霧晶石
翌日の朝。カイルは装備を整えて、早速いつものルートで森に入った。
ネマの注文はそこまで難しくはなかった。
「……霧の森には、常に冷気を放つ鉱石があるの。名前は『霧晶石』っていうんだけど、それがあの土地全体を冷やして、湿気を霧に変えてる。うまくいけば、空気中の水分を凝結させられるかも」
要は、やたら冷たい石を探してくればいいわけだ。いつも森全体を霧が覆っていることを考えれば、きっとその霧晶石とやらも、そこらじゅうにあるだろう。
その中でもカイルが目をつけていたのは、いつか光苔を見つけたあの泉だった。ネマの話では、純度の高い霧晶石ほど、高い冷却力がある。だとすれば、あの森の奥の泉の凍りそうな冷たさ、周囲の冬のような寒さは、大いに期待ができる。
まっすぐ向かうと、太陽が高く登る前には泉の近くについた。水の中を覗き込むと、大小様々な石が底に沈んでいる。
とりあえず手を突っ込んで石をいくつか取り出してみた。とにかく冷たい。何回か繰り返し、石を山盛りに積み上げると、しばらく休んで、かじかんだ手を温める。
それから積み上げた白や黒の丸っこい石を、一つ一つ触りながら確かめてみるが、どれもしっかり冷えていて、どれが目当ての石かわからない。
「ネマに見分け方を教わっておいて良かったよ、本当に」
カイルはひとりごちた。罠の近くに人の痕跡を残したくなかったので、石を布で包んで下流までしばらく歩き、火を起こす。
「おお……生き返る」
ぱちぱちと鳴りながら、優しい光と熱を発する焚火にあたると、縮こまった身体が優しくほぐされていくような気がする。薪は全て持参したものだ。霧の森の木や枝は、全て露で濡れていて、使い物にならない。
火が安定すると、カイルはさっそくいくつか石を取り出し、火に投げ込んだ。これがネマに教わった判別法だ。火に入れて、しばらく待つ。まだ冷たければ、それが霧晶石。
しっかり待ってから、木の棒で石を手繰り寄せて確認してみる。だが、手でつかんでみれば、しっかり温まっている。というか、熱いくらいだ。
「……これは普通の石か」
次のも、またその次も、熱いからぬるいの間の感触だった。もしかしたら、ぬるい方が霧晶石なのだろうか……と思い始めたとき、ついにそれを見つけた。
小さく光を反射したそれは、他と少しだけ違っていた。じっくり火の中で焼かれていたにもかかわらず、まるで氷のような冷たさを保っている。
「……おお?」
慎重に取り上げて、火の明かりにかざすと、少し透けて見えた。中に水晶や空洞がある石は、火にかざすと透けて見える。この石の中にも、きっと透明な何かがあるのだろう。
「これか……!」
カイルは目を細めて、石を何度も確かめた。念のため、もう一度火に放り込んだが、再び取り出しても、相変わらず冷たいままだった。
積み上げた石をすべて試し、同じ反応を示したものを三つ見つけた。
布に包んで袋にしまいながら、カイルは空を見上げる。霧は薄くなり、昼の陽射しが木々の間に差し込んでいた。
「さて、帰るか。足りなければ、また取りに来ればいいし……」
カイルは立ち上がり、袋を背負うと、来た道を戻り始めた。草の露を踏みしめる音が、帰りは少し心地よく感じられた。
⸻
工房の扉を開けると、ネマは調合机の上に見慣れない器具を並べて待っていた。
「おかえり。……どうだった」
ネマが駆け寄ってくると、カイルは得意げに袋を差し出した。
「森の奥の泉に沈んでたよ。今回はとりあえず三つだけ持ってきたけど、しっかり探せばもっと採れると思う」
ネマはそっと袋を受け取り、中の石を取り出そうとした。
「つめたっ」
慌てて手を引っ込める。
「ああ、冷たいから気をつけて」
カイルが伝えると、ネマは恨めしげにカイルを見た。
ネマは手袋をして、改めて石を取り出すと、光に透かしたり、小さな拡大鏡で表面を観察したりしている。一通り観察を終えると、棚から液体が入った瓶を取り出して、何か準備を始める。
カイルが部屋を出ようとすると、ネマが後ろから呼び止めた。
「ちょっと待ってて。手伝って欲しいことがあるから」
ネマがそう言って、ガラス製の容器の中に霧晶石を入れ、瓶の中の液体を垂らすと、じゅ、と泡が立って石が溶け始めた。
「いいけど……溶かしちゃうの?」
ネマは煙を上げる石から目を逸らさずに答えた。
「溶かすのは、外側に付いてる石だけ」
しばらく待つと、しゅわしゅわという音が落ち着き、光る透明な石が残った。
ネマはピンセットで石を掴むと、ビーカーに張った水に潜らせ、傍らに置いていた布で拭き取った。そのまま手袋で摘んで、カイルの前に差し出す。
水を切った透明な石は、まるで氷のようだった。だが、手に持っても溶けることはない。透き通った内側は、ほのかに青く色づいている。
「きれいだ……」
カイルがつぶやくと、ネマはもう片手にいつのまにか持っていたハンマーを無言でカイルに差し出した。カイルは戸惑って聞く。
「え? ……どうするの?」
ネマはカイルにハンマーを押し付けながら、平然と答えた。
「一つしかないでしょ」
霧晶石を布の袋に入れ、硬い金属板の上に置いた。躊躇するカイルを、ネマはじっと見つめた。
──やれ。
沈黙からその言葉を読み取ったカイルは、覚悟を決め、思い切りハンマーを振り下ろした。
⸻
その後もカイルはネマの指示に従い、何度もハンマーを振り下ろした。ときおりネマが袋の外側から触り、粒の大きさを確認する。
それを何回か繰り返し、袋の中身をビーカーに開けると、粉々になった霧晶石が、きらきらとランプの光を反射した。これはこれできれいだな、とカイルは思った。
それよりも二人が驚いたのは、粒をビーカーに開けるときに感じた冷気だった。明らかに、塊だったときより強くなっている。季節は既に夏に入っているのに、工房の一角だけ冬のようだった。
ネマは慎重にビーカーの中の粒を検分しながら言った。
「まだ足りない。もっと細かく挽かないと」
ネマはそう言って、臼のような器具を取り出して、中に霧晶石だったものを注ぐと、カイルを見て、にっこり笑った。
──もう一仕事だよ。
カイルは寒さに凍えながらも、その器具の取っ手を回し続けた。
⸻
「うー、さむい」
ぶるぶると震えながら調合部屋を出ると、カイルはすぐに火を起こし、鍋に水を入れた。──今日は温かいスープだ。異論は認めない。
湯を沸かしていると、じきに鍋から湯気が立ち上る。その暖かさは、霧晶石の冷気とはまるで別の魔法のように思えた。
ネマはあれから調合部屋に籠ったままだ。温かいスープを持っていってやりたいが、繊細な作業を邪魔したくはない。カイルは先に食事をして、ネマが出てくるのを気長に待つことにした。
温かいスープを食べ終え、カイルは椅子に寄りかかったまま、道具の手入れや罠作りをしていた。
「……長くないか?」
日がすっかり傾き始めている。もう三時間以上、ネマは調合部屋から出てこない。
「さすがにそろそろ様子見た方が……」
立ち上がって扉の方へ向かいかけたそのとき。
──ぎぃぃ……
ゆっくりと調合部屋の扉が開いた。扉の隙間から、もわりと冷たい霧が這うように流れ出し、カイルの足元に絡みついた。
「……さむ……い……」
白い息とともに、ネマがふらふらと現れた。
その姿を見て、カイルは思わず笑ってしまった。
「……なにその格好」
ネマは髪にまで霜をまとい、頬は白くなって、肩には薄く氷が張っていた。手には記録用のペンとノートを握ったままで、足取りは頼りない。
ネマはよたよたとカイルの元に向かい、いきおい倒れ込んだ。カイルは文句を言うより先に、ネマの身体の死体のような冷たさと硬さにゾッとした。
「……待ってて、スープ持ってくるから」
カイルは暖炉の前までネマを運んで急いで火をつけ直すと、毛布で厳重に包み、スープを温め直して戻った。そのままスプーンを口に運ぶ。
ネマは少しだけ不服そうな目をしたが、諦めて口を開けた。
⸻
落ち着いて話せるようになると、ネマは調合の結果について、ぽつりぽつりと語り始めた。
目的のものは調合できたこと。フラスコ内の実験で霧が作れたこと。最後に部屋全体で実験したが、霧はできなかったこと。
「──部屋全体で実験なんて、いきなりそんな無茶するなよ。心配したんだぞ」
ごめん、と短くネマは言った。なんとなく、カイルはそれ以上追求できず、話題を変える。
「でもさ、部屋の実験って成功じゃなかったの? 部屋から霧、出てきてたよ」
「……うそ」
ネマは信じがたいといった顔で言った。
「本当だよ。あの森みたいに、白い霧が漏れてた。……ほら」
カイルは調合部屋の方を見ると、ドアの隙間からわずかに白いもやがたなびいている。
「……もしかして」
ネマは椅子に置いたノートを取り上げ、ぱらぱらとページをめくる。先ほどまで青ざめていた顔に、じわりと熱が戻り始めていた。
「条件、間違ってたかも。温度じゃなくて、温度差か……」
カイルが何か言いかけたが、ネマは小さく首を振った。今、頭の中でいろんなことが繋がり始めているようだった。