が困ったとき、助けてくれますか?」
弱々しくも真っ直ぐな願い。
その瞳には、まだ彼女を思う温度が残っている。
「それは、もちろん」
頷くと、ルーカスはほっとしたように肩を撫で下ろした。
「……よかった。俺、境遇が似てるから、どうしても力になりたかったんです。彼女が救われたら、俺も救われる気がして」
言いながら、ルーカスは私の手を取った。
温かい掌が、迷いなく私の指を包み込む。
「平民になった彼女を支えられるほどの力は俺にはない。だから……ユリウス様、本当にありがとうございます」
「………別に大したことじゃないよ」
彼から慌てて顔を反らした。
顔が、熱くなっていくのが分かる。
彼の何気ない動作に、振り回されてしまう。
彼が私のこと好きじゃないって分かりきっているのに。
※※※
私は兄が苦手だ。いや、正直にいうと嫌いだ。
幼い頃からずっとそうだった。兄はいつも私の一歩先を歩き、私の表情を読み、心の揺れを楽しむようなところがある。
その余裕と狡猾さが、昔からどうしようもなく癪に障った。
「結果が良ければ、過程など些末なことと思わないか?」
「……そうかもしれませんね」
久しぶりに夕食で顔を合わせた兄は、相変わらずだった。
豪奢な食堂の空気は穏やかで、食卓には温かい料理が並んでいるのに、兄がいるだけで空気がどこか冷たく感じる。
彼は全てを語らない。語らないことで、私の反応を引き出し、観察し、愉しむ。
その癖は昔から変わらない。
「良かったじゃないか、ユリウス。食欲が戻ってきたようだな」
「その節は、ご心配をかけました」
「心配? さて、どうだったかな。お前が痩せていくのは見ていて面白かったが」
「……兄上」
ルーカスとコーデリアが付き合っていた2週間、私は必要最低限の食事さえ喉を通らなかった。
兄は当然、そのことを知っている。
知ったうえで、こうしてわざわざ触れてくるのだ。
「憂い事が解消されて、なにより。あれは、まだお前に必要か?」
兄の口元がゆっくりと吊り上がる。
その笑みは、私の奥底を探るためだけに存在しているようだった。
「『あれ』ではありません、ルーカスです。いくら兄上とはいえ、ルーカスは渡しません」
「……側近として、はだろ? あれは優秀だ。他にも使い道がある」
「……どういう意味です?」
胸の奥がざわつく。
兄の言葉はいつも核心をぼかし、こちらの不安を煽る。
訝しむ私を見て、兄は愉悦を隠そうともせず、喉の奥で笑った。
「もうすぐ実に面白いことが起こる」
兄はグラスを手に取り、軽く掲げた。
その仕草は祝杯のようであり、同時に嵐の前触れのようだった。
「……さて、ユリウス。お前はどう動くのかが楽しみだ」
兄の瞳は、私の心の奥底まで見透かすように細められる。
その視線に、背筋がひやりと冷えた。
※※※
兄の不吉な言葉が頭の片隅にこびりついて離れない。
それでも、表面上は平穏な日々が続いていた。
そんな中、ルーカスと並んで歩いていると、校舎の陰からコーデリアが姿を現した。
待ち伏せしていたのだろうか。日傘を差しているものの、額にはうっすら汗が浮かんでいる。
彼女の視線は迷いなくこちらへ向けられていた。
「ん?俺?」
ルーカスがきょとんとした顔で声をかける。
その無邪気さが、夏の光の中でやけに眩しく見えた。
しかし、コーデリアは首を横に振り、まっすぐ私を見つめた。
「いえ……ユリウス様にお話があって。今、二人きりで話せますか?」
その言葉に、ルーカスが目を丸くする。
驚きと、ほんの少しの不満が混じった表情だった。
(……面倒くさいな)
正直、コーデリアと話す必要など感じていなかった。
それでも、わざわざ私を探して来たという事実が、妙に引っかかった。
私は微笑んで応じ、ルーカスをその場に残してコーデリアを木陰へと案内した。
彼女は深呼吸をひとつしてから、静かに口を開いた。
「この間は、感情的になってしまって、ご迷惑をおかけしました」
律儀な子だ、と素直に思った。
ただ、それでも――ルーカスと釣り合うとは、どうしても思えなかった。
「今思えば、私も酷い言葉を投げかけてしまったから、お互い様だよ」
安心させるように微笑むと、コーデリアはそっと視線をそらした。
「いえ、私も薄々気がついていたんです。ルーカス様が私のこと、本当に好きじゃないって。だって、ルーカス様は多分……」
彼女はぎゅっと唇を噛み、言葉を飲み込んだ。
その続きを聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちが胸の中でせめぎ合う。
「……。何でもありません」
結局、彼女は口をつぐんだ。
気になった。だが――ルーカスのことを、彼女の口から知りたくはなかった。
「あの、私の事情を聞いて、ユリウス様が手助けしてくれるって伺いました。本当に……ありがとうございます」
深く頭を下げると、コーデリアは日傘を開き、夏の光の中へ戻っていった。
「ふたりで、何話してたんですか」
戻ると、ルーカスが頬をふくらませて待っていた。
日差しの下で少し汗ばんだ額、むくれた表情――どれも、どうしようもなく愛しい。
「……わざわざルーカスに言う必要のないことだよ」
「酷くないですか、それ」
不貞腐れたように眉を寄せるルーカスが、可愛くて仕方なかった。
※※※
それは、本当に――なんてことのない日の夜だった。
学園へ行き、ルーカスと他愛もない話をして、いつも通りの時間を過ごした。
その一日が、後になって“かけがえのない日”だったと知るなんて、思いもしなかった。
部屋の静けさを破るように、コンコン、と軽いノックが響いた。
「公爵の方が一歩上手だったな」
扉が開き、兄が入ってきた。
ドアにもたれかかり、腕を組んだまま、薄く笑っている。
その余裕のある態度が、いつも以上に不気味に見えた。
「ユリウス。お前のルーカスが死んだぞ。毒殺だ」
一瞬、意味が理解できなかった。
耳の奥で、変な音がした。心臓が、急に重くなった。
「……何を、言っているんですか」
「そのままの意味だ。毒殺だって。まだ十八歳だったのに……哀れなものだ」
兄は淡々と告げる。
まるで、天気の話でもしているかのように。
頭が真っ白になった。
呼吸が浅くなる。
喉が焼けるように痛いのに、声が出ない。
――嘘だ。
そんなはずがない。
今日、笑っていた。
いつも通り、私の名前を呼んだ。
あの声が、あの笑顔が――もう二度と戻らないなんて。
「引き取った庶子の後に、正当な後継者が産まれたんだ。後継者が育てば、庶子なんて不要だよな……? しかも、ルーカスは――」
兄の言葉が続く。
だが、もう耳に入らなかった。
胸の奥で何かが崩れ落ちる音だけが響いていた。
「……っ」
気づけば、兄を睨みつけていた。
怒りとも悲しみともつかない感情が、胸の奥で渦を巻く。
外套を掴み、乱暴に肩へかける。
「話の途中だぞ? どこに行こうとしてる」
兄の声は、いつも通り落ち着いている。
その冷静さが、今は憎らしかった。
「公爵家です! あなたと呑気に話している時間はありません!」
声が震えていた。
怒りか、恐怖か、絶望か――自分でも分からない。
ただひとつだけ確かなのは、胸の奥で叫び続ける声。
――ルーカスに会わなければ。
――確かめなければ。
――嘘だと言ってほしい。
その思いだけが、私を突き動かしていた。
※※※
「……こんな時間に? 困りますね」
冷えきった声が、広い応接室に乾いたように響いた。
グランツ公爵――ルーカスの父は、私を長く待たせた末にようやく姿を見せたかと思えば、まるで厄介な客でも見るように眉をひそめた。
その態度には、息子を亡くした父親の影など微塵もない。
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
「……ルーカスは……?」
声を出した瞬間、自分でも驚くほど震えていた。
喉が張りつき、息がうまく吸えない。
それでも、どこかで――ほんのわずかでも、彼が生きている可能性を探していた。
だが、公爵は鼻で笑った。
「ここまで来られたのです。もうお分かりでしょう?」
淡々とした声音が、容赦なく胸に突き刺さる。
「夕食に毒を混ぜたメイドがおりましてね。ご安心を。その者はすでに処分しました」
“処分”――
その言葉の冷たさに、背筋が震えた。
息子を失ったというのに、公爵の目には悲しみの色は一切ない。
ただ、厄介事を片づけたと言わんばかりの無機質な冷たさだけがあった。
「……ルーカスに……最後に会わせてほしい」
絞り出した声は、祈りにも似ていた。
胸の奥が痛くて、立っているのもやっとだった。
せめて、最後に顔を――
あの温かい笑顔を、もう一度だけ。
「埋葬しましたので、それはできません」
「……そんな……葬式も挙げずに……?」
胸の奥が焼けるように熱くなる。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも判別できない。
ただ、心が裂けそうだった。
そのとき、公爵の表情にわずかに影が差した。
それが“悲しみ”なのかどうか、判断できないほど薄い影だった。
「毒殺でしたからね。綺麗な子でしたが……最期は見るに堪えない顔でしたよ。あなたも、あれを見れば余計に苦しむでしょう」
淡々と告げるその声が、私の心をさらに深く抉った。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、呼吸が乱れる。
ルーカスが苦しんだ姿を想像してしまい、視界が滲んだ。
「ご要件は以上ですか? ならば、お帰りください」
突き放すような声音だった。
そこにあったのは、息子を失った父の姿ではない。
ただ、不要になった駒の後始末を終えた貴族の顔だった。
私は、何も言えなかった。
言葉が喉で崩れ、声にならない。
※※※
公爵家を出た瞬間、夜風が肌を刺した。
冷たいはずなのに、熱に浮かされたように息が荒い。
胸の奥が焼けるように痛い。
歩いているのか、走っているのか、自分でも分からなかった。
(……嘘だ。嘘だ。嘘だ……)
頭の中で同じ言葉が何度も反響する。
否定しなければ、崩れてしまう。
認めた瞬間、立っていられなくなる。
だが――
「……ユリウス様?」
耳の奥に、幻のようにルーカスの声が蘇った。
あの、少し低くて、優しくて、私の名前を呼ぶときだけ柔らかくなる声。
その声が、もう二度と聞けない。
その事実が、胸を鋭く貫いた。
「……っ、あ……」
視界が揺れた。
膝が勝手に折れ、石畳に手をつく。
呼吸が乱れ、喉がひゅうひゅうと音を立てる。
(やめろ……考えるな……!)
必死に自分を叱咤するのに、脳裏には次々とルーカスの姿が浮かぶ。
――初めて会ったとき、怯えながらも必死に名乗った少年。
――剣の稽古で汗を拭いながら笑った横顔。
――私の言葉にだけ、少し甘えるように目を細めた瞬間。
――「ユリウス様」と呼ぶ、あの声。
全部、全部、もう戻らない。
「……いやだ……」
声にならない声が漏れた。
喉が焼けるように痛いのに、涙は出ない。
泣くことすら許されないほど、心が壊れていた。
「ルーカス……」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
「ルーカス……っ……!」
堰を切ったように涙が溢れた。
視界が滲み、地面が歪む。
肩が震え、呼吸が乱れ、声が漏れる。
「……返して……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
公爵か。
兄か。
世界か。
それとも、神か。
「返してよ……ルーカスを……っ……!」
夜の街に、掠れた叫びが落ちていく。
誰も答えない。
誰も救ってくれない。
彼がいない世界は、こんなにも暗い。
「……っ、ひ……っ……」
涙が止まらない。
嗚咽が漏れ、胸が痛くて、息ができない。
心臓が握り潰されるように苦しい。
(どうして……どうして……)
彼は優しかった。
努力家だった。
誰よりも真っ直ぐで、誰よりも強かった。
そんな彼が――
どうして、こんな終わり方をしなければならない。
「……ルーカス……」
震える声で名前を呼ぶ。
返事はない。
もう、永遠に。
その事実が、胸の奥に深く沈み込み、世界を完全に崩壊させた。
※※※
「遺体も確認せずにおめおめと帰らされたのか? 相変わらず爪が甘いな」
兄の嘲るような声が、胸の奥の傷口に塩を擦り込むように響いた。
「……うるさいッ、黙れ……!!」
怒鳴った瞬間、感情が制御できなくなった。
気づけば、傍らの机へ拳を叩きつけていた。
――バンッ!!
乾いた音が部屋に響き渡る。
机の上の書類が跳ね、ペンが転がり落ちた。
拳に鈍い痛みが走る。
だが、それすらも今の胸の痛みに比べれば、あまりに軽い。
(……黙れ……黙れ……!!)
震える拳を机の上に押しつけたまま、必死に呼吸を整える。
兄は、そんな私の激昂すら愉しむように、薄く笑った。
「落ち着け。毒殺とはいえ、直ぐに埋葬するのは怪しい。まだ、ルーカスは生きているのではないか?」
その言葉に、拳を押しつけていた机がきしりと鳴った。
(……生きている……?)
机に置いた手に、力がこもる。
心の奥に、微かな光が灯った。
兄はゆっくりと歩み寄り、私の顔を覗き込んだ。
「公爵もルーカスの別の使い道を考えている筈だ」
「……別の?」
声が掠れた。
胸の奥がざわりと揺れる。
兄は、わざと間を置いてから言った。
「あぁ、あれは女だからな」
「は? ルーカスが?」
思考が一瞬止まった。
耳鳴りがして、兄の声が遠く聞こえる。
(……女……? ルーカスが……?)
頭が真っ白になり、次の言葉が出てこない。
兄はそんな私の反応を楽しむように、口元を歪めた。
「気がついてなかったのか? まぁ私も知ったのは最近だがな」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
ルーカスが肌を見せることを極端に嫌がった理由。
公爵家での“冷遇”の意味。
コーデリアに手を出さなかったという事実。
全部、繋がってしまう。
「女は男と違う利用価値がある」
兄の声が、冷たい刃のように胸へ突き刺さった。
(……利用価値……? ルーカスを……“利用”……?)
胃の奥がひっくり返るような嫌悪が込み上げ、思わず口元を押さえた。
呼吸が乱れ、視界が揺れる。
もし――
もし、公爵がルーカスを“死んだことにして”どこかへ売り飛ばしたのだとしたら。
もし――
ルーカスが今、知らない場所で、知らない誰かの手に囚われているのだとしたら。
(……そんな……そんなこと……)
胸が焼けるように痛い。
怒りと恐怖が混ざり合い、心臓を掴んで離さない。
「兄上……公爵は……ルーカスを……どこへ」
震える声で問うと、兄は愉悦を隠そうともせず、ゆっくりと笑った。
「さあな? 公爵家に行けば分かるんじゃないか?」
私は歯を食いしばり、拳を固く握った。
爪が掌に食い込み、じんとした痛みが走る。
それでも、胸の奥のざわめきは収まらない。
兄はそんな私を見て、ふっと目を細めた。
その表情は、まるで“待っていた反応だ”と言わんばかりだった。
「お前は本当に……ルーカスのことになると分かりやすいな」
言葉はからかっているのに、声色は妙に楽しげだ。
「いいものを見せてやる」
兄の言葉に導かれるように、私はふらつく足で立ち上がった。
涙で濡れた頬が冷たく、胸の奥はまだ痛みで軋んでいるのに――それでも、身体は勝手に動いていた。
「……いいもの、とは」
問いかける声は掠れていた。
兄は答えず、ただ顎で「ついて来い」と示した。
※※※
兄が向かったのは、王宮の奥にある客室棟だった。
普段は客人を泊めるための部屋だが、今は誰も使っていないはずだ。
「……ここだ」
兄が立ち止まり、扉に手をかける。
鍵はかかっていない。
静かに扉が開くと、薄暗い部屋の中に、かすかな灯りが揺れていた。
そして――
「……っ……ルーカス……?」
ベッドの上に、誰かが横たわっていた。
白いシーツに沈むように、細い身体が横たわっている。
金色の髪が枕に広がり、胸がかすかに上下していた。
生きている。
その事実が視界を揺らし、膝が崩れそうになる。
「毒は抜ききっていない。まだ目は覚まさないだろう」
兄の声が遠く聞こえた。
私はふらふらとベッドへ近づき、震える手を伸ばす。
指先が、頬に触れた。
冷たい。
けれど――死んだ人間の冷たさではない。
「……ルーカス……ルーカス……!」
堪えていた涙が、また溢れた。
声が震え、喉が詰まる。
それでも、名を呼ばずにはいられなかった。
兄はそんな私を見下ろし、肩をすくめた。
「公爵の興味を引きつけている間に、こっそり救い出させた。お前が泣き崩れている間にな」
その言葉に、胸が締めつけられる。
怒りでも、感謝でもない。
ただ――救われたという事実が、心を揺らした。
「……兄上……どうして……」
問いかけると、兄は鼻で笑った。
「お前が壊れるのは見たくないからだよ。それに――」
兄はルーカスを一瞥し、薄く笑った。
「公爵の手に渡すには惜しい駒だ。利用価値があるのは、あの男だけじゃない」
その言葉に、私は顔を上げた。
兄の瞳は冷たく、計算高い光を宿している。
「……兄上。ルーカスを“駒”と呼ぶのはやめてください」
震える声で言うと、兄は少しだけ目を細めた。
「なら、お前が守れ。公爵から――そして、私からもな」
その言葉を残し、兄は踵を返した。
扉が閉まる音が響き、部屋に静寂が戻る。
私はベッドの傍らに膝をつき、ルーカスの手をそっと握った。
細くて、冷たくて、けれど確かに生きている手。
「……大丈夫。もう大丈夫だから……」
震える声で囁く。
返事はない。
けれど、胸は確かに上下している。
その事実だけで、世界が少しだけ色を取り戻した。
「必ず……守るから」
その誓いは、誰に向けたものでもない。
ただ、自分自身に刻みつけるように、強く、深く、心に沈めた。




