始まり
私は、無心にキーボードに文字を打ち込む。今日もシンとした私の仕事場。私を慰めに来る同僚も、友人もいない。ただ、仕事をこなすだけ。退屈な給料の良い仕事。
私は、つい一週間前の初夏、父を亡くした。
突然だった。実家に帰省して三日後、父はいきなり心筋梗塞を起こして亡くなったのだ。59歳だった。私は葬儀に参加した。母は既に他界し、たった一人残った家族である姉と伯父に叔母。従兄弟などの親戚が集まった葬儀は、表だけのものだった。本当に悲しんでいるのは、私と姉、父の実の兄である伯父だけ。そんなものを見てしまったから、私の心は空虚だった。26歳にして、超エリート企業の役員。世間は私を幸福な人間だと言うだろう。でも、その立場になったら違うだろう。ようやくここまで上り詰めたと思ったら、すぐに退屈さが沸き上がってくる。部下たちの報告書を確認して、それに印を押して社長に通すだけ。それで高い給料をもらえるんだから得だとは思うが、職場の人間関係が悪いのだ。そんなことを考えながらひたすらに年上の部下の報告書を修正していると、突然スマホが音を立てた。驚いて画面を見ると、『お姉ちゃん』の文字が。私は慌てて廊下に出ると、通話ボタンを押す。
<もしもし。どうしたの?>
私が訊くと、姉の申し訳なさそうな声が返ってきた。
<ごめんね、那古。仕事中だよね?>
<あー、気にしないで。どうせ退屈だから。息抜きがしたかったんだ>
私が苦笑しながらそう言うと、姉は今度は困ったような声を出した。
<あのね、今、お父さんの所有してる馬の厩舎にいるの。それでね、調教師さんが那古に早く来いって言ってて。今から来れる?>
<え?どういうこと?何で調教師さん?>
私が困惑していると、姉が答える。
<とにかく来て欲しいんだ。電話だと話しづらくて>
<分かった。どこの厩舎?>
<風間厩舎。栗東なんだけど、来れる?>
風間厩舎。私が通話をしながらスマホで調べると、実家の近くでかなり遠いことが分かった。今日は半休かな。
<今から準備して行く。調教師さんに言っておいて>
私はそう言って通話を切り、ビルの6階にある社長室へエレベーターで向かう。重厚な木の扉を前にして怖じ気付く社員も多々いるが、私の会社の中での心は完全に乾ききっているため、何も感じない。私は無心に扉をノックし、入室の許可をされるとこちら側に引いた。
「失礼致します。お話ししたいことがあるのですが」
この会社の女性社長は、ふわりと微笑んだ。
「ええ、分かったわ。そこに座って」
わたしは社長の言葉に甘えて「そこ」と表された質の良いソファーに腰かける。半休を取ることを伝えに来ただけだから、別に立ちっぱなしでも気にならないけど。
「それで?何の話かしら?」
「はい。本日、昼の少し前から半休を取りたいと思っているのですが、許可して頂けますでしょうか」
私が淡々と続けると、社長は困惑したような顔をする。
「どうしたの?今まで半休なんて取ったこともないのに」
もういい。洗いざらい話してしまおう。
「はい。姉から連絡が入りまして。急用があるため、早く来てほしいと」
「そう。それなら良いわ。お姉さんを待たせてはいけないから、こんなところで油を売ってないで早く帰りなさい。あなたの部下たちには私から話をしておくわ」
社長の言葉に、私はホッと胸を撫で下ろし、「失礼します」と言って社長室を出た。




