第十三話 禁断の名は――恋
斎宮夕奈と篠宮柊弥の婚約披露が、こんなに苦しいものだとは思わなかった。
斎宮家は元神祇伯という歴史ある家柄だが、鹿鳴館外交の終焉以降、欧化政策の反動で社交・経済負担が増大し、先細る一方の家だ。
旧藩主である朝比奈家から蒼真を婿に取り、どうにか長らえているのが現状である。
その娘である夕奈も、伯爵家の三男を婿に取って、消えかけている華族としての地位にかろうじて縋りついているという体たらくだ。
だが、自分は違う。鳳月侯爵である父は外務大臣次官として、この大日本帝国の中枢に深く関わる数少ない人物だ。
その一人娘である朱音自身、多くの人々にかしずかれ、異国で頭角を現している財閥御曹司と結ばれ、やがては華やかな社交界の中心に立つことになっている。
今にも消えそうな家名の火を、細々と燃やし続ける没落貴族ではない。
だというのに、夕奈と柊弥の幸せそうな笑顔が癪に障って仕方がなかった。
篠宮伯爵は、帝国議会貴族院議員で、温厚な性格をした礼節を重んじる人物だ。
その三男である柊弥も穏やかな青年で、現在は帝大四年生だが、来春の卒業後は司法官試補として任官予定になっている。
幼なじみという信頼感もさることながら、ふたりが目を見交わす様子は、如何にも相思相愛であることを知らしめていた。
その様子を見て、胸の中がどす黒い何かに覆われる気がした。
朱音の婚約者は十七歳も年上で、朱音よりも両親の方が年が近い。一度たりとも直接会ったことはなく、写真は無表情で冷たい印象だった。
政略結婚であることは誰の目にも明らかで、夕奈のように安心して心を預けられる相手ではなかった。
(ウラメシイ……)
そんな思いが胸郭に膨れ上がり、居たたまれなくなって舞踏室から飛び出した。
どうして侯爵令嬢たる自分が、こんな惨めな思いをしなくてはならないのか、たかが子爵家の娘ごときに醜い嫉妬を抱かなくてはいけないのか、何もかもが受け入れ難い。
同時に、こんな下品な感情を抱くことが家名に恥じる気がしてやりきれなかった。
あの『禁断の焔』に登場した書生のように、令嬢だけを心の奥底に秘め、手に手を取ってくれる男性がいたら――。
それを考えると、桐草明夜の顔が思い浮かぶ。分厚い眼鏡をかけた抜け作ではなく、強い目力を具えた鋭い面差しの彼の顔が。
階段から落ちた時に助けてくれた彼の姿が、脳裏に焼きついて離れない。でも、婚約者以外の男性に心を寄せるなんて、こんな不品行なことは許されない。
(クルシイ……とても……)
気がつけば庭園奥にある池の前までやってきていた。
木陰に佇んで水面に映る満月を見つめていた朱音の手には、一冊の書物があった。
自宅の部屋の奥に厳重に隠しておいたはずの恋愛小説『禁断の焔』だ。
しかし、朱音はそれを疑問に思うこともなく、頁をめくり始める。
この書を図書室から持ち帰って以来、毎晩のように布団の中でこっそり読んだ。どうしたって作中の令嬢は朱音自身のことにしか思えないし、書生は桐草明夜の顔と重なる。
彼の低く甘みのある声が、やわらかな音色で英語を流暢に奏で、それを聞きながらうっとりする英語の授業は、至福の時間だった。
「ああ……」
目の前の景色が涙で滲む。どうして心ひとつで、こんなにも身体が張り裂けそうな感覚が起きるのだろう……。
そのとき、背後の林の中から男女の声が聞こえてきた。男は静かだったが、女の声がにぎやかに夜の闇の中に響いている。
こんなところで逢引をしている者がいるのだろうか。
朱音は『禁断の焔』を胸の前に抱きしめたまま、そっと声のする方へと向かった。
彼らの方に近づくにつれ、朱音の表情は次第に剣呑になっていく。その女の声が、朱音が忌み嫌う時雨澪のものだったからだ。
彼女は華族の家に引き取られただけの平民だ。だからこそ、こんな格式ある場所で逢引などという下賤な真似をするのだろう。
納得したし、嘲りの気持ちが大きい。
あの生意気な平民も、家に篠宮伯爵家の三男が婿入りしてきたら、居場所を失くして追い出されるであろうことは目に見えている。
なんて惨めで、かわいそうな末路なのだろう!
でも、分不相応という事実をわきまえるべきなのだ。
もしここで許しがたい行為をしていたのなら、華族の名誉を汚す者として告発しなくてはならない。
そして、不行跡な娘を養ってきた斎宮家も、澪を追放しなければ体面が保てなくなるだろう。
華族の一員として、正しい行いをするのだ。
そうして木陰を縫って澪の声を辿った朱音だったが、そこに見た光景で、目の前が真っ赤に染まった気がした。
澪が言葉を交わしているのは――。
「桐草、先生……?」
黒い羽織に袴という姿は、士族の男性の礼装だ。だが、そこに白い詰襟シャツに革の編み上げ靴を組み合わせた途端、ひどくハイカラな出で立ちになった。
洗練されていて、どこか危険な雰囲気を帯びた桐草は、あまりに美しくて。
いつも学校で見せている、つんつるてんのお下がり背広姿が嘘のようだし、あの姿の桐草を見て「どんくさ先生」と呼ぶ人はいないだろう。
なにより、彼の抜け作ぶりを強調していた眼鏡がなく、朱音しか見たことがない、あの鋭い素顔をさらけ出していたのだ。
よりにもよって、澪の前で。
「嘘よ……」
自分でも理解しがたい感情が次々に沸き起こり、頭の中が真っ白になった。
ふらふらと木陰からまろび出て狂おしい目で桐草を見つめ、同時に澪に対して怨嗟のこもった視線を向けた。
ふたりが朱音に気づき、ハッと表情を引き締める。
羽織袴の桐草と上品な振袖に身を包んだ澪は、ひどく似合いの一対のようだった。
「どうして……」
胸の奥に満ち満ちてくる、焔の熱。息が苦しくなって、吐き出さずにはいられない。
澪の手が、無意識に桐草の袖を掴んだ瞬間、朱音の内側に押し込められていた感情が一気に爆発した。
「どうしておまえがそこにいるの……!?」
桐草の横に。
どれだけ願っても叶わない、その隣に。
たちまち視界が赤く染まり、胸の内に秘めた焔が弾けた。




