第六話 お嬢さまと禁断の書
朱音お嬢さまは、涼しい顔を取り繕いながらも、頭を掻きむしって悶え転がりたい気分に支配されていた。
……廊下を歩きながら雑誌を読むなんて、侯爵家の娘ともあろう者がするべき所作ではない。
だが、それを見られてしまった――よりによって、あの桐草明夜に!
ホトトギスは俳句雑誌ではあるものの、小説も多く連載されており、朱音も毎月心待ちにしている。
発売は月初だが、発売日に飛びつくのは平民の仕草だし、読む本はすべて父の許可を得なくてはならない。
発売から半月あまりを煩悶と過ごし、やっと許可が下りたものの、家に帰れば家庭教師が待ち受け、勉強にお稽古事に、父に来客があればご挨拶もしなくてはならない。
自由に読書などしている時間がないのだ。
お昼休みの短い時間を惜しんでようやくありつけたというのに、あんなみっともない現場を目撃され、あまつさえあんな下劣な男に触れられてしまったなんて――!
(なんで――!!)
あの日以来、桐草明夜の顔が瞼に焼きついて離れない。
朱音を受け止めた衝撃で眼鏡が外れ、その素顔がさらけ出されていた。
細面だが、目元は鋭く顔立ちは精悍で、瞠目するほど端整だった……。
そして、階段から落下した朱音の身体を支えてくれた腕は、思いがけず力強くがっしりしており、たくましかった。
(どんくさのくせに……! 抜け作のくせに……! どうしてわたくしの瞼から消えないの――!)
一瞬でも彼に見とれたことに対し、地団太を踏みたくなるほどイライラしている。それなのに、いざ英語の授業になると、桐草の顔を見ることも、これまでのように質問攻めにして彼を困らせることもできなくなった。
なにより、目が合うのが怖いとすら思うのに、彼が背中を向けていると、そのテカテカになった背広を凝視してしまうのだ。
読みかけの『吾輩は猫である』の続きすらまるで興味が失せてしまい、日がな一日、あのときに見た素顔の桐草明夜ばかりを思い返している。
放課後になると、朱音は矢も楯もたまらず図書室へと走った。こうも心が乱れているときは、静かに読書をして気持ちを落ち着かせるのだ。
いつもは女学生でにぎわっている図書室は、珍しく無人だった。生徒ばかりか、図書掛の先生の姿も見えない。
「まあ、どうしたのかしら」
だが、ひと気がないのなら静かでいい。朱音は鞄を机に置いてから書棚を眺めた。
しかし、手の届く範囲の書物はたいてい読んでいる。辺りを見回して脚立を見つけてくると、それに上って小説を探した。
「あら……?」
最上段の棚の奥、和綴じの薄い冊子が一冊、他の分厚い洋装本の奥に押し込まれているのが見えたので、手前の本をどかしてそれを手に取った。
題名は『禁断の焔』。
「……三宅霞城著? 知らない作家だわ」
脚立から下りて席に着くと朱音は頁をめくり始めたのだが、数頁読んだところでいったんそれを閉じた。
そして、思わず図書室内をきょろきょろと見回し、恐る恐るもう一度表紙をめくってみる。
(これは……)
その書物は、女学校では禁じられているはずの、恋愛小説だったのだ。
この時代、良妻賢母教育の最盛期で、恋愛小説や通俗小説などは『不健全』『婦徳を害する』などと言われてご法度扱いされ、ずいぶん前に学校の書棚からは一掃されている。
校長先生の訓話でも、「恋愛は結婚後に夫婦間で自然に芽生えるもの。少女期に読むのは不適切」と繰り返し言われているほどで、与謝野晶子や泉鏡花あたりは名前を出すことすら憚られる空気だ。
この書物はおそらく、一斉撤去された際に見落とされたものだろう。
朱音はもう一度図書室内を見回して誰もいないことを確認すると、震える手で禁断の書を紐解いた。
その内容は、年の差のある男との婚約を親に決められてしまった侯爵令嬢が、とある若い書生と恋に落ちるという話だ。
ふたりは駆け落ちをするものの、令嬢は最終的に家に連れ戻されてしまう。やがて令嬢は婚約者の元で病に倒れて、書生の名を呼びながら息絶えるというものだった。
年の差のある婚約者、侯爵令嬢、何もかもが自分のことのように描かれているので、どうしたって自分と主人公を重ね合わせてしまう。
――涙、涙、涙なしでは読むことはできなかった。
親が勝手に決めてきた朱音の婚約者は、三十五歳と聞いている。イギリスにいるので会ったことはなく、映りの良くない写真を見ただけだ。
もちろん、そういうものだと思っているので疑問を抱いたことはないが、この書物を読んでしまった今、顔も知らない男に嫁ぐことに絶望感を抱いている。
恋に落ちる若い書生はいないが、若い教師なら――。
(違うわ……っ! あんなどんくさが、この書生と同じはずがありませんわ……!)
想像の中に現れた、どんくさい英語教師の姿を急いで追い払うと、朱音は『禁断の焔』を鞄の中に忍ばせる。
何のためらいもなく、ごく自然に。
そして、図書室の入り口付近に据え付けられていた姿見を覗き込み、目元をぬぐって図書室を後にした。




