第十一話 振袖は走れない
その週の土曜日、華族会館に於いて篠宮伯爵家と斎宮子爵家の婚約発表の夜会が、大々的に催された。
両家だけではなく、帝都に名を連ねる華族の面々が参列し、大広間は早くも華やいだ空気に包まれていた。
白漆喰の天井には金の縁取りがされ、きらびやかなシャンデリアがいくつも釣られている。会場全体が柔らかな蝋燭の灯りと電灯の淡い光に包まれ、遠くから弦楽四重奏の調べが静かに流れていた。
そこに集った紳士淑女は、上品に談笑したり扇子を優雅に振ったりしながら、グラスを傾けている。
朱音も両親と一緒に挨拶して回っていて、さすが侯爵令嬢と思わせる貫禄を見せていた。今のところ、学校にいるときのような重苦しい気配はまとっていなかった。
(今日は大丈夫そう……。やっぱり学校の鏡に何かがあるのかな……)
依然として朱音を取り巻く妖気の正体はつかめていないが、今のところ変わった様子はなさそうだ。
しかし、あらためて舞踏室内を眺めて嘆息する。ここに来るのは初めてではないが、やはり斎宮の実子ではない澪はどうしても気後れしてしまうのだ。
澪に用意された薄青の振袖は、子爵家の娘としての品位を十分に保っている。斎宮が澪を実子と同等に扱ってくれているおかげで、周囲の華族たちもやはり華族の娘として遇してくれる。
それでも、根本的に相容れない部分がある。
きっとこの言葉にしがたい違和感こそが、朱音が澪を毛嫌いする理由なのだろう。
それを卑下するつもりは毛頭ない。澪とて、この先もずっと華族として過ごすつもりはない。斎宮家から嫁ぐことはないし、そもそも嫁に行く気などないのだから。
(でも、なんだろう。このもやもやした感じ……)
これまでにも、ふと違和感を覚える場面はあったが、この夜会でさらにそれが悪化した気がするのだ。
その根源は、やはり生まれにあるのかもしれない。
澪の両親はともに早世している。
時雨家は土御門家の傍流で、祖父の代までは陰陽寮に所属していた。いわば生粋の陰陽師の家系だったが、明治三年の陰陽寮廃止によって、その伝統は途絶えたかに見えた。 しかし、父・玄道は祖父から陰陽師としての知識と技術を受け継ぎ、民間陰陽師として生き続けていた。
その玄道は二十歳のときに徴兵、奥多摩へ配属されたが、そこで足に重傷を負い、除隊を余儀なくされた。
怪我をした玄道の世話をしてくれたのが、奥多摩の山間に住む千鶴だった。二人は結婚し、やがて澪が生まれた。
だが、千鶴は澪を産んだ後、産褥熱で亡くなったと聞いている。
玄道は妻の忘れ形見である澪をたいそう可愛がってくれたが、澪が五つの頃、やはり亡くなった。
――妖に殺されたのだ。
その惨劇の現場に澪もいたはずなのに、幼かったせいか、何があったのかはまったく記憶にない。気がついたときには、深い雪の中で白蓮に包まれて呆然としていた。
ただひとつだけ覚えているのは、無限に広がる真っ白な景色だ。
そして、それを助けてくれたのが斎宮蒼真。
蒼真と玄道は帝都の私塾で机を並べて学んだ仲らしく、両親を失った澪を蒼真が引き取り、斎宮家の娘として育ててくれた――今に至るまで。
これら過去の出来事も蒼真から聞かされた内容に過ぎないが、本来なら自分はこの場にいるはずもない身の上だ。
夕奈と柊弥の縁談は心の底から祝福しているが、そこに少し引っ掛かりがある。
柊弥は伯爵家の三男で、斎宮子爵家の次期当主となるべく婿入りしてくる。つまり、次の春から麹町の斎宮家で過ごすことになる。
斎宮夫妻は澪に「いつまでもこの家にいていい」と言ってくれる。夕奈もそう言うし、柊弥もそれは同じだ。
みんなが表面を取り繕ってくれるし、本心でそう言っているのかもしれないが、それを是としないのが澪自身なのだ。
姉妹同然とはいえ、血のつながりのない夕奈とその婿が暮らしている家で、どの立場で過ごせばいいのだろう。
この日のために夕奈が必死に稽古してきたピアノが、会場にやさしく響く。その傍らでは、婚約者の柊弥が穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。
柊弥は澪にとっても幼なじみだが、しばらく会わないうちに二十歳の青年らしい精悍を帯びていた。燕尾服を着ているところは今日初めて見たが、彼の大人への唐突な変化も、澪が違和感を抱えるきっかけになっているのかもしれない。
それを遠くに眺めながら、苦笑を漏らしかけたときだ。澪の近くで扇子をぴしゃりと閉じる音が聞こえた。
様子は見ていなかったが、苛立ち紛れであったことは音からわかる。
『澪』
姿を消している白蓮が、忠告するように澪の注意を引く。
はっとそちらに目を向けると、濃紅に瑠璃を差した華やかな振袖が視界に飛び込んできた。朱音だ。
澪に向かって苛立ちを表明したわけではないようで、彼女の視線はずっと夕奈と柊弥の上に留まっている。
しかし、なぜ朱音がふたりにそんな苛立ちを向けるのだろう。
(朱音さまが柊弥さんに懸想してた……とか? まさかねえ……)
鳳月家と篠宮家は同じ華族ではあっても、政治的にも立場的にもさほど接点がない。格下の家柄である篠宮家の三男に、朱音が興味を持つことはないだろう。
その朱音は、ぷいっとふたりの上から視線を外すと、舞踏室を出て行ってしまった。かすかな妖気の残滓を残して。
(さっき会ったときは感じなかったのに……)
『澪よ、鳳月の娘は、妖に憑かれているわけではなく、単なる妖気の媒介ではないのか? 本体はあの娘の近くにあるはずだ。これまでより妖気が強くなってる』
白蓮の言葉にうなずきながら、澪も人々をかきわけてその後を追う。
二階の舞踏室から階段を下りて庭園に出ると、ガス灯の淡い橙色の光が芝生の広場をぼんやりと照らしていた。
小径の石畳は雨上がりで湿り気を帯びて、足音を柔らかく吸い込む。噴水の水盤からは、細い水音が絶え間なく響き、水面に映る灯火がゆらゆらと揺れていた。
「朱音さま?」
「澪、向こうだ」
子狐の姿を現した白蓮が指し示す木立の向こうに、朱音の華やかな濃紅が消えるのが見えた。
澪もそれを追いかけようとしたのだが、朱音の後をつけるように黒い影が蠢いているのを見て、思わず足を止めていた。
その人影は背が高くて、男性なのは間違いなさそうだ。招待客の可能性もあるが、服装に違和感がある。羽織に袴という姿だったのだ。
鹿鳴館が廃れて以降、女性は和装に戻りつつあったが、男性は洋装が定着していたし、今日のような若い華族の集まりでは燕尾服が一般的だ。
事実、澪が見た限り、今日の男性招待客は全員が洋装だった。明らかに怪しい。
「ああっ、もうっ。振袖じゃ走れない! 白蓮、あいつ止めて!」
「おまえも急げよ」
白蓮がそう言って颯爽と走り出すと同時に、澪の手には霊銃『銀月』が握られていた。
旧式とはいえ、日本軍が使用している本物のスミス拳銃だ。十八歳の女学生が持ち歩くには大きすぎるし、そもそも物騒すぎる。
そのため、普段は白蓮が霊域に置いていて、必要なときだけ澪の手にもたらしてくれるのだ。
みたらし団子好きな煩悩まみれの白狐だが、腐っても狐だ。本気で走れば人間などあっという間に追い越してしまう。
成狐の大きさに変化した白蓮の後姿はたちまち小さくなり、朱音を尾行する羽織の男の前に立ちふさがっていた。白蓮に任せておけば大丈夫だろう。
しかし、革の編み上げ靴に慣れた今、草履の不便さには辟易する。
派手すぎるとはいえ、華乃が西洋ドレスを制服にしてくれたのは、正しい判断だったようだ。




