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抜粋。幻実世界の超常輪舞曲、  作者: parade


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第二話:愛玩、あるいは命名されない生き物


 キツネには名前がなかった。


 正確には、名前を持つという習慣が、元いた群れにはなかった。個体を識別するには臭いがあれば十分で、声があれば十分で、言葉などというものを必要としたことがなかったからだ。だから最初に人間と話した時も、「あなたの名前は?」と問われた意味はわかったが、答えを持っていなかった。


 その時キツネは人間の姿をしていた。


 二足歩行で、服を着て、日本語を話せた。ただし顔は人間のものではなかった。細長い口吻、立った耳、縦長の瞳孔を持つ琥珀色の目。肩口から垂れた白銀の毛並みは人間の髪の質感とは異なり、きめ細かく密度があった。指は人間の五本だが、先端のわずかな鉤爪の名残が消えていない。尻尾は腰の後ろから生えていて、日常的に服の中に折りたたんで収めているが、感情が動くと無意識に揺れる。


 人間の言い方をすれば、「ケモノ顔の獣人」というやつだ。


 しかし獣人というカテゴリも、実態とは少し違う。獣人という言葉が通常指すのは、人間の顔に動物の耳や尾が付いた存在だ。いわゆるケモミミ。しかしキツネは顔まで獣のままにしている。これは意図的な選択だ。


 ケモミミは確かに人気だが、キツネの判断では「人間の顔に動物のパーツが付いたもの」を好む層と、「完全に動物の顔をした人型の存在」を好む層は、重なりつつも別物だった。後者は数が少ない分、熱量が高い。人間の言葉で言えば、ニッチなファンほど深くはまる、という観察から得た戦略だ。


 最初に話しかけてきた人間の男は、キツネの顔を見た瞬間に固まった。


 固まり方が、恐怖によるものでないことは一目でわかった。瞳孔が開いていた。呼吸が浅くなっていた。頬が赤くなっていた。


 キツネは尻尾を揺らした。


 自分の計算が当たったことへの、小さな満足感だった。




 キツネがスキルを持っていると気づいたのは、ダンジョンが出現してから二年後のことだ。


 ダンジョンの出現は、人間の世界を大きく変えた。しかしキツネが棲む山の奥深くでは、その変化は最初ほとんど感じられなかった。人間たちが慌ただしく動き回っているらしいことは、山を下りてくる気配の変化でわかったが、それが自分に何を意味するかはすぐにはわからなかった。


 変化を感じ始めたのは、山の麓の人間の集落が、少しずつ様変わりしていってからだ。


 ダンジョン攻略者というものが現れた。彼らはダンジョンに潜り、魔物を殺して素材を持ち帰り、それを売って生計を立てる。そのために集落に宿舎や市場ができ、人の往来が増えた。多種多様な人間が来るようになった。


 キツネは人間が好きだった。


 これは生まれつきの気質だ。同じ群れの他のキツネが人間を警戒したり無視したりするのに、キツネだけはいつも人間の集落の近くをうろつき、人間の言葉を覚え、人間の行動を観察することに時間を費やしていた。


 なぜ好きなのか、と問われれば答えに詰まる。


 面白いから、としか言えない。


 動物は基本的に、生存と繁殖のために行動する。本能が強く、行動パターンが読みやすい。しかし人間は違う。彼らは生存に直接関係しないことに多大な時間とエネルギーを費やす。芸術、音楽、文学、ゲーム、恋愛。意味のないことに意味を作り出す能力を持っている。


 その奇妙さが、たまらなく面白かった。


 スキルの発現は、ある日の夜に突然起きた。


 集落の外れに、酔った人間が薬品の入った瓶を割って倒れていた。割れた瓶から液体が流れ出し、別の薬品と混ざり合って、本来なら激しく反応するはずのものが、なぜか反応していなかった。反応を起こすには温度や圧力の条件が整っていない。


 キツネはその場を通りかかって、液体を眺めた。


 そして何の前触れもなく、思った。反応すればいいのに、と。


 次の瞬間、液体は激しく発熱し、煙を上げた。


 キツネは驚いた。人間を驚かせたことは何度もあったが、自分が驚いたのは久しぶりだった。


 しばらく状況を観察し、自分が何をしたのかを考えた。そして翌日、別の場所で同じことを試した。水と油を混ぜ、乳化させようとした。本来は乳化剤がなければ起きない現象が、起きた。


 スキルだと気づいた。


 人間の概念を借りれば「化け学」——化学現象を、物質の条件さえ整っていれば、それ以外の条件なしに発生させる能力だ。温度がいらない。圧力がいらない。触媒がいらない。物質さえあれば、現象を起こせる。


 この能力を手に入れた時、キツネが最初に思ったのは「人間に会いにいこう」だった。




 人間の姿を取ることは、昔から出来た。


 キツネは変化の能力を持って生まれた。これはスキルではなく、単純な身体能力の一種だ。人間で言えば、生まれつき耳が良いとか、足が速いとか、それと同じ類いの「元から持っているもの」だ。


 完全な人間の姿を取ることも、獣の狐に戻ることも、あるいは今のような「獣顔の人型」も、すべて任意に選べる。


 問題は、どの姿で人間の前に出るかだ。


 最初は完全な人間の姿を試した。外見だけは完全に人間として、集落に潜り込んだ。人間語は話せるし、服の着方も知っていたし、立ち振る舞いも観察から学んでいた。


 しかし面白くなかった。


 人間の振りをして人間の中に交じることは、観察の質を下げた。人間は同種の存在には、異種の存在には向けない顔を向ける。完全に「人間の振り」をしている間、相手は「人間として」接してくる。キツネが本当に見たいのは、人間が異質な存在に対してどう振る舞うか、だった。


 次に狐の姿を試した。四足の獣として、人間の前に現れた。これは逃げられた。あるいは餌を投げられた。どちらも研究としては物足りない。


 そこで今の姿に落ち着いた。


 「獣の顔を持つ人型」。


 これは人間の間で「獣人」と呼ばれる存在に近い。ダンジョン出現以降の世界では、様々な非人間存在が確認されており、獣人もその中に含まれる。珍しくはあるが、恐慌を引き起こすほど稀有ではない。


 そしてこの姿には、もう一つの利点があった。


 人間の中に、この姿を「美しい」と感じる者が一定数存在することだ。


 ケモナーと呼ばれる層だ。


 キツネはこの概念を知った時、人間の多様性に改めて感服した。進化論的に説明しにくい、しかし確実に存在する嗜好性。生存や繁殖とは直接結びつかない美の感覚。それが一定数の人間に共有されているという事実。


 面白い、と思った。


 だから、もっと面白くしようと思った。


 ケモナーに刺さるように、姿を作り込んだ。顔の比率を計算した。体型の線を整えた。動きの滑らかさを磨いた。服の選び方を学んだ。


 人間の言い方をすれば、戦略的に魅力を最大化した、ということになる。




 キツネはしばらく、霧深市の外れの安宿に部屋を取った。


 宿の主人は最初、キツネの顔を見て固まったが、三秒後には「一泊いくらで」と普通に話し始めた。商売人は適応が早い、というのもキツネが人間を観察する中で得た知見だった。


 宿に荷物を置き、街に出た。


 霧深市はダンジョン都市の中では中規模に属するが、様々な人間が集まる点では他の都市より多様性があった。ダンジョン攻略者だけでなく、素材商人、研究者、行政関係者、ジャーナリスト、そして彼らを目当てとした飲食店や娯楽施設の経営者たち。


 キツネは街を歩いた。


 人間たちの視線が集まった。


 驚きの視線、好奇の視線、警戒の視線、そして明らかに異なる種類の視線。キツネはそれらを一つ一つ識別しながら歩いた。訓練された観察眼は、視線の種類を嗅覚並みの精度で分類できる。


 七十二メートル進んだところで、最初の声がかかった。


「あの、ちょっといいですか」


 二十代前半の人間の男だった。中肉中背、目が大きく、やや緊張した様子。一人だった。仲間がいない。これは重要な情報だ。一人で見知らぬ存在に声をかけられる人間は、社会的なフィルターが弱いか、あるいは欲求が強いかのどちらかが多い。


「なんですか」


 キツネは止まって振り返った。


 男は一瞬、言葉に詰まった。


「す、すみません。失礼かもしれないんですけど、その——獣人の方ですか」


「そういうふうに呼ばれることもあります」


「珍しくて。じゃなくて、その、綺麗だなって思って」


 キツネは尻尾を一度揺らした。


「ありがとうございます」


 男はさらに顔を赤くした。


 これが最初の接触だった。




 男の名前は中瀬遼といった。


 攻略者ではなく、ダンジョン素材を使った加工品の商社に勤めているサラリーマンだった。今日は取引先への営業で霧深市に来ており、仕事が早く終わって時間を持て余していたところだったという。


 二人は近くの喫茶店に入った。


 キツネは人間の飲食物に慣れていた。味覚は獣のままだが、人間の食べ物を「美味しい」と感じる能力は持っている。コーヒーは苦すぎて好みではないが、砂糖を四本入れると飲める。


 中瀬は緊張しながら、しかし徐々に話し始めた。


「失礼じゃなければ聞いてもいいですか。獣人って、最近増えてる印象があるんですけど、もともとどこに住んでたんですか」


「山です」


「ダンジョンが出来る前から?」


「もっと前から」


「じゃあ、人間とは別に暮らしてたってこと?」


「そうです。人間と接触することもありましたが、基本的には別の場所に棲んでいました」


 中瀬は目を丸くした。


「それって、今まで世界が知らなかったってこと?」


「気づいてた人間もいたと思います。伝承や民話に残っているものは、大抵実在を根拠にしています」


「狐火とか?」


「それも含めて」


 中瀬はしばらく考え込んだ後、「すごい話ですね」と言った。


 キツネはコーヒーに砂糖を追加しながら、中瀬を観察した。


 警戒心がなさすぎる。見知らぬ、明らかに人間ではない存在と二人で喫茶店に入り、緊張はするが恐怖はない。これは育ちか、あるいは元来の気質か。


「名前、聞いてもいいですか」


「中瀬遼です。あなたは?」


「名前はありません」


 中瀬はまた固まった。


「……ないんですか?」


「動物には必要なかったので」


「じゃあ、なんて呼べば」


「お好きにどうぞ」


 これはキツネが人間と接触する際の定型文だった。名前を持たないことを伝え、相手に命名を委ねる。これによって、その人間が何を大切にするか、どういう美意識を持つかを一定程度把握できる。名前は命名者の内側を映す鏡だ。


 中瀬は少し考えて、「狐さん、でいいですか」と言った。


 想像力に乏しい。しかし悪意もない。


「構いません」




 二時間ほど話した。


 中瀬は良い観察対象だった。ダンジョン関連の仕事をしているが攻略者ではなく、スキルを持たないいわゆる「一般人」の視点を持っていた。ダンジョン出現後の社会変化を、生活者の感覚で語れる人間だった。


 彼が語ったいくつかのことは、キツネにとって有益な情報だった。


 例えば、スキル保有者と非保有者の間の経済格差は、年々広がっているということ。スキルを持つ攻略者の上位層の収入は、一般のサラリーマンの数十倍に達することもある。一方で下位の攻略者はむしろ一般職より収入が少なく、ダンジョン内での死亡リスクを考えると割に合わない職業になっているということ。


 また、獣人や他の非人間存在に対する社会的な扱いは、地域や個人によって大きくばらつきがあるということ。法的には「知性を持つ存在」として一定の権利が認められているが、実態は曖昧で、差別的な扱いを受けるケースも少なくないということ。


「狐さんは、困ったことありましたか。獣人だからって」


「今のところは」


「よかった。あの——個人的な質問してもいいですか」


「どうぞ」


「見た目が、すごく、その。お世辞じゃなくて、綺麗だと思うんですけど。それは生まれつきですか、それとも変えられるんですか」


 キツネは少し考えた。


「どちらも正確ではありません」


「どういう意味ですか」


「生まれつきの姿は四足の狐です。今の姿は選んだものです。ただ、今の姿を取れる能力は生まれつきのものです」


 中瀬はしばらく無言だった。


「じゃあ、今のその姿は、あなたが意図して作ったってこと?」


「そうです」


「どうして、この姿を選んだんですか」


 キツネは窓の外を見た。街の人々が行き交っている。


「人間の中に、この姿を好む人が一定数いると学習したので」


 中瀬は何か言おうとして、止まった。


 その沈黙の質を、キツネは注意深く観察した。


 傷ついた、という類いの沈黙だった。




 その後、中瀬は「仕事があるので」と言って喫茶店を出た。


 連絡先を交換はしなかった。


 キツネは一人でコーヒーを飲み終え、考えた。


 計算の誤りがあった。


 「人間の中に、この姿を好む人が一定数いると学習したので」という発言は、事実として正確だった。しかし中瀬にとって、その言葉は何らかのダメージを与えた。


 なぜか。


 おそらく、人間は「自分が美しいと感じたものが、自分に向けて設計されていた」という事実を、素直に受け取れない。まるで自分の感情が操作されたように感じるからだろうか。


 あるいは中瀬は、キツネに対して「ありのままの姿」を期待していた。好意を持った相手が、実は戦略的に行動していたと知ることは、その好意の正当性を揺るがすように感じられるのかもしれない。


 人間の感情は複雑だ、とキツネは改めて思った。


 それが面白いのだが、今回は少し失敗した。


 発言のタイミングと相手の状態を読み違えた。中瀬は好意を持って接触してきていた。その段階では、「なぜこの姿か」という問いに対して、「相手にとって魅力的に見えるように設計した」という直接的な回答は、人間の感情論理においては不適切だった。


 学習した。


 キツネはスケッチブックのような類いのものは持っていないが、頭の中に詳細な観察記録を保持している。今日のやり取りも、細部まで記憶に収めた。




 翌日、キツネは別の場所を試した。


 ダンジョン攻略者が集まる酒場だ。夕方になると攻略を終えた者たちが集まり、賑わう場所だった。


 キツネは入り口から店内を一瞥した。


 二十人ほど。ほとんどが攻略者のようだ。装備を外しているが、体つきや目の鋭さでわかる。数名が既にキツネのほうを見ていた。


 席に着いた。


 「何にしますか」とウェイターが普通に聞いてきた。霧深市では非人間存在の客が来てもそれほど動じない店員が多い。


「ホットミルクを」


 周囲の視線が気になった。ダンジョン攻略者は、一般市民より各種の存在に対して判断が早い傾向がある。それは職業柄、即座の判断が求められるためだろう。


 二十人のうち、明らかに好意的な視線を送っているのは四人。警戒は三人。残りは無関心か、あるいは何かを考えている。


 四人の好意的な視線を分析した。


 一人は女性、二十代後半。視線の質が中瀬に似ていた。ケモナーの可能性が高い。


 一人は男性、三十代。目つきが評価的だ。審美眼があるタイプ。


 一人は男性、二十代。露骨すぎる視線。衝動的なタイプ。


 一人は女性、四十代。温かみのある視線。保護欲に近いものを感じる。


 キツネはホットミルクを受け取り、店内を見回しながら、どこから接触するか考えた。


 最終的に、二十代の女性に声をかけることにした。




 女性の名前は芦田沙樹といった。


 攻略者三年目で、スキルは「重力操作・軽度」。自分の体重を一時的に軽くしたり重くしたりできる、移動と防御に使う実用的なスキルだ。上位スキルではないが、応用性がある。


 芦田は最初からはっきり言った。


「私、ケモナーなんですよね」


 宣言に近いものだった。


「知ってます」


「え、なんで」


「そういう視線でした」


 芦田は一秒停止して、それから声を上げて笑った。


「直接すぎる。でも正直でいいな。あなた、なんて人ですか」


「狐です」


「名前じゃなくて? あ、でも獣人だし、名前ないのかな」


「ありません。好きに呼んでください」


「じゃあ白狐って呼びます。白いし、キツネだし」


 昨日の中瀬より想像力がある、とキツネは思った。


「それで構いません」


 芦田は無遠慮だが、その無遠慮さに悪意がなかった。好奇心が強く、言葉が先に出るタイプ。攻略者として三年間ダンジョンに潜り続けた、一種の度胸が染みついている。


「白狐って、スキル持ってるんですか」


「あります」


「何系の?」


「化学系です」


「へえ、珍しい。炎とか雷とかじゃなくて?」


「化学現象全般を操作します。炎も、元をたどれば化学反応ですが」


 芦田は目を輝かせた。


「燃焼反応を直接制御できるってこと? そんな使い方もできる?」


「できます」


「強いじゃないですか。なんでダンジョン潜らないんですか」


「今は人間の観察をしています」


 芦田はまた笑った。


「それ、私のことも含まれてますか」


「もちろん」


「正直ですね、本当に」




 芦田と話していると、中瀬との会話との差異が面白かった。


 中瀬は感情を読み誤らせた相手だったが、芦田はむしろキツネの直接性を歓迎した。「正直でいい」と言う。これは個人差なのか、あるいは職業柄の違いなのか。


 ダンジョン攻略者は、不確かな状況の中で即座の判断を迫られる。曖昧さへの耐性がある。あるいは、曖昧さより直接性を好む。


「一つ聞いていいですか」とキツネは言った。


「どうぞ」


「ケモナーという嗜好は、どこから来ると思いますか」


 芦田は一瞬眉を上げ、それから真剣な顔になった。


「突然哲学的な質問しますね」


「気になっています」


「私の場合? それとも一般論として?」


「両方」


 芦田は少し考えた。


「私の場合は、正直わからないんですよね。子供の頃から動物が好きで、人間よりずっと話しやすかった。でも動物と話せるわけじゃないから、その中間みたいな存在を想像してた。そっちが先かも。」


「では白狐のような存在は、想像の具現化に見えますか」


「最初はそう感じました。でも今は、白狐は白狐ですよ。私の想像とは違う」


 これは予想外の回答だった。


 キツネは自分がケモナーの「想像の産物」の具現化として機能することを想定して今の姿を作っていた。しかし芦田は、接触後わずか十分で「違うもの」として認識している。


「どう違いますか」


「想像の中の存在って、自分の都合の良いように動くんですよ。でも白狐は違う。独立した意思と目的を持ってる。それが、私の想像のものより、ずっと面白い」




 酒場の夜は長かった。


 芦田は多弁だった。攻略者としての日常、霧深市の近況、人間社会のちょっとした不満や面白いことを、矢継ぎ早に話した。キツネはその大半を聞き役に徹し、時折質問を挟んだ。


 観察として非常に有益だった。


 ただ一方で、キツネは別のことも観察していた。


 恋愛というのはどういうものか、だ。


 人間の行動の中で、最も理解しにくい領域の一つが恋愛だった。生存本能や繁殖本能で大部分は説明できるが、人間の恋愛はその範囲を大きく逸脱している。相手への共感、依存、嫉妬、喜び。これらが複雑に絡み合う現象。


 キツネは自分にそれが理解できるのかどうか、試してみたかった。


 観察だけではわからないことがある。体験しないと。


 芦田は良い対象かもしれない、と思った。


 直接的で、悪意がなく、キツネの独自性を認めている。感情的な操作が必要な相手ではない。


「芦田さんは、今パートナーはいますか」


 芦田は少し驚いた顔をした。


「急に聞きますね。……いないですよ。なかなか難しくて」


「難しい理由を聞いてもいいですか」


「ケモナーだから、って言っちゃうと語弊あるかもしれないけど。でも好みとして獣人の方とか、そういう方が理想だなと思うと、現実には少ないし。人間とのお付き合いは、合わない部分があって」


「具体的には」


「なんか、重いんですよね。人間って。感情的に。私がさらっとしてるからかもしれないけど」


 キツネは考えた。


「では、私のようなものとお付き合いする可能性はありますか」


 芦田は三秒沈黙した。


 それから、噴き出した。


「……告白ですか、今」


「試してみようと思いました」


「正直すぎる!!」




 芦田沙樹とキツネは、それから三週間ほど一緒に過ごした。


 交際という言葉が正確かどうかはわからない。少なくとも芦田はそれを「交際」と呼んでいたが、キツネにとっては引き続き「実験と観察」の延長線上にあった。


 ただ、これは計算だけではなかった。


 芦田と過ごす時間は、純粋に面白かった。


 彼女は毎日、何かしら新しいことを言った。前日と矛盾することを言うこともあったが、それを指摘すると「矛盾してるかもしれないけど、両方本当のことだから」と答えた。人間の中に複数の自分が共存しているという概念を、キツネは以前から観察で把握していたが、当事者がそれを当然のものとして語るのを聞くのは初めてだった。


 ある日の夕方、川沿いを歩きながら芦田が言った。


「白狐って、何者なんですか」


「狐です」


「そうじゃなくて。私、最近よく考えるんですよ。白狐は何なんだろうって。人間じゃないし、獣でもないし。でも知性があって、感情があって、言葉を話す。それって、何?」


 キツネは川面を見た。


「わかりません」


「え、自分でも?」


「分類する必要を感じたことがなかったので。狐であることは確かです。ただ、今の私が昔の四足の狐と同じ存在かというと、それも確信が持てない」


 芦田は少し考えてから言った。


「人間も動物だけど、人間を動物と呼ぶ人は少ないですよね。何かが変わると呼び名が変わる。白狐には、まだそういう呼び名がない」


「そうかもしれません」


「私はね、白狐のことを白狐って呼ぶのが正しい気がしてる。分類するより、固有名詞で呼ぶほうが」


 キツネは尻尾を揺らした。


 これは予想外の観点だった。分類より固有名詞。カテゴリより個体。人間はカテゴリで物事を整理しようとする傾向があるが、芦田は逆方向から考えていた。




 三週間目のある夜、キツネはベッドで天井を見ながら一つのことを考えていた。


 染色体の話だ。


 キツネは狐として生まれた。狐の染色体数は三十四本(2n=34)だ。人間の染色体は四十六本(2n=46)。完全に異なる。本来ならば、生物学的に子供が生まれる可能性はない。


 しかしキツネは、今の自分が「どこまで狐か」を確信できなかった。


 変化の能力は、外見だけを変えているのか。それとも細胞レベルまで変化しているのか。


 試したことはなかった。自分の細胞を分析する手段も、今まで必要性も感じていなかった。


 しかし芦田と三週間過ごしながら、人間との間に子供が生まれる可能性があるかどうか、という問いが頭に浮かんだ。


 これは純粋な知的好奇心だった。


 生物学的な可能性として、全細胞レベルで変化していれば、染色体も変化している可能性がある。染色体が四十六本に変化していれば、人間との間に子供が生まれる条件が一つ満たされることになる。


 生まれた存在は何になるか。


 狐の変化能力を持つかもしれない。あるいは全く異なる能力を持つかもしれない。外見的には人間に近いかもしれないし、狐に近いかもしれない。


 それは狐なのか、人間なのか、あるいは何か第三のものなのか。


 芦田が言っていた。「まだ呼び名がない」。


 もし子供が生まれれば、その子供はさらに「まだ呼び名がない」存在になる。


 キツネは考え続けた。


 まあ、可愛ければ良いか、という結論が浮かんだ。


 これは計算外の思考だった。「可愛い」という評価基準で物事を判断したことが、これまでほとんどなかった。


 芦田と過ごした三週間で、何かが変化したかもしれない。




 翌朝、芦田と朝食を取りながら、キツネは言った。


「一つ確認したいことがあります」


「なんですか」


「私の細胞が、今どういう状態にあるか、調べてもらえますか」


 芦田は箸を止めた。


「細胞? どういう意味ですか」


「染色体の数を確認したい。今の私の姿が、外見だけの変化か、細胞レベルの変化かを知りたい」


 芦田はしばらく黙っていた。


「……なんでそれを今朝」


「昨夜考えていました」


「何を考えてたの」


「子供の話です」


 今度は芦田が五秒ほど沈黙した。それから、ゆっくりと箸を置いた。


「……白狐、たまに突然すごいこと言いますね」


「タイミングが悪かったですか」


「悪い、というか。えっと」


 芦田は頬に手を当て、少し天井を見た。


「生物学的に、可能性があるかどうかを確かめたい、ということ?」


「そうです」


「恋愛的な文脈で言ってるわけじゃなくて」


「両方かもしれません」


 芦田はまた沈黙した。今度は長かった。


「……白狐は、子供が欲しいんですか」


 キツネは少し考えた。


「欲しい、という言葉が自分にとって何を意味するか、まだわかりません。ただ可能性として、考えました」


「正直だなあ」


 芦田は苦笑した。苦笑の中に、別の何かが混じっていた。




 細胞の分析には、ダンジョン関連の研究機関を使うことになった。


 霧深市には、ダンジョン由来の生物現象を研究する民間の研究所がいくつかある。非人間存在の生体データを収集しているところもあり、匿名での分析依頼を受け付けていた。


 採血と細胞採取が行われた。


 研究員は無表情にサンプルを受け取り、「三日後に結果が出ます」と言った。こういう研究機関では、珍しい存在が来ることに慣れているのだろう。


 三日間、キツネは引き続き街を観察した。


 今日は哀悼区の近くを通りかかった。ダンジョンの外だが、ダンジョン攻略者の死亡事故の情報は街の掲示板に掲載される。今週は二件あった。


 一件は地下十層での転落事故。もう一件は地下三十一層でのフォームアント(集団行動する蟻型魔物)による多数被弾。


 キツネはそれらの情報を眺めた。


 人間は死ぬ、と改めて思った。


 簡単に、あっけなく。それでも毎日多数の人間がダンジョンに潜り続ける。何がそうさせるのか。金か、名誉か、あるいは単純な興奮か。


 人間の動機は複雑だ。


 芦田はどういう動機で攻略者になったのかを、まだ詳しく聞いていないことに気づいた。




 三日後、研究所から結果が届いた。


 キツネと芦田は一緒に結果を受け取った。


 研究員が資料を広げ、説明した。


「採取した細胞の分析結果ですが、染色体数は四十六本でした」


 キツネは一度だけ瞬きした。


「ただし」と研究員が続けた。「通常の人間とは異なる部分が複数あります。まず細胞の修復速度が人間の約三倍。次に、特定の遺伝子領域に人間のゲノムデータベースと一致しない配列が含まれています。この配列は、既知の動物の遺伝子とも完全には一致しません」


「つまり」


「端的に言えば、染色体数は人間と同じですが、遺伝情報の内容は人間とも狐とも異なる独自のものです。新種の可能性があります」


 芦田が小さく息を飲んだ。


「生殖適合性については」とキツネは聞いた。


 研究員は少し躊躇した。


「染色体数が同じであることは、理論上の条件の一つを満たします。ただし遺伝情報の差異がどう影響するかは、実際のデータなしには判断できません」


「可能性としては」


「否定もできませんが、肯定もできません。未知の領域です」


 三人は少しの間、沈黙した。


 研究員が静かに言った。


「もし生まれた場合、それはおそらく既存のどのカテゴリにも属さない存在になります」




 研究所を出た後、二人は川沿いに戻った。


 夕方で、川の水が赤く染まっていた。


 芦田はしばらく黙っていた。キツネも黙っていた。


「白狐は」と芦田が言った。「今、何を考えてますか」


「色々と」


「例えば」


「今の私が、いつから『新種』だったのか、ということ。ずっと狐だと思っていました。変化能力は外見だけを変えるものだと思っていた。しかし細胞レベルで変化しているとすれば、今の私はどこかの時点から、狐ではなくなっていた可能性がある」


「それは、嫌なことですか」


 キツネは少し考えた。


「わかりません。カテゴリが消えた、という感覚はあります。狐であることは自明だと思っていたのに、今は不確かになった」


 芦田は川を見ながら言った。


「私ね、ずっと人間に対して『人間って難しい』と思って生きてきた。感情が重くて、期待が多くて、カテゴリで相手を見てくる。獣人や非人間存在と接する方が、ずっと楽だと思ってた」


「それが変わりましたか」


「白狐と三週間いて、人間もそんなに違わないんだなって思いました。カテゴリに収まらないのは、人間も同じかもしれない。白狐が新種であることと、人間が複雑であることって、根っこは似てる気がする」


 キツネは尻尾を揺らした。


「芦田さんは、面白いことを言いますね」


「褒めてます?」


「褒めています」




 その夜、キツネは一人でスキル「化け学」を使った。


 川沿いの人気のない場所で、水に手を浸けた。


 水は酸素と水素で構成されている。電気分解を行えば、酸素と水素に分離できる。本来は電流が必要だが、スキルがあれば電流なしに分解できる。


 指先から、気泡が立ち上った。水が分解されている。


 キツネはその光景を眺めた。


 化学は変化を扱う学問だ。物質が別の物質になる。エネルギーが形を変える。何かが消えて、何かが生まれる。


 自分も、変化している。


 四足の狐として生まれ、変化の能力を持ち、今の姿を取るようになった。その過程でいつの間にか、細胞まで変わっていた。


 それは望んだことなのか、望まなかったことなのか、今となってはわからない。


 ただ、今の自分がいる。カテゴリのない、新種の、何かが。


 人間の言葉を借りれば、「命名されない生き物」だ。


 キツネは、そう思って、少し可笑しかった。


 名前がない、というのは昔から変わらない。しかし以前は名前が必要なかっただけだ。今は、名前をつけようとしても、適切な言葉がない。


 人間の言葉は、既存のカテゴリを名付けるためのものだ。新種のための言葉は、まだない。




 一ヶ月後。


 芦田はダンジョンに潜り続けていた。キツネも街での観察を続けていた。


 二人はほぼ毎日会った。


 ある日、芦田が攻略から帰ってきて、珍しく疲れた顔をしていた。


「怪我ですか」


「怪我じゃないです。仲間が一人、今日ダンジョンで死にました」


 キツネは黙った。


「長く一緒にやってた人で。まあ、ダンジョン潜れば死ぬことはある。わかってる。でも、慣れないですね」


「慣れるものではないかもしれません」


「白狐は、死ぬのが怖いですか」


 キツネは少し考えた。


「わかりません。人間の死に対して、どれほどの感覚を持てばいいかも、まだわかっていません」


「そういう正直さが好きですよ、私は。ごまかさない」


「ごまかすことに慣れていないので」


「羨ましいです」


 芦田はそう言って、少しの間目を閉じた。


 キツネは何も言わなかった。沈黙が必要な時があることは、三週間で学んだ。


 窓の外で、霧深市の夜が続いていた。


 サイレンが遠くで鳴った。また誰かがダンジョンで事故に遭ったのかもしれない。


 芦田はそれを聞いても目を開けなかった。


 慣れているのか、あるいは慣れようとしているのか。キツネにはわからなかった。


 それもまた、観察の続きだった。




 しばらく後、キツネは山に戻った。


 霧深市に来てから三ヶ月が経っていた。


 山の入り口の古い木の下で、元の四足の狐の姿に戻った。


 土の臭い。風の感触。木の葉が擦れる音。


 体が伸びた。人型は長時間維持すると、わずかながら疲弊する感覚がある。元の姿に戻ると、それが解けた。


 キツネは木の根元に腰を下ろして、三ヶ月間を整理した。


 人間の社会は、予想より複雑だった。予想より面白かった。


 中瀬遼は、正直すぎる発言に傷ついた。芦田沙樹は、正直すぎる発言を好んだ。同じ行動が、人間によって全く異なる受け取られ方をする。これは頭では知っていたが、実体験として知ることで、解像度が上がった。


 ケモナーは、確かに一定数いた。しかし彼らが求めているものは、キツネが想定した「想像の具現化」とは必ずしも一致しなかった。芦田は「独立した意思と目的を持っているほうが面白い」と言った。


 それはつまり、戦略的に作り込んだ姿よりも、「そのまま」のほうが効果的な場合がある、ということだ。


 計算外だった。


 自分の細胞が変わっていたことも、計算外だった。


 染色体四十六本の、新種の何か。


 キツネは前足で地面を引っ掻いた。


 名前が必要かもしれない、と思った。自分の種のための、新しい名前。それはまだない。しかし、いつかは必要になるかもしれない。特に、もし次の世代が生まれるなら。


 まあ、可愛ければ良いか、という考えが、また浮かんだ。


 今度は前より、その考えが自然だった。


 三ヶ月前の自分は、可愛いという基準で何かを判断したことがほとんどなかった。


 人間の中にいると、何かが移る。


 それが好ましいことかどうかは、まだわからない。ただ、面白いことだとは思った。


 キツネは立ち上がり、山の奥へ向かった。


 群れの場所まで、歩いて一時間。


 来月にはまた霧深市に行くつもりだった。芦田が次の大規模探索について話していた。見学させてもらえないか交渉してみようと思っていた。


 人間と共に潜るダンジョンは、一人で観察するより面白い情報が得られるかもしれない。


 深呼吸した。山の空気は冷たく、湿っていて、命の臭いがした。


 ここが元の場所だ。しかし今の自分にとって、ここだけが「元の場所」ではなくなっていた。


 それもまた、変化だった。




 命名されない生き物は、山へ帰った。


 そして来月にはまた、人間の街に向かうつもりでいた。




          ——第二話:完——


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