第五話 What are you trying to open?
それからというもの、英語の時間はもっぱら朱音と桐草先生の、英会話対決が繰り広げられるようになった。
朱音は中等部の頃に一年ほどイギリスに語学留学をしていたため、十八歳という年齢にそぐわず英会話が堪能だ。父親が外務省の高官で、国際派という理由も大きい。
そして、朱音は桐草嫌いの急先鋒になりつつあるが、言っていることはほとんどいちゃもんに近かった。
ここまで朱音の嫌悪を掻き立てるものは何なのか、澪は考察する日々を過ごしている。
(まず見た目がマズいわよねえ。いかにも明治初期に流行ったような、つんつるてんのおじいちゃんのお下がり背広でしょ、垢ぬけない眼鏡に、そもそも存在そのものが田舎臭いし。そのくせ、朱音さまと同じかそれ以上に英語に堪能で。このあたりが華族さまの癇に障るんだろうなあ……)
すでに校内では『どんくさ先生』の仇名が定着しているほど、どんくさい先生である。朱音の美意識と矜持に、桐草の存在はとことん反発するのだろう。
(これが『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』ってやつかなあ……)
もはや同級の間に朱音と桐草先生の会話についていける者はおらず、みんながポカンとしているし、澪は聞き取りこそできるものの、まるで興味のない高尚な内容なので、すでに飽き飽きしている。
――なので、「英語で式神を呼び出すことができるか」に挑戦することにした。
「えーっと……」
頭の中で英訳を考え、小声で叫ぶ。
「Domain Open! Little ones, come forth.Haste-by the law’s command, now!」(霊域開門! 小人さん、急急如律令!)
すると、教科書の上に丸い小人さんたちがぽこぽこと生まれる。
「おお~通じた!」
「何をやってるんだ。精霊や式神は、言葉じゃなくておまえの霊力に反応してるだけだ」
澪の足元で丸まっていた白蓮が呆れているが、新たな挑戦の成功を喜んで、手を叩こうとした――その瞬間だった。
背筋を凍らせるほどのすさまじい殺気を感じ、ハッとして顔を上げる。その瞬間、現れた小人さんたちは雲散霧消した。
澪の集中力が切れると、精霊も式神も現世に留めておくことができなくなるのだ。
視線の先で出会ったのは、分厚い瓶底のような眼鏡の奥から澪を鋭く睨む桐草先生の顔だった。
思わず懐の式札に手を伸ばしそうになる。足元の白蓮のしっぽもぶわっと膨らんだ。
だが、空恐ろしいほどの視線は目の錯覚だったのかと思わせるほど、桐草は間の抜けた表情で言った。
「時雨さん、えぇと……何をopenするんですか?」
「あ……きょ、教科書! 教科書をopenしてはいかがかと思いまして」
授業がはじまると同時に朱音の攻撃も開始されるため、教科書はまだ閉じられたままだったのだ。
「ああ、授業が少し遅れ気味ですよね、申し訳ありませんねえ。鳳月さん、個別の質問は職員室でうかがいますので、この続きはまた後ほど」
こうして朱音と桐草の飽くなき争いには終止符が打たれたが、澪は呆然としたまま桐草の様子を目で追いかけていた。
「澪、あいつ何者だ?」
「白蓮も感じた? 妖とは思えないけど、もしかして精霊の姿が見えていた……?」
その後いくら霊力を集中させて桐草を探ろうとしても、彼からは当たり前の人間の気配しか感じられなかった。
だが初めて、桐草明夜に疑念を抱いた一幕だった。
*
その後の昼休みのこと。
廊下を歩いていた澪の前に、朱音の後姿があった。
彼女の二百三高地髷は相変わらずの標高を誇っていて、重くないのかな、などと余計な心配をしてしまう澪だ。
今は珍しく周囲に取り巻きがおらず、なぜか朱音は前のめりになって歩いている。普段なら、まっすぐ背筋を伸ばして、毅然とした態度を崩さないのに。
これから職員室に行って、桐草と議論を戦わせるのだろうか。だが、朱音は別に臨戦態勢という感じでもない。
背後に澪がいることに気づいていないようで、時折くすくすと忍び笑いをしていた。
「……猫の方が、よほど分別がありますわね」
どうやら歩きながら読書をしているようだ。朱音らしくない振る舞いだが、周囲に誰もいないと思って気が緩んだのだろう。
察するところ、ホトトギス六月号の『吾輩は猫である』を読んでいるようだ。今、学生の間でも大人気の、夏目漱石の連載だ。
華族は発売日に新刊に飛びつくことを下品だと考えているし、読書ひとつにもいちいち父親の検閲を受けなくてはならないので、月初発売の雑誌をようやく今になって読んでいるのだろう。
その朱音は読書をしながら、階段を下りようとする。
そのときだった。
「きゃあっ」
足を踏み外したのか、朱音が悲鳴を上げて階段から落下していく。
「朱音さま!」
澪は走って階段に駆けつけたが、彼女が床に落ちたような衝撃音は聞こえてこなかった。
ただ、階段の下の方で、転げ落ちそうになった朱音を片腕で抱き留めた人物がいる。
英語教師の桐草明夜だ。
「鳳月さん、大丈夫ですか?」
桐草先生の腕に身体を支えられている朱音は、しばし呆然と教師を見上げていたが、顔を真っ赤にして声もなく桐草の腕を振り解くと、その場から逃げた。
もちろん、大急ぎで逃げ出したわけではなく、あくまで悠然と、胸を張って堂々と。
だが、それも無理はないだろう。未婚の娘が若い男に触れられるなど、もはや事件である。その上、目の敵にしている桐草に助けられたなど、朱音の矜持が許すまい。
何より、悲鳴を上げるなど、淑女のすることではないから。
「あっ、鳳月さん、忘れ物――」
桐草が階段の踊り場に落ちていたホトトギス六月号と眼鏡を拾い上げ、朱音の背中に声をかけるも、彼女は振り返りもせずに立ち去ってしまった。
「先生、眼鏡はご無事ですか?」
どうやら、朱音を抱き留めた衝撃で眼鏡が外れてしまったのだろう。階段の上から澪が声をかけると、桐草は眼鏡をかけなおしてこちらを見上げた。
「ええ。分厚いので、そうそう割れたりしません。あ、時雨さん、この雑誌を彼女に返しておいてもらえませんか? どうやら僕、彼女には嫌われているようなので」
ぼけっとしている教師だが、嫌われている自覚はあるようで何よりだ。
しかし、澪も彼のことは疑いの目で見ている。今の姿からは想像もつかないが、澪や白蓮に殺気を感じさせる何かを、このどんくさ抜け作先生が持っているのは間違いないのだから。
恐る恐る彼に近いて雑誌を受け取りながら、じっと眼鏡の奥を見透かすように視点を固定する。
「わかりました、先生」
「よ、よろしくお願いします……?」
澪に睨まれてたじたじとなりながら、桐草は逃げるように足早で階段を駆け上がっていった。
妖の気配は感じられないが、階段を上がり切ったところに設置されている姿見に、桐草が不自然に視線を移したことが気になった。
そういえば、先日も姿見を見ている姿を目撃している。
「白蓮、どう思う?」
「こうしていると、まったく普通の人間としか思えないが、おまえと同じ霊術師という可能性もあるのでは?」
「あのどんくさ先生が……?」
「考えてもみろ。階段から落ちてきた人間を、咄嗟に片腕で支えるなど常人の業ではない」
「言われてみれば……。もしそうなら、私が呼び出した精霊にも気づいていたのかしら。白蓮のことも、実は見えてたり……?」
「目が合ったことはないが、あやつ、見た目通りの抜け作ではないかもしれない。油断するなよ、澪」




