第一話 西洋ドレスの陰陽師
明治三十八年、帝都東京――冬。
ガス灯のやさしい明かりが深夜の街並みを照らす中、人通りの絶えた銀座煉瓦街をひとりの娘が歩いていた。
洋装文化が入り込みつつも、まだ世間では和装が主流の時代に、草履では絶対に立たないコツコツという硬質な足音が鳴り響いている。
鋲が打たれた黒革の編み上げ靴、それに重なる濃紺スカートには、白く細やかなレースがちらついていた。
それも、ただの洋装ではない。ドレスを思わせる華やかな片鱗が、墨黒の外套の裾から覗いている。
黒の革手袋、夜会巻きにした頭に黒い小ぶりなトーク帽をちょこんと載せて、首元を飾るのは白いふわふわ毛皮の襟巻。
まるでこれから華族会館のパーティにでも向かうような出で立ちだ。
深夜の銀座に異質極まりない娘だが、まっすぐ昂然と顔を上げて進み続けていた。
銀座にガス灯が導入されて三十年、夜は明るく歩ける街となりにぎやかになったが、今は丑三つ時。当然、人の姿は見当たらないというのに。
だが、木挽町の方から、小さな頼りなげな明かりがゆらゆらと揺れながらこちらへ近づいてくる。行灯を手にした女だった。
古びた着物姿で、濡れたような長い髪を後ろでひとつに括り、青白い顔をうつむけながら足を引きずるように歩いている。
お互いに足を止めることなく進み続けたが、ガス灯の前ですれ違う直前、行灯の女がドレスの娘に顔を向けた。
「ああ、いやだ……」
その虚ろな目はろうそくの炎のような橙色で、今にも消えてしまいそうなほどか細く揺らめている。
人ではなかった。それは妖と呼ばれる、怨念の塊だ。
「おまえ、西洋の臭いがプンプンしてるねえ、臭い臭い……。どうせおまえもガスの臭いに慣れきって、行灯のありがたみを忘れちまったんだろう? この明かりはねえ、やさしく揺れながら、人の心を映したもんだよ……」
女の妖は吐き捨てるように言い、手にした行灯を娘の顔の前に突き出す。
「それを忘れて西洋に奴らに踊らされて、何がガス灯だい。こんな冷たい明かりに傾倒して、あのあたたかさを知ってる人間は、もういないのかい? ガス灯の冷たい光だけじゃ、何も映さないよ……行灯はもう要らないって? 時代遅れだって? ふふ、笑わせるねぇ。おまえも――」
「ちょっと待っていただける?」
初めて娘が口を開き、目の前に突き出された行灯を指で横によけた。
「その口上、いつまで続くのかしら。長すぎるから、短くまとめてもらえるとありがたいのだけど」
「なんだと……?」
「それと、ごめんなさいね。わたし、行灯ってあまり馴染みがなくって。我が家では石油ランプが普通なの」
娘が小首を傾げたとき、ひゅるると煉瓦街に一陣の風が吹き抜ける。
女は手にした行灯を震わせてうつむいたが、ガバッと顔を上げるなり娘に詰め寄った。
「石油、ランプ――だと?」
弱々しく揺れていた目に宿る火が一気に燃え広がり、赤々と輝きを放つ。
「石油ランプなんぞに取って代わられて……普通だって……!? 石油の臭い光に慣れきって、行灯のあたたかさを知らないって……! ちゃらちゃらした西洋かぶれの小娘が、それでいいと思ってるのかい!?」
女が行灯をふりかざして娘に叩きつけようとしたが、彼女はふわっと後方に跳ね飛んで行灯を避ける。
「いいも悪いも、それが時代の流れだもの。それよりもね、行灯の使い方間違ってないかしら、行灯夜叉さん!」
「小癪な……」
行灯の中の炎がぶわりと膨れ上がると、女の青白い顔の周りにいくつもの鬼火が生まれ、ゆらゆらと恨めしげに揺れた。
娘はとっさに外套の中に手を入れると、腰から何かを取り出す。
その手にあるのは、小さな紙片だ。
「<珞>!」
冷えて張り詰めた夜の銀座に、凛とした声が通る。
娘が手にした紙片にふっと息を吹きかけると、それが分裂して、たちまち光り輝く蛇たちの姿に変化した。
「白蛇の式神……。おまえ……陰陽師か!」
「陰祀庁特務執行官、陰陽師・時雨澪。いいこと? 『しぐれ』じゃなくて『ときさめ』よ。覚えてね」
長い外套の裾を払って澪が名乗ると、妖は薄い唇をワナワナと震わせる。
「……そのナリで陰陽師!?」
「ああ、これ? 制服ですし」
外套に大半が隠されているとはいえ、裾から覗く澪の装いはフリルやレースが多めで、この時代における洋装の極みと言える。
白蛇式神の噛みつき攻撃をよけながらも、妖――行灯夜叉はまじまじと澪の服装を眺め、嘆いた。
「制服、だと? そのみっともない姿を制服と呼ぶのかい……! 行灯どころか着物まで捨てて……尻が重くて転ぶぞ!」
文字通り鬼の形相で叫び、飛びかかってくる小さな白蛇たちに鬼火をぶつけた。
行灯に弾かれた<珞>は水しぶきを上げて鬼火の勢いを弱めていく。
「可愛らしいと言って!」
澪が手で印を切ると、四散した水しぶきが何体もの白蛇の姿に戻り、行灯の火に体当たりを食らわせたり、行灯夜叉の足や首に絡みついたりして身動きを封じようと攻撃し始めた。
行灯夜叉は鬼火を操って白蛇を追い払おうとするが、その間も澪は式札に息を吹きかけ、次々と新たな<珞>を呼び出しては行灯夜叉にけしかけていく。
「生意気な――!」
「無駄よ、水と火は陰陽五行の相剋関係だからね! 水は火に勝つものよ」
鬼火と白蛇の式神の水幕とがぶつかり合うと、ガス灯の橙色の光がその霧を照らし、細かな水粒が光を散らして淡い金色の霞となった。
煉瓦の路面に落ちた水滴が鈍く光り、白い水蒸気がゆっくりと広がって視界を曇らせていく。霧越しに見える妖の輪郭は歪み、鬼火の青がぼんやりと滲んで揺れた。
「<珞>、そのまま消しちゃって!」
「蛇どもがァ――!」
弱々しくなった鬼火に、蛇の体当たりで派手に水しぶきが飛ぶ。このまま鎮火して終わりかと思いきや、妖は暗黒の空に向かって哄笑した。
「この程度でアタシを倒せるとでも思ってるのかい!」
ガラスが砕ける音がして、通りに設置されたすべてのガス灯の火が消えた。明るかった煉瓦街は一転、月明かりさえ届かない闇に沈む。
すると、行灯夜叉の周りに浮いていた鬼火がふたたび燃え盛り、澪の頬を青白く照らし出した。
鬼火の周りに集まった白蛇は水蒸気となったが、そのまま弾き飛ばされて跡形もなく消えてしまい、式札の切れ端だけがひらひらと舞い落ちる。
「ガス灯の火を取り込んで、金の気まで帯びてる……。しかも、陰火を吸いすぎて逆に陽化してるんだ。これじゃ水では押し返せない……」
じっと行灯夜叉の燃え盛る火を見つめていた澪は、二枚の式札を取り出し、息を吹きかけて手のひらからそれを飛ばした。
式札は白いたくさんの蛇と、獣をかたどった真っ黒な影に様変わりする。
「<珞>は鬼火を鎮圧、<牙>は妖の核を断って!」
「そのような木っ端式神など、いくら呼ぼうとも無駄だ!」
行灯夜叉はひしゃげた顔で嗤うと、行灯を振り回し、鬼火を雨あられと式神たちにぶつけ始めた。
獣の影は低く身を沈めて行灯夜叉に走り寄ると、胸元に飛びかかっていく。そこに妖の核となるものが埋まっているのだろう。
<珞>が援護して火勢を弱めるが、勢いを増した鬼火は水幕をすり抜けて次々と<牙>を襲う。
だが、澪は端麗な顔に微笑を浮かべていた。
「うちの<牙>が木っ端かどうか、確かめてから言ってね。その子は木と金の相を持ってるの。木っ端どころか、あんたの火を食わせたら、外側の木が先に反応して伸びるわよ。金まで燃やせるほど、あんたの火は強くないわ。たしか木生火って言うんだったっけ?」
鬼火をその身に受けながらも、<牙>は鋭い爪を立てて行灯夜叉の喉元に食らいついた。
「山犬風情が……! 愚かな陰陽師だな! 火剋金――アタシの火は山犬の金に打ち勝つんだよ! 食らうがいい、幽焔百火夜行!」
行灯夜叉の目の炎が青く燃え盛り、手にした行灯の炎が猛火となって無数の鬼火の雨を降らせる。
白蛇の水幕が打ち消しにかかるが、圧倒的な火勢の前に気化してしまい、妖本体に噛みついている<牙>を物理的に吹き飛ばした。
そして――澪の死角から鬼火が彼女を襲う。
咄嗟に印を切ろうとするも、<珞>は消滅しており、ただただ無防備な人間の少女が立ち尽くすだけだ。
「しまった――」
式神を維持する集中力を切らしたせいで、火に耐える<牙>も紙切れに戻ってしまった。
妖の放った鬼火は陰火と呼ばれ、熱を与えるのではなく奪うものだ。もし生身でそれに触れれば、心の熱がじわじわと奪われ、感情が凍りついてしまう。
「……!」
思わず目を閉じそうになった瞬間だった。
彼女の首まわりを覆っていた白い毛皮が外れ、ふわふわの毛で襲い来る鬼火を弾き飛ばしていた。




