第三話 どんくさ先生
次の授業は英語だったが、教室内がざわっとしていた。
頭髪が淋しくなった校長が、ひとりの若い男性を連れてきたためだ。
これまで担当をしていた英国人教師が急遽帰国してしまったため、その間の代理として嘱託教師がやってきたのだが――まだ若い日本人男性教師。
この由緒正しい帝都女学校は、婦徳・貞操・品行を厳しく守るため、異性との接触を最小限に抑えるのが基本方針だ。
普通、若い男性教師の採用は非常に慎重になるため、この嘱託教員が教室にやってきたときのお嬢さま方の好奇心と動揺は、教室内の空気を揺らすほどだ。
「諸君、静粛に。新任の先生をお迎えするに当たって、そわそわと視線を集中させるなど、女子たる者の品位を損なう行為は慎みなさい。あー、すでに聞き及んでいると思うが、英語のジョーン先生がご家庭の事情で帰国された。夏休み明けには戻られる予定だが、その間の代理として、こちらの桐草明夜先生が英語を教えてくださることになった。桐草先生、自己紹介を」
桐草と呼ばれた嘱託教師が校長に呼ばれて教壇に上がろうとしたが、段差に足を取られて机に突っ込みそうになる。
その姿を見て、生徒たちは笑いをこらえるのに必死だった。
「ああ、これは失礼――」
そう言ってずり落ちた丸眼鏡を指で押し戻しながら、桐草は教室内を見回した。
「えぇっと……はじめまして。ジョーン先生が不在の間、代わりに授業を受け持つことになりました、桐草と申します。どぞ、よろしくお願いします」
桐草と名乗ったのは、ひどく背が高く、すこし長めの黒髪が目を引く眼鏡の青年だった。
「では、あとは先生にお任せします」
校長が部屋を出ていくと、どこからともなく、クスクスと笑う声が聞こえ始めた。
なにしろ、彼の着ている背広ときたら。
元は格調高い黒の毛織物だったようだが、長年着古しているせいか、全体的に色褪せていた。肘の継ぎ当てが年月を思わせて、どこか切ない。
そして、高身長の彼に合わず、袖口からはシャツの袖や骨張った手首が大きくはみ出し、ズボンの裾から編み上げの革靴が丸見えだ。
きっとおじいちゃんのお下がりだろう。見るからにつんつるてんだった。
その上、彼のかけている丸眼鏡の分厚さは、虫眼鏡もかくやである。レンズが重すぎて眼鏡は常にずり落ちぎみ、いかにもどんくさそうな風貌だ。
若い男性教師といっても、全体的な姿がどこか抜けていて、異性を意識させる要素がほとんどない。だから女学校でも問題視されなかったのかもしれない。
(眼鏡が分厚すぎて……目があんなにお小さく……!)
(本当に英語が話せるのでしょうか……とてもそんな風には)
クスクス笑いとヒソヒソ話が半々。
高身長とつんつるてんの背広と分厚い丸眼鏡の桐草先生からは、時代遅れの古臭い雰囲気しか漂ってこない。
桐草先生は困ったように頭をかいたが、咳ばらいをして教室を見回し、言った。
「あーでは……。Now, everyone, may I have your full attention? I will take attendance.」(ではみなさん、こちらに注目していただけますか? 出席を取ります)
今度は違う種類のざわつきが広まった。
彼の英語はどこか堅苦しいものの、英国人教師と遜色ないほど流暢だったのだ。
みんながポカンと桐草先生の顔を見て、名前を呼ばれるとハッと我に返って「Present」や「Yes, sir」と返事をしている。
英語教師としてやってきたのだから、発音が流暢でも当然なのに、彼の容貌からこの発音は想像できず、ほぼ詐欺に近い。教室中が呆気に取られていた。
「寺本世々子、戸川繭――」
桐草先生が読み上げている出席名簿は、日本語表記だ。初回の授業では、どの教師からも必ず一度は『しぐれみお』と呼ばれるので、今日も即座に訂正しようと身構える。
「時雨澪」
「That’s not correct! it’s Tokisa……えっ!?」(違います! ときさ……えっ!?)
澪が腰を浮かせて言い返したら、桐草先生は眼鏡の奥できょとんとした顔をした。
「What was incorrect?」(何が違いましたか?)
「Nothing……,I’m sorry.」(なんでもありません、ごめんなさい)
すとんと席に腰を下ろし、思わず両手を頬に当てた。絶対間違われると思って訂正にいったのに、これは恥ずかしすぎる。
でも、初見で正しく読めた人には、これまで十八年の人生で一度も出会ったことがないのだ。
案の定、朱音やその取り巻きたちが笑っている。
(やはりご自身でも『しぐれ』だと思っていらっしゃるみたいね!)
墓穴を掘って、とんだ赤っ恥をかいてしまった。
夕奈にまで笑われたので、澪は咳払いしてまっすぐ座りなおした。




