第四話 英語教師の面目躍如
「All right, shall we begin? Please take out your textbooks.」(では、始めましょうか。教科書を出してください)
こうして桐草の初めての授業が始まったのだが、先生は本場英国人に勝るとも劣らない発音と滑舌の持ち主だった。
そのどんくさい見た目との落差のせいか、全員が真剣に桐草先生の一挙手一投足を見つめ、興味深く言葉に耳を傾けていた。
だが、さっきからずっと険しい顔をしているのは朱音である。何が気に入らないのか、不機嫌そうに眉根を寄せ、桐草先生を睨んでいる。
やがて、挙手をしてすっくと立ち上がると、流麗な英語で矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
「Sir, is that expression truly correct?」(先生、その表現、本当に正しいのかしら)
「は、はい……正しいです」
朱音のただならぬ空気に驚いたのか、桐草は日本語でしどろもどろになっている。
「Then why not use the present perfect? Is this how educated speakers say it?」(では、どうして現在完了形を使わないの? 教養ある話者は本当にこう言うの?)
「え、ええ……そうですね」
「If you are certain, explain the nuance.」(確かだとおっしゃるなら、そのニュアンスをご説明いただける?)
英語教育は行われているが、女学校は厳格な規律や淑女としての振る舞いが求められる場であり、英語で積極的に自分の意見を述べるような環境ではない。
そもそも会話よりも読み書きが重視され、あくまで教養の一部と位置付けられていることもあり、流暢な会話をこなせる生徒はほとんどいないのだ。
この教室内で朱音の言葉を完璧に理解できた生徒はほとんどいないだろう。
だが、朱音は家庭教師からみっちり教わっているためか、桐草に本場英語で挑んで慌てさせている。教室中が朱音に尊敬のまなざしを注いでいた。
(このまま朱音さまに言い負かされちゃったら、この先生はもう日の目を見れないんじゃないかな……)
澪はすこし不憫になって、同情の目を桐草に向ける。
生徒たちから頼りない先生と認識されてしまえば、他の学級でも軽んじられることになるだろう。
そして何より、朱音のような家柄の生徒に弱みを見せた教師は、職員室でも肩身が狭くなってしまう。
初日にして桐草先生の危機だった。だが――。
「……Miss Hougetsu.」
桐草先生は分厚いレンズの奥で一瞬だけ目を細め、小さく微笑む。攻撃的だった空気が、ふわっと和らいだ一瞬だった。
「English is not about rules alone. It is about what the speaker wishes to convey in that precise moment. Do you see what I mean?」(英語は、規則だけで成り立つものではありません。その瞬間に、話し手が何を伝えたいかで形が決まる言葉なんです。おわかりいただけますか?)
朱音が口を噤むと、彼は教科書を閉じた。
「That is all for today. Class dismissed.」(今日はここまでにしましょう。授業は終わりです)
桐草先生はやはり教壇から下りるときに蹴躓いていて、お嬢さん方から笑われたが、彼が出ていくと途端に教室中が沸き立った。
「おもしろい先生がいらっしゃったわね!」
「桐草先生ではなく、どんくさ先生ではなくて?」
「あのつんつるてんの背広! もう笑いをこらえるのに必死でした……!」
「でも、発音はとてもきれい――」
「朱音さま、今の会話はどういう意味でしたの? おふたりとも流暢で早すぎて、ちっとも聞き取れませんでした」
「なんでもありませんわ。少々、文法に不明点があったので質問していただけです」
様々な感想が漏れる中、澪は立ち上がって廊下に飛び出すと彼を追いかけた。
「先生! 桐草先生、お待ちください!」
「なんでしょう? ええっと……時雨さん」
桐草はなぜか廊下の姿見を覗き込んでいたが、澪に呼ばれて振り返った。
分厚い眼鏡のせいで目元が歪んで見えて、首をかしげる姿はまるで頼りなげな書生さんだ。さっきまであんな流暢な英語で授業をしていた人とはとても思えない。
彼のまん丸眼鏡を見て、我知らず吹き出しそうになったが、ぐっと笑いをこらえると先生に詰め寄った。
「あのっ、どうして私の名前を読めたのですか?」
「ど、どうして、とは――?」
正しく名を読んだことを責められた先生は、いたく困惑している。
「だって、普通は『しぐれ』って読みますよね!? いきなり正しい名前で読んだ方は、今まで誰もいませんでした――ッ! もしかしたら先生、日本語には明るくない方なのですか……?」
「えっ……? い、いえ、日本語は読めますよ……? 僕は純粋な日本人です」
「では、国語が苦手でいらっしゃる?」
「いや、何か誤解があるようですが、五十音順で読めば、『しぐれ』ではなく『ときさめ』となりますよね……?」
「――――たしかに」
寺本、戸川と続けば、次に『ときさめ』がくるのはごく自然なことだ。
正しく読まれて調子が狂ってしまったのか、その当たり前にも思い至らなかった。
「おかしなことを言って申し訳ございません……」
「いつも、しぐれさんと呼ばれてきたのですね。いちいち訂正するのも面倒くさいでしょう。変わった名前を持つ人の労苦でしょうね」
共感されてしまい、澪は思わず目を瞠った。
「ですが、個性的なお嬢さんの多い学級ですね。今後の授業が楽しみです。それでは」
そう言って踵を返した桐草先生は、廊下の何もないところでやはり躓いていた。




