第六話:空切、あるいは最後に笑う者
才能とは、気づかれなければ存在しないに等しい。
久島透はずっとそう思って生きてきた。
二十一歳。大学二年生。身長は平均より少し低く、体格は細い。顔は悪くない方だと自分では思っているが、それを誰かに言われたことはほとんどない。目立たない。存在が薄い。小学校の頃から、そういう立ち位置で生きてきた。
スキルはない。
これが問題だった。
ダンジョンが出現して十年、スキルを持つ者と持たない者の間の断絶は、社会的に可視化されていた。就職市場でも、学校でも、スキルの有無と強度が一つの評価軸として機能している。それ自体は制度的に禁止されているが、実態として機能している。
透の通う大学は、ダンジョン都市・霧深市に位置するダンジョン関連学部を持つ大学だ。攻略者育成コース、素材工学コース、スキル研究コース。学生の多くがスキルを持っており、それを前提とした授業が組まれている。
スキルを持たない学生は、少数だ。
透はその少数の側にいた。
入学から一年半が経つ。その一年半で、透が学んだことは専門知識よりも、別のことの方が多かった。
スキルのない人間が、この大学でどう扱われるか、ということだ。
最初は、無視だった。
グループ作業の時に声をかけられない。実習の班分けで余る。食堂で隣に座る者がいない。
透はそれを「仕方ない」と受け止めていた。スキルのある者たちは、スキルのある者同士で集まる。そこに混ざる理由が向こうにはない。合理的な行動だ。
問題が始まったのは、二年に進んでからだ。
同じコースに進んだ同期の中に、辻堂奈緒という女子がいた。
辻堂はスキルを持っていた。「威圧」という対人干渉系のスキルで、その効果を使って周囲に対する影響力を持っていた。スキルを使わなくても、顔が良く、話がうまく、人を従わせる才能があった。
辻堂が透に目をつけた理由は、今でもわからない。
最初は言葉だった。廊下で「また来てる、いらない方が」と仲間に向けて言う。聞こえるように言う。
次は物だった。透のリュックの中に、汚れた食べ物の残骸を入れられた。
段階的に、それは悪化した。
最初に「それ」が起きたのは、五月の終わりだった。
透が朝早く大学に来た日、実習棟の廊下に辻堂のグループがいた。何かを企んでいる気配があったが、透は気づかなかった。あるいは気づいたとしても、逃げる間もなかった。
複数人に羽交い締めにされた。
廊下の隅に引きずり込まれ、服を脱がされた。
その後のことは、細部を書くより「それが起きた」という事実として記録する方が正確だ。
透は翌日、大学に行けなかった。翌々日も行けなかった。
三日後に、ある動画がSNSで広まっていることを知った。
透の名前はなかった。顔もモザイクがかかっていた。しかしこれが誰かは、大学内では一目でわかった。コメント欄が盛り上がっていた。
透はしばらく、スマートフォンを壁に投げつけようとして、止めた。
壊しても何も変わらない。
一週間後、大学に戻った。
戻った理由は、戻らなければ負けだと思ったからだ。
戻って、また何かが起きた。
透は、それでも毎日大学に来た。
傷は、見えるものと見えないものがあった。
見えるものは、全部服で隠れる場所についた。それは意図的だった。
ピアスを空けられた時は、針を刺される瞬間よりも、複数人に抑えられている間の方が怖かった。抵抗しても意味がなかった。そういう状況の中で、人間がどういう気持ちになるかを、透は学んだ。
墨を入れられた時は、痛みより恥辱の方が先に来た。消えないものを、永遠に自分の体に持ち続けることへの恐怖。
「玉は二個あるから」という言葉を、辻堂が言った時。透は笑うしかなかった。笑うしかない状況だった。
後で動画を確認した時、自分が笑っていたのを見た。
その笑いが、透の表情の中で一番壊れていた。
スキルが発現しない理由を、透は自分なりに考えてきた。
才能がないから、という可能性は、最初から排除していた。才能がない人間はいない、と誰かが言ったのを聞いたことがある。才能とは才能が開花するための刺激が与えられていない状態に過ぎない、と。
ならば自分の才能を引き出す刺激が、まだ来ていないだけかもしれない。
ただ、その考えは大学に入ってから薄れていった。
一年半が過ぎても何も起きない。スキルは発現しない。
辻堂のグループには、透をそう呼ぶ者もいた。「無能」と。
最初はその言葉に傷ついた。今は慣れた、とは言えない。慣れた、という言葉は正確ではない。もっと正確に言うと、傷を感じる部分が麻痺してきた、ということだ。
六月の初めの週、透は大学の帰り道に刃物を買った。
自分でも、何を考えているのか整理できていなかった。
ただ、手に持っていたかった。
買ったのは小型のナイフだ。刃渡り八センチ。折り畳み式。
家に帰って、テーブルの上に置いた。
眺めた。
一時間くらい眺めた後、引き出しの奥にしまった。
翌日、また大学に行った。
実習の授業中、辻堂が透の隣に来て耳元で何かを言った。詳細は省く。内容は、新しいことを計画している、というものだった。
透はその日、授業が終わった後に引き出しの奥からナイフを出した。
そしてカバンに入れた。
三日後、機会が来た。
放課後の実習棟、人気が少なくなった廊下で、辻堂が一人でいた。
偶然ではなかった。透は意図して、辻堂が一人になる時間を調べていた。スキルがなくても、観察する能力は透に備わっていた。辻堂のグループがどういう行動パターンを持つか、どういう時に解散して各自が単独行動をするか。それを一週間かけて把握していた。
廊下の奥、窓の外に夕陽が差していた。
辻堂は透の存在に気づいて、表情を変えた。いつもの、面倒なものを見る時の顔だ。
「なに、またストーキング? 気持ち悪いよ、本当に」
透はカバンに手を入れた。
辻堂が何かを言い続けていた。透の耳にはあまり入ってこなかった。
カバンからナイフを取り出した。
辻堂の言葉が止まった。
一歩、前に出た。
その瞬間。
何かが変わった。
変わった、というのは正確ではない。
何かが、開いた。
透の内側で、それまで存在しないと思っていたものが、突然形を持った。
スキルの発現通知が、頭の中に直接流れ込んできた。
スキル名と効果と条件が、言語として流れ込んでくる感覚。
透はその感覚を受け取りながら、ナイフを持ったまま立っていた。
辻堂が「やばい」と言って後退した。
その辻堂の動きが、透には不思議なほど細かく見えた。
足の動き、重心の位置、体がどちらに向かおうとしているか。空気の揺れ方。光の屈折の微細な変化。
スキルの名前が頭の中で固まった。
「空間把握」。
空間における全ての物体の位置と動きを、精密に認識する能力。物体の表面だけでなく、動きの軌道と次の動きを確率的に把握する。
条件は「強烈な焦点の集中」。強い感情や意識の集中によって発動する。
透はその説明を受け取りながら、辻堂が逃げようとしているのを見ていた。
そして、別の何かが現れた。
廊下の空気が、変わった。
温度でも湿度でも光でもない。何か別の変化が、空間に走った。
透の手の届く距離の床の上に、ものが現れた。
短刀だ。
鞘に収まっている。鞘は黒く、光沢がある。柄は白い。全体的に細く、しかし存在感がある。
透は一瞬、そちらに意識を向けた。
するとその短刀から、声がした。
「やっと来たじゃん」
女の子の声だった。高くて、軽くて、どこか偉そうだった。
「遅すぎ。もうちょっと早く爆発すれば良かったのに」
透は短刀を見た。
「……喋るのか」
「当然でしょ。誰に向かって言ってるの」
辻堂が「なに、なんの声、怖い」と言いながら廊下を走って逃げていった。
透はその背を見た。逃げさせた。
今日は、そういう日じゃないかもしれない、とどこかで思っていた。
短刀を拾い上げた。
重さはあった。普通の刃物の重さだ。柄を握ると、しっくりくる感触がある。
「私は空切。よろしく」
「空切」
「アーティファクト。空間を斬る短刀。世界で一番私を扱える人間の前に現れる仕様。今回があんたなわけ」
「意味がわからない」
「わからなくていい。とりあえず鞘を抜いてみれば?」
透は少し考えてから、鞘を抜いた。
刃が出た。
刃は透明だった。金属の光沢がない。何もない、透き通った刃だ。しかし空気を斬るような微かな抵抗が、握った手に伝わってくる。確かに「ある」。
「それで何かを斬ってみなさいよ。床とか壁とか」
「床を斬るのか」
「床は斬れない。私が斬れるのは空間だけ。物体は斬れない。だから床を振っても何も起きない。でも試してみれば実感できるでしょ」
透は廊下の床に向けて、軽く振った。
何も起きなかった。床に傷もついていない。
「ほら。物体は斬れない」
「では何を斬るのか」
「空間を斬るって言ったでしょ。空間を斬るとどうなるか、頭で考えてみなさいよ。あんたはスキルが空間把握なんでしょ。考えれば分かるはずだけど」
透はしばらく考えた。
空間を斬る。物体は斬れない。
空間を「切断」した場合、その空間に存在する物体はどうなるか。
スキルの「空間把握」が、静かに補助した。透の頭の中に、空間の構造が立体として見えた。空間は物体を内包している。物体の「場所」は空間によって定義されている。
もし空間だけが切断されたとしたら。物体の「位置情報」が切断される。物体そのものは無傷だが、その物体が属する空間が分離する。
「体は繋がったまま、空間だけが切れる」と透は言った。
「正解」と空切が言った。どこか満足げだった。「例えば人間の腕の前で空間を斬ったとする。腕自体は傷つかない。でも腕の位置している空間が切れるから、腕は体から分離した位置に移動する。体からズレた場所に存在することになる。神経も血管も繋がってるから、痛みも血液も全部そのまま。ただし腕が体の正しい位置にない」
「体を真っ二つにしたら」
「ズレ落ちる。上半身と下半身が、分離した位置に存在する。物体として切れてないから死なない。でも普通には動けない」
「死なない」
「私は人殺しの道具じゃないから。空間を扱う道具。死なせたいなら別の方法でどうぞ」
透はしばらく黙った。
「なぜ私に現れた」
「あんたの才能が一番高いから。世界中で」
「空間把握のスキルは今発現したばかりだ。才能の高低を誰がどう判断した」
「私が判断した。私はずっとあんたを見てた。スキルが出る前から、あんたの空間の捉え方は特殊だった。空間把握のスキルは才能を能力として言語化したものでしかない。才能自体は前からあった」
透は廊下の窓の外を見た。夕陽が落ちかけていた。
「私は最初から、才能があったのか」
「あったよ。ただ誰も気づかなかっただけ。あんた自身も含めて」
その夜、透は自分の部屋で空切を前に座っていた。
空切は短刀の状態で床の上にある。声は出さない時もあるらしい。
透はスキルの説明をもう一度、頭の中で確認した。
「空間把握」。空間における全物体の位置と動きを精密に認識する。発動条件は強烈な焦点の集中。
発現した直後は、集中しなくても常に発動している状態だった。部屋の中の全ての物体の位置と動きが、頭の中に立体として存在している。
壁の向こうに何があるかも、空気の振動を通じてある程度把握できた。
これが才能だったというなら、確かに今まで「なんとなく」感じていたものがある。人の動きを予測する感覚、空間の中での自分の位置感覚、物体がどこにあるかへの直感的な把握。それらが「才能」と呼べるものの萌芽だったかもしれない。
一年半、スキルがないと思って生きてきた。
一年半の間に起きたことを、透は頭の中で順番に並べた。
辻堂奈緒と、そのグループが何をしたか。
冷静に並べていくと、自分が想像以上に多くのことをされてきたことが、改めて輪郭を持って見えた。
「どうするつもり?」と空切が言った。
「復讐する」
「そう。止めはしない」
「殺せないと言っていたが」
「殺せない。でも私の能力でできることは、殺す以上のこともある。あんたのスキルと合わせれば特に」
「教えてくれるのか」
「それがここに来た理由でもあるから」
計画には、一週間かけた。
透のスキル「空間把握」は、距離が離れると精度が落ちるが、視界の範囲内であれば非常に高い精度で機能した。加えて、その範囲内にいる対象の「次の動き」を確率として把握できる。
空切の能力と組み合わせると、何ができるか。
空間を斬る。対象の体のどこであっても、その場所を通る空間を斬ることで、その部位を「ズラす」ことができる。
空間把握によって対象の位置を正確に把握し、空切によって狙った空間を精密に斬る。
これは精密な作業だ。
空切が言っていた「世界で一番扱いに長けている人間」というのは、この精密さに関係する。空間を斬るためには、空間の構造を正確に把握する必要がある。それができる才能を持つ人間の前に、空切は現れる。
透はその組み合わせを、どう使うかを一週間かけて考えた。
怒りは冷めていなかった。しかし怒りに任せて動くと、自分が消耗する。消耗した状態で行動すると、ミスが出る。
辻堂のグループは五人いる。全員に、段階的にやる。
透はノートに計画を書いた。
最初の対象は、辻堂のグループの中で最初に透に言葉をかけてきた人物にした。
田村和哉。辻堂のグループの中で唯一の男性で、二十歳。スキルは「加速」。自分の体の動きを一時的に加速できる。ダンジョン攻略においても活躍するタイプのスキルだ。
田村が最初に透に言葉をかけてきた。「スキルなし? 笑える」と言った。それが最初だった。
放課後、田村が一人でいる時間を選んだ。
透は空切を腰に帯びて、田村の後を追った。
人気のない路地に入ったところで、透は「田村」と呼んだ。
田村が振り返った。
透を見て、笑った。
「なに、ひとりで来たの。何する気?」
透は何も言わなかった。
空間把握が、田村の全身の位置を精密に把握した。
空切を抜いた。
田村が「刃物?」と一歩引いた。引いた瞬間の位置を把握した。
「スキル使えよ。何もできないじゃないか」と田村が言いながら加速しようとした。
透はその加速の前段階の動きを把握して、田村の右腕の前の空間を斬った。
田村の右腕が、あり得ない角度に「ずれた」。
腕は切断されていない。皮膚も筋肉も骨も、完全に無傷だ。しかし腕が体の正しい位置になかった。体から数十センチ離れた場所に、腕が存在していた。
田村が声を上げた。
「ぎゃっ、なんだ、腕、腕が……!」
痛みはない。腕は無傷だ。しかし視覚的に、自分の腕が体から離れた場所にある。感覚としては繋がっているが、見た目が壊れている。
田村がパニックになった。
「なにこれ、なにこれ、どういうことだよ、なんで腕が——」
「空間を斬っただけだ。腕は傷ついていない」
「じゃあ直せ、直してくれ!」
「もう少し待ってくれ。まだ終わっていない」
透はカバンから小さな注射器を取り出した。
田村が「なに、なに、来るな」と後退しようとしたが、空間がズレた腕のせいでバランスを崩した。
「腕の空間が正しい位置に戻れば、注射されたものも体に入る」と透は言った。「空間が切れていても、体は繋がっているから」
田村の顔が変わった。
「お前、俺に何するつもり——」
「解熱剤だ」と透は言った。「他の用途で使う気はない。ただ、体に入れたいものを入れられることを証明したかった」
注射器を腕に刺した。薬液を注入した。
空切でズレた空間を、元に戻した。腕が正しい位置に戻った。
「……体に入った」と田村が呻いた。「ちゃんと広がってく感覚がある」
「わかった。行っていい」
田村は混乱したまま、足早に逃げた。
次の日、空切が言った。
「解熱剤? 殊勝なこと」
「今日は最初だったから。次からは違うかもしれない」
「もっとやれば良かったのに」
「段階的にやる。全員に、それぞれ違う方法で。一番最後に辻堂をやる」
「なんで一番最後なの」
「辻堂が主導者だから。主導者を最初にやると、残りが警戒する。残りを先に崩してから、最後に中心を崩す」
「頭良いじゃん」
「空間の読み方は昔からできた。人間関係の構造も、空間として捉えれば読みやすい」
空切はしばらく黙った後、「なるほど」と言った。
「才能の使い方を、ちゃんとわかってる」
「一年半、何もできなかった時間があったから。その間に考えるしかなかった」
「一年半、どうだったの」
透は少し間を置いた。
「楽しくはなかった」
「具体的には」
「覚えているのと、覚えていないのがある。覚えていたくないものは、覚えていないようにしてある」
「へえ」と空切が言った。からかうでなく、純粋に聞いている口調だった。
「それ、賢い生き方だと思う。覚えておく必要のないことは忘れていい」
グループの二人目は、小川里奈という女子だった。
彼女は辻堂のグループの中で、一番直接的に手を出してきた人物だ。透が一番覚えていたくない記憶のほとんどに、小川が関わっていた。
小川のスキルは「強化・軽度」。身体能力のわずかな向上だ。大したスキルではないが、持っているというだけで彼女の中で何かを変えていた。
透は小川が放課後に友人と別れる場所を把握していた。スキルの空間把握は、距離が離れると精度が落ちるが、ダンジョン都市の建物の多くはガラス張りの部分が多く、視界が通っていれば距離の問題はある程度解消できた。
小川が一人になった瞬間を選んで、前に立った。
小川は透を見て、また笑った。この笑い方を、透は一年半見てきた。
「なに、復讐でもするつもり?」
「そうだ」
小川の笑いが少し変わった。
「本気で言ってる? スキルもない無能が何ができるわけ」
「スキルは発現した」
「え?」
透は空切を抜いた。
透明な刃が、夕陽に透けた。
小川への「空間処置」は、田村へのものより複雑だった。
透は小川の体の複数の箇所の空間を同時に扱った。
空切の能力は、空間を斬る。しかし斬った後にどうするかは、扱い手の能力に依存する部分がある、と空切は教えてくれていた。空間を「ずらす」だけでなく、斬った空間を「保持」することもできる。保持した状態では、対象の体は元に戻らない。
小川は声を上げ、崩れ落ちた。
体は完全に無傷だ。しかし体が「正しい位置」にない。複数箇所同時に空間をずらされると、体の各部位が噛み合わなくなる。立つことも、動くことも、難しい状態になる。
「なにこれ、体がおかしい、体がおかしい」
「しばらく経てば戻る」と透は言った。「今は聞いてくれ」
小川が顔を上げた。目が充血していた。
「一年半で、お前たちがやったことを覚えている。全部、正確に」
小川は何も言わなかった。
「忘れているかもしれないが、俺は覚えている。スキルが発現する前から、俺の空間把握の能力は機能していた。お前たちが何をした時に、誰がいて、何を言っていたか。全部記録されている」
「それが何だというの」
「今後の参考にしてくれ」
透は空切を鞘に収めた。
保持を解除した。小川の体が、正しい位置に戻った。
小川はしばらく床に座ったまま、動けなかった。
三人目から五人目は、ここに詳細を記す必要はないかもしれない。
それぞれに、それぞれの「空間処置」があった。
一人は右腕の空間を長時間保持された。その時間の間、腕が正しい位置にない状態でいなければならなかった。
一人は複数の空間を複雑にズラされ、体が「捻れた」状態を経験した。体の各部位が正しい関係性を失った時、人間がどういう感覚を持つかを、身をもって学んだ。
一人は公衆の面前で足の空間をズラされ、歩けない状態になった。周囲に人がいる場所で、説明のつかない状態で動けなくなるということの意味を、体験した。
三人とも、体には何の傷もつかなかった。
翌日になれば、普通に歩いた。普通に大学に来た。
ただし、透を見る時の目が変わった。
最後に残ったのは辻堂奈緒だった。
辻堂は変化を感じ取っていた。透の空間把握は、そういう変化も拾えた。グループの仲間たちが透を避け始めた。辻堂が彼女たちに詳細を聞こうとすると、話を変えた。
辻堂のスキル「威圧」は、対人干渉系だ。相手に恐怖や萎縮を与える。グループを維持してきたのは、このスキルと辻堂本人の強さの組み合わせだ。
しかし今、グループの他の四人は透を恐れていた。辻堂への恐れより、透への恐れが上回り始めていた。
辻堂がそれに気づいた時、透は目の前に立っていた。
大学の屋上。放課後の風が吹いていた。
辻堂は一人だった。グループの誰も来なかった。透が屋上に来ることを辻堂に伝えた時、辻堂は強がって一人で待っていた。
「来た」と辻堂は言った。強がった口調で。
「来た」と透は返した。
「スキルが出たって聞いた。仲間に何をしたか知らないけど、私には効かない。威圧系は干渉系に強いの、知ってる?」
「知っている。だから特別に考えた」
辻堂のスキル「威圧」は、確かに干渉系のスキルに対して有利だ。
透の「空間把握」は干渉系ではなく知覚系だ。干渉系への対抗能力は持たない。ただし、「空間把握」は辻堂のスキルを検知する。
辻堂のスキルが発動する瞬間の、体の変化が見えた。スキルの発動は体の各部位の微細な変化を伴う。それを把握できれば、タイミングがわかる。
「威圧を使ってもいい」と透は言った。
辻堂は少し眉を上げた。
「使う」
スキルが発動した。透の空間把握が、辻堂の体の変化を捉えた。発動直前に、透は辻堂の前の空間を斬った。
威圧は発動した。しかし辻堂と透の間の空間が「ずれた」状態にあった。干渉の経路が正確に通らない状態だ。
辻堂が驚いた顔をした。
「効かなかった? なんで」
「空間を斬ると、空間が歪む。歪んだ空間では、対人系のスキルの精度が落ちる場合がある」
「もう一度」と辻堂は言って、再度スキルを発動した。
透は同じことをした。
辻堂のスキルは、また透に到達しなかった。
辻堂の顔から、強がりが消えた。
代わりに来たのは、純粋な困惑だった。
辻堂はスキルを武器として、一年半以上生きてきた。スキルが効かない状況が、想定外だった。
「あんた、一年半前はスキルなかったじゃない」
「なかった」
「なのになんで今更」
「才能は前からあったと言われた。俺も、なんとなくそう思っていた。ただ、発現するための刺激がなかっただけだ」
「刺激って……私たちのことを言ってるの?」
「そうだ」
辻堂は少し間を置いた。
「……じゃあ私たちがいなければスキルも出なかったってこと?」
「そうかもしれない」
「笑えない」と辻堂は言った。
「笑えない話だ」と透は同意した。
辻堂は屋上の柵の近くまで後退した。逃げ場がない。グループの仲間も来ない。
「何をするつもり?」
「一つだけ聞く」
「なに」
「一年半でやったことを、覚えているか」
辻堂は答えなかった。
「覚えていなくてもいい。俺が覚えている。俺のスキルは空間を記録する性質がある。お前たちが何をしたか、全部精密に記録されている」
辻堂が小さく「ごめん」と言った。
透は少し驚いた。
謝罪を予想していなかった。強がって終わるか、泣き崩れるか、あるいは開き直るか。そのどれかだと思っていた。
「本当に覚えてる?」と辻堂が言った。「あんたは笑ってたじゃない。最初から最後まで。だから私、本当は嫌がってると思わなかった」
透は少し間を置いた。
「笑っていたのは、笑うしかなかったからだ」
「……そんな笑い方、あるの」
「ある」
辻堂はまた黙った。
「怖かった?」
「怖かった」
「痛かった?」
「痛かった」
「……そっか」
辻堂は柵に背中をつけて、屋上の空を見た。
「なんで私、あんなことしたんだろ。最初はただ、スキルのないあんたが同じコースにいることが気に食わなかっただけなのに。エスカレートしていって、気づいたら」
「気づいたら、で済む話ではない」
「済まないよね」
透は空切を抜いた。
辻堂が小さく身を硬くした。
「怖いか」
「怖い」
「ならそれでいい」
透は辻堂の足元の空間を軽く斬った。辻堂の重心がわずかにズレた。
辻堂が「あ」と言って、バランスを崩して屋上の床に座り込んだ。
透は空切を鞘に収めた。
「それだけだ」
「……それだけ?」
「怖い思いをさせることが目的だった。十分できた」
屋上を出る時、辻堂が「待って」と言った。
透は振り返った。
「大学、やめる気ある?」
「ない」
「私は、やめようと思ってる。こっちが」
透は少し考えた。
「お前の選択だ」
「あんたが怖いから、じゃないよ。なんか、色々嫌になった。あんたにやったことも、それをやってる自分も」
「それを聞いてどうしろというんだ」
「聞いてほしかっただけ」
透は何も言わなかった。
辻堂はまた空を見た。
「スキルが出て良かったね、あんたには。才能があったんだから、使えばいい」
「そのつもりだ」
「……私のスキルで、あんなことをして、ごめん」
透はしばらく間を置いた。
「受け取っておく」
それだけ言って、透は屋上の扉に向かった。
帰り道、透は空切に言った。
「終わった」
「そうね」と空切が言った。「物足りない?」
「少し」
「思い切りやれば良かったのに」
「やり過ぎると、俺が変わる」
「変わってもいいじゃない」
「変わりたくない」と透は言った。「復讐はした。でもそれだけだ。それ以上じゃない」
「線引き?」
「そうかもしれない。俺は辻堂たちになりたくないから」
空切はしばらく黙った。
「……まあ、賢いんじゃないの」
「お世辞か」
「本気で言ってる。私を扱える才能があるくらいだから、頭もいいんでしょ。一応」
「一応、か」
「褒めすぎると調子に乗るから」
透は少し笑った。
笑っているのに「笑うしかない」という感覚がなかった。
それが久しぶりの感覚だったことに気づいて、透はもう少しだけ笑った。
家に帰って、透はテーブルに空切を置いた。
空切はそのまま静かにしていた。
「一つ聞いていいか」
「なに」
「世界で一番、俺が扱いに長けているというのは、本当か」
「本当。嘘をつく理由がない」
「それはつまり、どういうことになるんだ」
「どういうことって?」
「スキルも、空切も、俺が今持っている。それを世界で一番うまく使えるとしたら」
「可能性が広がる、ってこと。何に使うかはあんた次第」
透は少し考えた。
「ダンジョンに潜るか」
「向いてると思う。空間把握は索敵にも戦闘にも使える。私の能力は戦闘で使えば相当強い。好奇心はある?」
「ある」
「なら試してみれば」
「攻略者になるには」
「ライセンスを取ればいい。霧深市なら試験センターがある」
透はしばらく考えた。
「明日、調べてみる」
「やる気出てきた?」
「少し」
「いいことじゃない」
空切は少し間を置いて、続けた。
「あんたが一番私を扱えるのは、今だけじゃない。これから先、もっと上手くなる。才能はまだ全部出てきてないから」
「まだあるのか」
「あるよ。スキルが発現したばかりで、能力の深さはまだ一割も出ていないと思う。これから潜って、戦って、経験を積んで、もっと広がる」
「楽しみな話だな」
「でしょ」
三日後、透は攻略者ライセンスの試験センターに行った。
窓口で案内をもらい、試験の概要を確認した。
スキルの有無は問わない。ただし実技試験があり、そこで一定の基準を満たす必要がある。スキルを持っていれば有利だが、スキルなしでも合格した例はある。
今の透にはスキルがある。
「空間把握」と「空切」という組み合わせで、実技試験に臨む。
試験官に名前を書いた。
久島透。
スキルの欄に書いた。「空間把握」。
アーティファクト保有の欄に書いた。「空切」。
窓口の担当者が少し目を止めた。
「空切、というのはどういったものですか」
「短刀型のアーティファクトです。空間を斬る効果があります」
「登録されていないアーティファクトですね。試験前に、機構への届け出が必要です」
「わかりました。手続きの方法を教えてください」
担当者が資料を出してきた。
透はそれを受け取って、読み始めた。
手続きが必要なら、する。
それだけだ。
一年半、スキルがなかった。その期間に積み上げてきたものが、今どこに繋がるか。まだわからない。ただ、可能性がある。
一年半前には、可能性という言葉が完全に空洞だった。
今は、少しだけ重みを持っていた。
帰り道、空切が言った。
「試験、受かるから安心して」
「断言できるのか」
「あんたの才能の水準から言えば、今の実技基準は余裕でクリアできる。それ以前に、試験官が驚いて合否の前に色々聞いてくるかもしれないけど」
「それはそれで対応する」
「頼もしいじゃない」
「お世辞は要らない」
「本気で言ってる、って言ったでしょ」
透は少し黙った。
「一つ聞いていいか」
「さっきも同じこと言ってた」
「習慣だ。聞いてもいいか」
「いいよ」
「なぜ今頃出てきた。もっと早く来てもよかったんじゃないか」
空切は少し間を置いた。
「スキルが発現していない状態では来られない。私はスキルを持つ人間の前にしか現れられない」
「スキルが発現する瞬間を待っていたということか」
「正確には、スキルが発現する可能性がある人間を、ずっと見ていた。あんたはかなり前から候補にいた」
「候補?」
「私を扱える才能を持つ人間は、世界に一人だけじゃない。候補が複数いる中から、一番高い才能を持つ人間が決まって、その人間のスキルが発現した瞬間に私が現れる」
「俺より才能の高い候補がいたかもしれないということか」
「いた。でもその人たちはスキルが発現しなかった。才能があっても、発現しなければ私は来られない」
透はそれを考えた。
「俺がスキルを発現させたのは、辻堂を刺そうとしたからだ。あの状況がなければ、まだ発現していなかったかもしれない」
「そう」
「皮肉だ」
「人生はそういうものじゃないの」と空切は言った。
透は少し間を置いた。
「そうかもしれない」
才能は、気づかれなければ存在しないに等しい。
久島透はそう思って生きてきた。
今も、その考えは変わっていない。
ただ、一つ付け加えるなら。
気づかれなくても、才能は存在していた。
ただそこにあっただけで、誰も気づかなかっただけで。
それは今も昔も、透のものだった。
——第1.5話:完——




