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抜粋。幻実世界の超常輪舞曲、  作者: parade


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第一話:摂食倫理、あるいは合理的な怪物


 深淵は、いつだって冷たい。


 地下二十三層。霧が薄く漂う石畳の廊下を、来栖瑠衣は足音も立てずに歩いた。肩まで伸びた白銀の髪が、松明の光もない暗がりの中でほのかに明るく見えた。細い体躯に着込んだのは黒のレザーコートで、腿まであるブーツは実用だけを優先した無骨なものだ。腰の両側に短刀を一本ずつ。背中には短弓。革のショルダーバッグは今のところほぼ空だった。


 彼は男だ。


 見た目だけではなかなか信じてもらえないが、体の構造から声帯から、すべて男のものだった。ただ骨格が細く、輪郭が柔らかく、目が大きく、唇が薄く赤みがかっている。十九年間で培われたその見た目は、本人にとってはただの外観であり、特別な意味も不満もなかった。男だとわかると驚く人間が多いが、それもまた別にどうでもいいことだった。


 来栖瑠衣にとって、外見や性別よりもずっと重要なことが、世界には無数にあったから。


 前方、霧の向こうに気配を感じた。


 瑠衣は自然に足を止めた。スキル由来ではない、純粋な訓練で磨いた感覚が、十メートル先の闇に何かが潜んでいることを教える。石畳を歩く足音。四足歩行。体重は軽め。


(ランクD相当。ゴブリンか、シャドウドッグか。)


 腰の短刀に手をかけながら、彼は暗闇を静かに見つめた。


 三秒後、それは出た。


 灰色の毛並みに赤い目。肩高六十センチほどのシャドウドッグが、霧を切り裂いて飛び出してきた。喉元から低い唸り声を絞り出しながら、一直線に瑠衣へ向かってくる。


 彼は動じなかった。


 右の短刀を抜き、魔物の跳躍の軌道を正確に読んで半歩後退した。犬型魔物の前足が虚空を掻き、着地の一瞬の硬直を狙って右の短刀を側頭部に深く差し込む。脳を抉る感触。シャドウドッグは短く悲鳴を上げ、ぐったりと倒れた。


 瑠衣は短刀を抜きながら、倒れた魔物を見下ろした。


 数秒の間があって、シャドウドッグの体から光の粒子が立ち上り始めた。現代人ならだれもが知っている光景だ。魔物の死体が素材に変換されていく、ダンジョン固有の現象。光の粒子は凝縮し、床の上にいくつかの物体として結晶化する。グレーの毛皮が一枚。細い牙が三本。それから小さな魔石がひとつ。


 瑠衣は膝を折り、魔石を指先で触れた。


 触れた瞬間、物体が光の粒子に変わり、消えた。消えたが、消えてはいない。胸のあたりに微かな感覚がある、インベントリに収納された感触だ。現代のダンジョン攻略者たちが「スキル由来の空間」と呼ぶ現象で、正式名称は「亜空間保管域」と言う。誰でも持っているわけではなく、ダンジョンで戦うことを生業とする者の多くが持っている能力だ。残りの毛皮と牙も同様に収納した。


 素材回収完了。


 床には、先ほどまで魔物が存在したことを示す痕跡すら残っていなかった。


 瑠衣は立ち上がり、また歩き始めた。


 今日の目的地はもっと深いところだ。地下二十三層はまだ通過点に過ぎない。




 ダンジョンが世界に出現したのは、今から十年前のことだった。


 二〇一四年の夏、複数の国の地下に突如として巨大な地下空間が出現した。最初は地震や地盤沈下と誤認されたが、それらは単なる「穴」ではなかった。内部には石造りの構造物が存在し、意匠を凝らした通路と扉と部屋が何十層にもわたって広がっており、そしてそこには、それまで人類が想像の産物だと信じていた存在たちが棲息していた。


 ゴブリン、オーク、スライム、スケルトン、ドラゴン。


 あるいは名前すら持たない、奇妙な生態を持つ魔物たち。


 最初の一年間は混乱の極みだった。軍は投入されたが、ダンジョンの構造は通常の軍事作戦を困難にさせた。補給路を確保できない、連絡が取れない、兵士が次々に死ぬ。そしてなにより、一部の人間が変化し始めた。


 スキルの目覚めだ。


 ダンジョンに潜り、魔物と戦うことで、あるいはそれとは無関係に、一部の人間が超常的な能力を持ち始めた。それは遺伝するものでも、特定の条件下で誰でも得られるものでもなかった。才能、という言葉がもっとも近いとされた。もともとその人間の内側に眠っていた才能が、なんらかの刺激によって開花し、スキルとして発現する。


 スキルには必ず「効果」と「条件」がある。


 効果は文字通り、そのスキルが何をもたらすかだ。身体能力の強化、属性攻撃の付与、治癒能力、あるいはもっと特殊な能力。千の人間がいれば千の異なるスキルがある、とも言われる。


 条件は、そのスキルが機能するために何が必要か、だ。単純に「戦闘中に発動する」ものもあれば、「特定の素材を持参した時のみ」「日中のみ」「満腹時のみ」といった複雑な条件を持つものもある。条件が厳しければ厳しいほど、効果は強力になる傾向がある、と現在の研究では示されている。


 スキルに関する研究は、十年経った今でも進展し続けている。


 そしてその十年の間に、世界はダンジョンとの共存に向けて大きく変化した。ダンジョンは塞ぐことができなかった。軍事封鎖も完全ではなかった。結局人類が採用したのは「管理と活用」という方向性だった。ダンジョン攻略者のライセンス制度が整備され、素材の売買市場が形成され、スキル持ちの人間は国家から様々な支援を受けるようになった。ダンジョン都市という概念も生まれた。ダンジョンを中心とした経済圏を持つ都市が、各国に点在している。


 瑠衣が今潜っているのは、日本の中部に位置するダンジョン都市・霧深市の、最大級のダンジョン「霧深大廃坑」だ。全八十四層から成ると言われているが、最下層に到達した者はまだいない。地下二十層台は中級者向けの区域で、瑠衣のような中堅攻略者が主に活動する場所だ。




 地下二十五層の探索区画に、休憩用の空間があった。


 ダンジョン内に自然発生した広間で、ここ数年魔物の侵入が確認されていない安全地帯だ。床には先人の攻略者たちが持ち込んだシートやランタンが置いてあり、補給や休憩の場として暗黙の了解で使われている。


 瑠衣は広間の隅に腰を下ろし、荷物を下ろして水筒を取り出した。


 そしてスケッチブックを膝の上に広げた。


 中身はびっしりとした文字と数字と図表だった。他の攻略者が見たら「なんの呪いだ」と思うかもしれない。


 これは彼の実験記録だ。


 来栖瑠衣のスキルは「摂取」という。


 効果は、スキルを宿した存在の肉体を摂取することで、確率的にそのスキルを自分のものにする、というものだ。


 スキルが発現したのは十七歳の時だった。


 彼はその頃、攻略者の見習いとして先輩の後ろをついて歩いていた。初めてまともにダンジョンに入り、ゴブリンの討伐を手伝い、その後の食事のために先輩が丁寧に解体したゴブリンの肉を、まかない飯として食わされた記憶がある。ゴブリンは可食部が少ないがまずくはない、というのが攻略者の間での評価で、本人も特に抵抗なく食べた。


 翌朝、目が覚めたらスキル通知が来ていた。


 「スキル『摂取』が発現しました」


 彼はしばらく、なにが何だかわからなかった。スキルには必ず効果と条件の説明が、スキル発現の通知とともに頭の中に直接流れ込んでくる。その情報を整理して、彼は考え込んだ。


 効果:スキルを宿した存在の肉体を摂取することで、そのスキルを自分のものにできる。

 条件:摂取する割合によって、スキル取得の確率が変動する。


 「スキルを宿した存在」とはなにか。

 「肉体を摂取」とはどういう意味か。

 「割合」とはなんの割合か。


 疑問は山積みだったが、瑠衣は研究者のように体系的にアプローチした。


 最初の試行は見習いを終えてすぐだった。単独でゴブリンを仕留め、その場で肉を切り出して食べた。結果はスキル取得なし。次は量を増やした。それでも取得なし。


 試行を重ねるうちに、ある夜、コボルトの内臓を大量に食べた後に「嗅覚強化」というスキルを一時的に取得した。一時的、というのは、翌日には消えていたからだ。取得後の持続性については、また別の問題がある。


 しかしその試行が転換点だった。


 コボルトの内臓は体重比で見ると非常に大きな割合を占める。彼はそこから計算を始めた。




 スケッチブックの最初のページには、「試行一覧」というタイトルが書かれていた。


 瑠衣はそのページを開き、水を一口飲みながら、記録を目で追った。


【試行No.1】

対象:ゴブリン(雄、成体、推定体重四十五キログラム)

スキル保有:有(確認済み。スキル名:「短剣術・初級」)

摂取部位:腿肉

摂取量:約八十グラム(推定全可食部の一・五パーセント前後)

調理法:塩焼き

結果:スキル取得なし

備考:初めての有意識的試行。割合が低すぎる可能性。


【試行No.2】

対象:ゴブリン(同個体継続)

スキル保有:有

摂取部位:腿肉・背肉の混合

摂取量:約三百五十グラム(推定全可食部の六・五パーセント前後)

調理法:塩焼き

結果:スキル取得なし

備考:依然として割合不足の可能性。あるいは「可食部」ではなく「全体重」が基準か。


 記録はこのような形式で、几帳面に積み重なっていた。


 現在のページ数は百二十ページ。試行回数は五十七回。


 この二年間で彼が導き出した暫定的な結論は、いくつかある。


 まず、「割合」は体重全体に対する比率だということ。可食部のみの割合では計算が合わなかった。ゴブリンの例では全可食部を食べ尽くしても体重の三十パーセント程度にしかならないが、そこまで食べてもスキルを取得できないことがあった。一方、スライムコアの場合はコア単体で個体の七十パーセント以上を占め、コアを丸ごと食べたときに「腐食液分泌」というスキルを取得した。


 つまり「全体の何パーセントを摂取するか」が問題だ。コアのみを食べれば七十パーセント以上を摂取したことになる。ゴブリンの骨や皮も含めた全体重に対して計算すると、可食部だけ食べ尽くしても三十パーセント程度にしかならない。


 次の疑問は、どのくらいの割合でスキル取得が確実になるかだ。


 試行データから導き出した暫定値は、おおよそ六十パーセントが閾値らしい、ということだった。六十パーセントを超えると取得率が急激に上がり、八十パーセントを超えると高確率で取得できる。ただしこれはサンプル数が少なく、魔物の種類によってもばらつきがある可能性があるため、まだ確定ではない。


 三つ目の疑問は、部位による差異だ。


 これが最も難しかった。スライムのコアはほぼ全スキルの根源となる部位だからスキル取得率が高いのか、それとも単純に体重比率のためなのか。ゴブリンの場合、脳や心臓などの中枢器官を優先して食べた試行と、筋肉部位を優先した試行で、取得率に有意な差は見られなかった。


 今のところ、部位の優先度は低い、というのが暫定結論だった。割合の絶対値が最も重要。


 四つ目の疑問が、今日の主題だ。


 瑠衣は廊下の彼方に目を向けた。


 その先に答えがある気がしていた。




 瑠衣はスケッチブックに視線を落としたまま、しばらくの間何も動かなかった。


 いや、正確には考えていた。ただ、その考えは言語化するには一段階の手間が必要で、言語化する前の段階でゆっくりと回っていた。


 魔物のスキルを食べて取得する。


 これはもう実証済みだ。


 ならば人間はどうか。


 スキルを持つ人間を、食べればいいのではないか。


 この考えが浮かんだのは、今日が最初ではなかった。実は最初の試行の後、頭の隅にずっとあった考えだ。ただそれは実現可能性の低さと倫理的障壁によって棚上げにされ、代わりに魔物での試行が繰り返されてきた。


 しかし今日、瑠衣はその棚上げを解除することにした。


 理由は単純だ。魔物のスキルは、基本的に魔物特有のスキルだ。「炎爪」「毒腺」「再生」「暗視」。それらは確かに有用だが、人間のスキルに比べると用途が限定的だった。


 人間のスキルは質が違う。


 「鉄壁」のような防御系スキルを持つ人間は、同等の物理防御力を持つ魔物のスキルを取得するよりも高い効果を得られる可能性がある。なぜなら人間のスキルは人間の体に最適化されているからだ。「高速詠唱」「剣聖の境地」「完全回復」。一流の攻略者が持つような、強力なスキルを取得できれば。


 それは、魔物の素材を延々と食べ続けるよりもはるかに効率がよかった。


 瑠衣は水筒を置き、ページをめくった。


 白紙のページに、彼はペンを走らせた。




 まず、「人間を食べる」という前提を分解する必要があった。


 彼は論点を箇条書きにした。


 一、生きている人間を殺して食べるのか。

 二、すでに死んでいる人間の遺体を食べるのか。

 三、食べるとは具体的にどういうことか。固体のみか。粉末を飲む形でも成立するか。


 一については、言うまでもなく不可能だ。単純に殺人は犯罪であり、捕捉される確率が高く、リスクが大きすぎる。仮に実行したとして、一人の人間を六十パーセント以上食べ切ることを考えると、人間の平均体重が五十から七十キログラムとして、三十から四十二キログラム以上を消費しなければならない。現実的ではない。


 二については、考える価値がある。


 ダンジョン内で命を落とした攻略者は多い。その遺体は必ずしも回収されるわけではなかった。地下深くで死んだ場合、仲間が遺体を連れ帰ることが難しく、そのまま放置されるケースが珍しくない。中には仲間がその場で簡易的な墓を作り、目印を残して撤退するということもある。


 ダンジョン内の遺体は、時間が経てばどうなるか。


 魔物に食われることもある。それは除外しよう。しかし魔物が入らない区域では、遺体は腐敗し、最終的に白骨化する。ダンジョンの空気は不思議なほど乾燥していて微生物活動が地上より少ないとも言われており、腐敗の速度は地上よりかなり遅い可能性がある。


 骨はある程度長期的に残る。


 三について。


 粉末にした骨を飲料に混ぜて飲む。これは「食べる」と言えるか。


 スキルの条件は「摂取する」だ。「摂取」とは体内に取り込むことを意味する。固体でなくても、溶液にしても、粉末にしても、体内に取り込むことには変わりない。スライムのコアを試行した時、あれは固体ではなく粘性の高い液体状のものだったが、スキルは取得できた。


 粉末骨を水に溶かして飲むことは、摂取の定義に含まれる可能性が高い。


 ただし問題がある。


 骨は人体の何パーセントを占めるか。


 成人の骨の総重量は体重のおよそ十五から二十パーセントとされている。仮に六十キログラムの人間であれば、骨の重量は九から十二キログラムだ。


 スキル取得に必要な割合の閾値が六十パーセントであるとすれば、三十六キログラム以上を摂取する必要がある。骨だけでは全然足りない。


 しかし。


 仮に確率的なスキル取得でいいとすれば、より少ない割合でも可能性はゼロではない。試行No.1では一・五パーセントでスキル取得に失敗したが、「失敗した」のであって「確率がゼロ」ではなかったかもしれない。


 データが足りない。


 瑠衣は考えを整理した。


 結論:まず少量の試行を行い、データを収集する。スキル取得の有無を確認する。可能ならば複数の個体から採取し、試行回数を重ねる。


 これは科学的なアプローチだ。




 彼はスケッチブックを閉じ、荷物を背負い直した。


 水筒の水を半分ほど飲み、その感触を確認した。空腹ではないが、満腹でもない。


 広間を出て、廊下を歩き始めた。


 目的地は変わった。


 今日の本来の目的は地下三十層の素材採取だったが、それは地下二十七層の「哀悼区」への訪問に変更された。


 哀悼区とは、この「霧深大廃坑」で命を落とした攻略者たちの墓地のことだ。


 正式な呼称ではない。攻略者たちの間で自然に生まれた呼び名だ。地下二十七層の一角に、広めの空間があり、そこには長年の間に作られた多数の簡易墓標が置かれていた。木の板に名前を彫ったもの、石に刻んだもの、金属プレートを打ち付けたもの。規模は様々で、古いものでは十年近く前のものもある。


 瑠衣は以前、攻略中に何度かその場所を通ったことがあった。


 そして目を止めた墓標が、ひとつある。


 「黒田健吾。享年二十六歳。スキル:鉄壁。三年前に没す。」


 墓標に刻まれた情報は少ない。しかし攻略者のコミュニティでは黒田健吾の名前を知っている者も少なくなかった。「鉄壁」は防御系スキルの中でも非常に強力なもので、その保有者であった黒田は中上級の壁役として広く知られていた人物だったからだ。


 三年前、未踏区域の探索中に事故で死亡した。仲間が危険を冒して遺体を回収しようとしたが果たせず、結局その場に墓を作って引き上げたと、当時の話として攻略者たちの間で語られていた。


 骨が残っているはずだ。三年という時間は、ダンジョンの乾燥した環境では白骨化に十分なはずだった。


 瑠衣は廊下を歩きながら、自分の心理状態を確認した。


 罪悪感があるか。


 少し考えて、ないという結論に至った。


 黒田健吾はすでに死んでいる。彼の意識は消えている。骨はもはや単なる有機物の集合だ。カルシウムを主成分とする鉱物的な物質と、わずかに残るタンパク質。そこに「黒田健吾」という人格は存在しない。


 遺族が墓に参る時、彼らが涙するのは骨に対してではなく、骨をシンボルとして呼び起こされる記憶と感情に対してだ。骨自体には感情も意識も人格もない。


 ならば、骨を利用することはその人物を傷つけることにはならない。


 傷つけられる主体が存在しないのだから。


 これは合理的な判断だ。


 ……と、彼は思った。そして同時に、この考え方を「合理的」と感じる自分が、世間一般の倫理からかなり外れた場所にいるということも、冷静に認識していた。


 多くの人間はこの論理を受け入れないだろう。「死者への敬意」というものは、人格の有無とは無関係な文化的・感情的な規範だ。それを「骨に人格がないから利用して構わない」と割り切ることは、倫理的に問題があると見なされる。


 瑠衣はそれを理解した上で、自分の選択をした。


 感情的な規範よりも、実利と論理を優先する。


 それが自分という人間の設計だと、彼は認識していた。




 地下二十六層に降りると、魔物の出現頻度が上がった。


 シャドウドッグが二体、ゴブリン戦士が一体。瑠衣は流れるように処理した。余分なダメージを受けることなく、最小限の動作で仕留め、素材を収納する。戦闘中も思考は別のところにあった。


 骨粉を用意するための道具は何が必要か。


 携行している工具類の中に、小型のノミとハンマーがある。これは岩盤の採取と解析のために持ってきていたものだ。粗い粉砕にはなるが、骨を砕くには十分だろう。さらに細かくするには、二枚の石を使ってすりおろす方法がある。ダンジョン内には平らな石が無数にある。


 容器は水筒がある。粉末を水に溶かして飲む。


 計量は難しい。ノギスも秤も持っていない。したがって今回の試行はデータとしての精度が低い。しかし、まず試行の可否を確認することが優先だ。


 採取量の推定は体積から行う。採取した骨の大きさと密度から重量を推定する。誤差は大きくなるが、初回試行として許容範囲だ。


 次回以降は秤を持参する。


 瑠衣は廊下の角を曲がり、記憶の中にある地図を照らし合わせて進路を確認した。あと十分ほどで哀悼区に着く。




 哀悼区は静かだった。


 広めの空洞で、ダンジョンの他の場所とは異なる雰囲気を持っている。岩壁に松明を立てた跡があり、今も何本かのランタンが置かれていた。定期的に攻略者が訪れ、供え物をしていくこともあるようで、石の上に乾燥した花や菓子の包みが置かれているものもある。


 空洞の奥に、墓標が並んでいた。


 五十基以上はあるだろうか。古いものから新しいものまで。木の墓標は経年で腐食したものもある。金属や石のものは比較的状態がよかった。


 瑠衣は墓標の前をゆっくりと歩き、一つ一つを確認した。


「中村 奏、享年三十一歳。二〇一八年没。」


「イリナ・ヴォルコワ、享年二十二歳。スキル:氷槍術。」


「田中 茂、ダンジョン攻略者。享年不明。」


「木下 怜、十九歳。最愛の娘へ。」


 瑠衣の視線は墓標の文字を追いながら、感傷的な感情とは無縁の場所を通過した。名前は名前だ。文字だ。その奥に存在した人格や感情は、今ここにはない。あるのは岩と石と金属と、その下に眠る骨だけだ。


 やがて彼は目的の墓標の前に立った。


「黒田 健吾。享年二十六歳。スキル:鉄壁。二〇二一年没。仲間たちへ。またダンジョンの外で。」


 質素な墓標だった。石に彫られた文字はしっかりとしている。墓標の前には小さな石が積まれており、かつては供え物があったのだろうが、今は何もなかった。


 瑠衣は墓標の側に膝をついた。


 土の状態を確認する。ダンジョンの床は基本的に石畳だが、哀悼区のこの場所だけは、誰かが持ち込んだ土が積まれ、その下に遺体が埋められていた。三年の時が経ち、土は固く締まっている。


 彼はショルダーバッグを開け、小型ノミとハンマーを取り出した。


 作業を始める前に、一度周囲を確認した。誰もいない。この時間帯に哀悼区を訪れる攻略者はまずいない。ここに来る人間はたいてい、特定の日時を選んでくる。


 それを確かめてから、瑠衣は作業に入った。




 土を掘り返すことには、想定より時間がかかった。


 ノミは土掘りには適していない。結局は手を使うことになった。素手でも革手袋越しでも、土は冷たく固かった。三十センチほど掘ると、白っぽいものが見えてきた。


 布だった。


 腐食しながらも形を保っている、かつての攻略用装備の残骸。それを慎重に除けると、その下に骨があった。


 白骨化は予想より進んでいた。三年でここまで、というのは地上の基準より速いかもしれない。あるいはダンジョンの特殊な環境が有機物の分解を促進しているのかもしれない。詳細は不明だが、骨の状態は良好だった。崩れておらず、形を保っている。


 瑠衣は骨を眺めた。


 これが黒田健吾だ。あるいは、かつて黒田健吾だったものだ。


 彼はスケッチブックを開き、新しいページに記録を始めた。


【試行No.58(予定)】

対象:黒田 健吾(人間男性、享年二十六歳、スキル:鉄壁)

スキル保有:有(記録に基づく確認。直接確認は不能)

摂取部位:骨(腕部、脚部の一部)

摂取量:推定(後ほど計算)

調理法:粉末化・飲料混合

推定対象体重:七十二キログラム(口頭情報。記憶から引用)


 瑠衣は一時停止した。


 黒田健吾の体重七十二キログラム。六十パーセント閾値であれば、四十三・二キログラム以上の摂取が必要になる。


 骨の重量は体重の約十五から二十パーセント。七十二キログラムの人間であれば、骨の総重量は約十から十四キログラムだ。仮に全骨格を摂取したとして、全体重の最大二十パーセント程度。


 閾値には全く届かない。


 しかし瑠衣は計算した上で、続行を選択した。


 試行を重ねること自体に意味がある。骨による試行でスキルが取得できた場合、仮説が拡張される。スキル取得の可否と、取得した割合の関係について、新たなデータポイントが得られる。


 あるいは、骨以外の部位ならばどうか。


 ダンジョン内に埋葬されたとして、完全に白骨化しているならば、軟組織は残っていない。しかし完全に白骨化していないケースはどうか。より新しい遺体が哀悼区には存在するか。


 瑠衣はもう一度、墓標の列を眺めた。


 あった。新しい墓標。金属板に刻まれた文字は、半年前の日付を示している。


「瀬山 律、享年二十八歳。スキル:千里眼。二〇二三年、秋没。」


 半年前。ダンジョンの乾燥環境でも、半年では完全な白骨化には至っていない可能性が高い。


 スキル「千里眼」は索敵・偵察系スキルの中でも非常に希少な部類に入る。長距離からの視認と情報収集が可能になるスキルで、高難度ダンジョンの探索において非常に有用だ。


 瑠衣はスケッチブックに追記した。優先度を整理した。




 作業は黙々と続いた。


 彼は感情を切り離すことが得意だった。それは訓練で得たものではなく、生まれつきの気質だと思っていた。感情が「ない」わけではないが、感情を判断の根拠にする習慣がなかった。悲しいと思う前に論理が動き、嬉しいと感じる前に利益計算が走る。


 骨を一部取り出し、ノミとハンマーで砕いた。


 石畳の上で、二枚の平たい石を使ってすりおろした。粉塵が舞い上がらないように注意しながら、細かく粉末化する。


 白い粉末が溜まっていく。


 瑠衣はそれを紙の上に集め、量を目測した。大さじ二杯分ほど。重量にして、十五から二十グラムほどか。全骨格の一から二パーセント程度。


 この割合は体重全体に対して、〇・二パーセントほどだ。


 非常に低い。スキル取得の確率は限りなく低いだろう。


 それでも試行に意味はある。


 彼は水筒を取り出し、粉末を投入した。水筒を振って溶かす。完全には溶けないが、細かい粒子が均一に分散した。


 見た目は白濁した水だった。


 臭いはほとんどない。ダンジョンの乾燥環境で三年を経た骨はほとんど無臭だった。


 瑠衣は水筒を持ち上げた。


 飲む前に、自分の心理状態を再度確認した。


 躊躇いがあるか。


 少し。


 その躊躇いはどこから来るか。


 長年かけて刷り込まれた「死者を汚してはならない」という文化的規範から来ている。生理的嫌悪感から来ている。これらは合理的な判断ではなく、感情的・習慣的な反応だ。


 合理的に考えれば、これは単なる飲料だ。


 彼は水筒を傾けた。


 飲んだ。


 白濁した水は思ったより飲みやすかった。わずかにミネラルの味がする。骨の成分であるカルシウムリン酸塩の味か。


 全量を飲み終えた。


 瑠衣は水筒を置き、スケッチブックに記録した。


「摂取完了。時刻十四時二十三分。推定摂取量十五から二十グラム。対象体重比〇・二パーセント前後。スキル通知は現時点でなし。今後二十四時間観察継続。」


 掘り返した土を元に戻しながら、彼は次の試行のことを考えていた。




 後始末を終え、立ち上がった。


 出来る限り元の状態に近づけた。完璧ではないが、誰かが詳細に検分しない限り、掘り起こしたことには気づかれないだろう。


 骨の一部が欠けていることも、地上からは確認できない。


 墓標に視線を向けた。


「黒田 健吾。享年二十六歳。スキル:鉄壁。」


 瑠衣は少し考え、手を合わせた。


 信仰心からではない。礼儀として、だ。


 この試行が失敗しても、黒田健吾の骨が提供したデータには価値がある。感謝するなら感謝してもよかった。


 次に隣の墓に向かった。


「瀬山 律、享年二十八歳。スキル:千里眼。」


 こちらは半年前の埋葬だ。土の状態を確認すると、黒田の墓よりも柔らかかった。まだ分解の過程にある。


 この試行はより難しい。物理的に、という意味で。


 しかし瑠衣の判断は変わらなかった。データの優先度は「千里眼」のほうが高い。索敵スキルは汎用性が高く、自分が現在保有していないスキルだ。


 彼は再び手で土を掘り始めた。




 予想通り、瀬山律の遺体は完全な白骨化には至っていなかった。


 布類の腐食は進んでいるが、半年という時間はダンジョンの低温低湿度環境でも軟組織を完全に分解するには足りていなかった。


 瑠衣は状況を把握した上で、冷静に判断した。


 軟組織は骨よりも体重に占める割合が高い。筋肉は人体の約四十パーセントを占める。内臓も含めれば、より多くの割合を占める。


 これならば六十パーセントの閾値に近づける可能性がある。


 彼は工具を出した。


 作業は粛々と進められた。瑠衣は作業中、思考を計算に向けていた。


 この試行の後、スキルが取得できた場合と、取得できなかった場合。


 取得できた場合:仮説が強化される。人間のスキルは死後も遺体に残存する。骨や軟組織を通じた摂取は有効だ。次のステップとして、より高い割合での摂取方法を検討する。


 取得できなかった場合:原因の仮説を立て直す。スキルは死後に消失するのか。摂取方法が不適切か。割合が不十分か。


 どちらの結果でもデータとして有用だ。


 作業が完了した。採取した組織を処理し、水筒へと投入した。前の試行よりも量が多く、水筒の水が白濁するだけでなく濁度が高くなった。


 記録を取った。


【試行No.59(本試行)】

対象:瀬山 律(人間女性、享年二十八歳、スキル:千里眼)

スキル保有:有(記録に基づく確認)

摂取部位:混合(骨部・筋組織・その他)

摂取量:推定三百から四百グラム

対象推定体重:五十五キログラム(推定)

割合:推定〇・五から〇・七パーセント

備考:依然として割合は低い。しかし軟組織含有により有機物の質が異なる。スキルが組織の種類によって偏在する可能性も引き続き検討する。


 割合はやはり不十分だった。


 しかし瑠衣はここで一つの考えに至った。


 今後の試行において、割合の問題をどう解決するか。


 選択肢は二つある。


 一、取得できる組織量を増やす。一体の遺体からより多くを採取する。


 二、複数回に分けて同一対象から採取し続ける。累積的な摂取で割合を高める。


 二の方が現実的だった。一度で全ての骨と軟組織を持ち去ることは物理的に困難で、痕跡も残りやすい。しかし複数回に分けた訪問であれば、各訪問を分散させることで発覚リスクを下げられる。




 哀悼区を出て、廊下を歩きながら、瑠衣は自分の感覚を観察していた。


 気分は良好だった。


 嫌悪感や罪悪感は、予想よりもさらに少なかった。初めての試行前には、わずかな躊躇いがあった。しかし実行してしまえば、それは単なる作業だった。


 これが自分という人間の本質だと、瑠衣は思った。


 多くの人間は、行動を起こす前と後に激しい葛藤を経験する。特に社会的タブーに関わる行動については、行動前には強烈な抵抗感を、行動後には罪悪感や後悔を感じる。これは人間が社会的動物として持つ感情的な安全装置だ。


 しかし瑠衣にとって、その安全装置は精度が悪かった。


 反応が鈍い、というより、反応が「合理的な判断」に上書きされてしまう。論理が感情を追い越す。


 これは長所なのか欠陥なのか、彼にはわからなかった。ただ、そういう設計になっているという事実として受け入れていた。


 廊下を曲がると、若い攻略者二人組とすれ違った。


 男性と女性のペアで、二人とも二十代前半に見えた。女性のほうが瑠衣の顔を見て、一瞬驚いた顔をした。美人だ、と思ったのかもしれない。瑠衣は特に反応せず、会釈だけして通り過ぎた。


 二人は哀悼区のほうへ向かっていった。


 瑠衣は立ち止まりそうになった気持ちを抑え、そのまま歩き続けた。


 二人が哀悼区に入っても、何かに気づく可能性は低い。後始末は丁寧にしてある。


 気になるとすれば、今後の訪問を続ける場合のリスク管理だ。哀悼区を訪れる攻略者の頻度と時間帯を把握する必要がある。


 瑠衣は歩きながら、新しい計画の骨格を頭の中で作り始めた。




 その日の夜、ダンジョンの外の宿に戻った瑠衣は、入浴を済ませてベッドに横になった。


 スキル通知はまだ来ていなかった。


 二十四時間の観察期間を設定している。明日の朝まで待つ。


 天井を見ながら、今日の試行を反芻した。


 問題点はいくつかある。


 まず、摂取量の精度が低い。次回以降は秤を持参し、可能な限り定量的なデータを取る必要がある。


 次に、対象の体重データの信頼性が低い。黒田健吾の体重は口頭伝承から得た数字で、確認する方法がない。瀬山律の体重は完全な推定だ。


 この問題を解決するには、ある程度の情報収集が必要だ。攻略者のデータベースには、登録時の体重情報が記録されていることがある。ライセンス証明書に体重が記載されているケースもある。


 しかしそのような情報へのアクセスは、不審を招く可能性がある。


 瑠衣はリスクとリターンを計算した。


 現時点では、データの精度向上のために余分なリスクを取る段階ではない。まず試行を重ね、スキル取得の可否を確認することが優先だ。


 目を閉じた。


 眠れそうだった。


 今日はこれで十分だ。一つの試行を完了した。一つのデータポイントを作った。


 成功か失敗か、結果は明日わかる。




 翌朝、起床と同時に確認した。


 スキル通知は来ていなかった。


 失敗だ。


 瑠衣はスケッチブックを開き、結果を記録した。


「試行No.58・59、スキル取得なし。原因仮説:(A)割合の不足、(B)摂取方法の不適合、(C)死後のスキル消失、(D)その他。最も可能性が高い仮説:(A)。次回試行方針:同一対象への複数回訪問による割合の累積的増加。または別対象の探索。」


 彼はペンを置いた。


 窓の外、朝の光の中でダンジョン都市・霧深市が動き始めていた。攻略者たちがダンジョン入り口に向けて歩いている。補給物資を運ぶ業者の車が走っている。普通の街の朝だった。


 この街で普通に生活している人々の大多数は、ダンジョンの二十七層に哀悼区があることを知らない。そこで昨日何が起きたかを、知らない。


 知る必要もない。


 瑠衣は着替えを始めた。今日も潜る予定だった。今日は素材採取の予定だったが、哀悼区への二度目の訪問も組み込むことにした。時間帯を変えれば、昨日とは異なる訪問者の存在を確認できる。


 行動パターンを変えながら、継続的に試行を重ねる。


 それだけだ。




 哀悼区への二度目の訪問は、三日後に行った。


 今度は日没後の時間帯を選んだ。夜間にダンジョンを潜る攻略者は昼間より少なく、哀悼区への訪問者はさらに限られる。


 瑠衣は今回、精密な秤と、解析用の小容器を持参していた。


 作業の精度を上げるためだ。


 瀬山律の墓を再び開けた。


 今回で二度目のため、手順は前回より迅速だった。採取した組織を秤で計量し、スケッチブックに記録した。前回との合計は、およそ七百から八百グラム。


 対象体重五十五キログラムに対して、累積割合は一・三から一・四パーセント程度。


 まだまだ遠い。


 しかし瑠衣はここで、一つの気づきを得た。


 彼が「摂取できる」量には、物理的な上限がある。一度に大量に摂取することは消化器系的にも精神的にも限界がある。しかし「一度に」という制約がなければどうか。


 複数の対象から、少量ずつ、長期にわたって。


 一人の人間の骨を全て採取し終えるまでに何度通えばよいか。また、複数の「対象」を並行して管理すれば、試行頻度を上げながらリスクを分散できる。


 哀悼区には五十基以上の墓標がある。


 すべてがスキル保有者ではない。スキルの記載がないものも多い。しかし記載があるものだけで、瑠衣が数えたところ十七基存在した。


 十七の対象。


 それぞれから採取できる組織量と、各スキルの優先度を評価する。希少で有用なスキルを優先しながら、段階的に試行を重ねる。


 長期的な計画が見えてきた。


 瑠衣は作業を続けながら、計画を頭の中で整理した。


 これはプロジェクトだと思った。


 地道で、時間のかかるプロジェクト。しかし結果が出れば、それは莫大なリターンをもたらすはずだ。人間のスキルを次々と取得していくことができるとすれば、自分は非常に強力な攻略者になれる。


 それは、来栖瑠衣が二年間かけて追いかけてきた目標の延長線上にあった。




 その夜、試行No.60を完了した。


 宿に戻り、シャワーを浴び、ベッドに横になった。


 目を閉じる前に、スケッチブックの記録を見返した。


 五十七回の魔物試行。三回の人間試行。そのどれも、今のところスキルの取得には至っていない。魔物の試行では、過去に成功例がある。スライムのコアと、コボルトの器官だ。


 人間の試行は始まったばかりだ。


 失望はなかった。研究とはそういうものだ。試行と失敗の繰り返しの中から、少しずつ法則が見えてくる。


 窓の外で、ダンジョン都市の夜が続いていた。


 遠くでサイレンが鳴った。ダンジョンで事故があったのかもしれない。毎晩のように聞こえる音だ。


 この街では、人が死ぬことが珍しくない。


 それは昔からそうだ。ダンジョンが現れる前から、人間は互いに、あるいは環境に殺されながら生きてきた。


 瑠衣はそれについて、特別な感情を持っていなかった。


 ただ一つ、今日の試行で得た気づきを記録しておこうと思い、スケッチブックを開いた。


「覚書:哀悼区の訪問を継続する上で、注意すべき点がある。この場所を定期的に訪れる攻略者がいる可能性がある。彼らは特定の墓標を目的地としている。その行動パターンを把握することで、接触を避けられる。また、哀悼区に入ったことを記録するシステムが存在しないことを確認した。出入りに痕跡を残さないよう引き続き注意する。」


「また:人間試行の継続に際して、現在の対象だけでなく、将来的に追加される可能性がある対象についても考えておく。新しい墓が作られた場合、それは新たな試行機会を意味する。今後、スキルの記載を含む新しい埋葬について継続的に情報収集する。」


 ペンを置いた。


 こうして書き出すと、自分の思考がかなり特殊な場所にいることがわかった。「新しい墓」を「試行機会」と表現し、攻略者の死に「リスク管理の材料」を見る。


 これは人として欠陥があるのかもしれない。


 しかし瑠衣には、その欠陥を修正する動機がなかった。


 動機がないということは、これが欠陥ではなく単純に自分の設計なのだ、と彼は解釈した。




 朝になった。


 起床した瑠衣は、窓を開けて外の空気を吸った。


 朝の霧深市は静かだった。


 遠くにダンジョンの入り口が見える。大きな鉄製の門で、朝六時から開放される。すでに数人の攻略者が入っていくのが見えた。


 今日も潜る。


 素材採取、試行のデータ記録、哀悼区の状況確認。やることはたくさんある。


 瑠衣は荷物を準備しながら、ふと考えた。


 自分はこれから先、どこへ向かうのか。


 スキルを積み重ねることで、より強い攻略者になる。より深い層に潜れるようになる。より希少な素材を採取できるようになる。より強い魔物のスキルを取得できるようになる。


 その先に何があるか。


 最下層の踏破、か。あるいはもっと別の何か。


 わからない。


 ただ今は、目の前の試行を続けること。データを積み上げること。仮説を検証すること。


 それだけで十分だった。


 来栖瑠衣は荷物を背負い、部屋を出た。


 廊下は薄暗く、静かで、冷たかった。


 いつも通り、いつもと変わらない朝だった。


 彼の内側でだけ、何かが少しずつ、しかし確実に変化していた。


 それはダンジョンの深淵のように静かで、冷たく、底が見えなかった。




 深淵は、いつだって冷たい。


 そしてその冷たさを、今日の瑠衣は昨日よりも少しだけ、自然なものとして感じていた。




          ——第一話:完——


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