決意の朝
翌日の朝。昨晩から続いた細い雨が止み、町外れの空気は草いきれと濡れ土の匂いを孕んでいる。けれど工房の窓は閉ざされたまま、空気はひんやりと澱んでいた。
作業台に立つネマは、昨日までの彼女とはどこか違う。背筋は伸び、視線はまっすぐ器具の先を捉えている。棚から素材を取り出す手に、迷いはない。乾燥させた薬草、砕いた鉱粉、透明な溶媒。どこの工房にもある、ごくありふれた素材。
しかし、それをどう扱うかは、錬金術師の腕次第。
釜に火が入る。炉が小さく唸り、空気がわずかに温まる。
ネマは静かに息を吸い、最初の素材を釜に落とした。
彼女が改めて「商品」に選んだのは、旅人や狩人なら誰もが必要とする三つの薬だった。傷を癒す治癒ポーション。魔力を補うマナポーション。そして、体力を増強する活力ポーション。
無駄のない動作で薬草を刻み、粉を量り、釜に投じる。計量も加熱も、何一つ迷いがなかった。蒸気の揺らぎや、気泡の大きさ、香りの変化を頼りに、次にすべき工程を選んでいく。
治癒ポーションが、深紅の液体となって瓶に収まる。
マナポーションは、淡い青の中に金色の粒子が静かに揺れている。
活力ポーションは、柔らかな琥珀色のとろみに、わずかな光を帯びている。
三本の瓶が静かに並ぶ。いずれも狙い通りの色と濃度、そして匂い。
ネマは出来栄えを確認すると、しばらくじっと立ち尽くしていた。目立った表情の変化はないが、唇の端がごくわずかに緩み、指先が瓶の縁をそっと撫でた。
その三本のポーションには、彼女の決意が込められていた。
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ネマが作業部屋から出るとき、ちょうど起きてきたカイルと鉢合わせた。カイルは幽霊でも見たように、ネマをまじまじと見つめる。
「おはよう……起きてたんだ」
そう言ってカイルはネマの手元に目をやり、木製のポーション台に並べた三本の薬瓶を認めると、ぼんやりつぶやいた。
「もう……作ったんだ」
寝起きで頭が回っていないのか、カイルの言葉はいつもよりゆっくりだった。
ネマはいつもと逆の立場に、少し面白みを感じながら言った。
「サラの店以外で、買ってくれるところを探す」
カイルは状況まだ飲み込めていないようで、数秒そのまま立ち尽くしていた。
そのとき、大きな腹の音。
素知らぬ顔をしているが、明らかに音はネマの方からだった。カイルは顔をほころばせて言った。
「……とりあえず、ご飯にしようか」
野菜と乾燥肉をパンで挟んだ簡単な食事を済ませる間、ネマとカイルは作戦会議をした。今回は昨日と違って、知らない相手に売り込むことになる。どのような言葉でアピールするか、相手の疑問や質問にどう答えるか、事前に相談しておく。
朝食を終え、カイルが皿を片付ける間、ネマはポーションを布に包み直し、肩掛けの鞄に収めた。カイルが支度を終えるやいなや、勢いよくドアを開けて外に出た。
外は昨日とは一転して、曇りのない青空。町外れの道を照らす朝日が、濡れた石畳をまだらに光らせている。梢に残った雨粒が風に揺れ、葉の先からぽつり、ぽつりと落ちては、小さく光を跳ね返していた。地面にはまだ湿り気が残っており、土と草の匂いが春の冷気とともに鼻をくすぐる。
小道に出たとき、ネマはほんの一瞬だけ、工房を振り返った。だが何も言わず、そのまま歩き出す。
彼女の肩には、布に包んだ三本のポーションを納めた鞄。歩くたび、瓶同士がわずかに触れ合い、控えめな音を立てる。
市場へ向かう道は、何度も通い慣れたはずのものだ。それが今日は、やけに違って見える。少ししてカイルは、ネマの後ろをついていくのは初めてだな、と気付いた。
市場の喧騒が、遠くから風に乗って聞こえてくる。荷車の車輪が石畳をきしませ、商人たちの声が高く響く。まだ朝のうちだというのに、通りは既ににぎわいを見せていた。
今日は、いつもの雑貨屋には向かわない。
ネマが言ったように、今回は「知らない誰か」に売らなければならないのだ。
露店の軒が並び始めたところで、二人は立ち止まる。
たくさんの店。行き交う人々。所狭しと並べられた、物、物、物。
カイルが目移りしながら、どの店に声をかけるべきか探っていると、ふとネマが歩き出した。ネマが向かったのは一番近く、感じの良さそうな若い行商人の店だった。
最初の交渉が、始まろうとしていた。
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その行商人の店では、干し薬草や野外用の塗り薬、旅人向けの手軽な食料を並べていた。木箱を積み上げただけの即席の台に、商品が所狭しと置かれている。店主の青年は、気さくそうな顔立ちで、ちょうど隣の客と値段交渉をしているところだった。
ネマは一番端に並べられた乾燥薬草の束を手に取った。葉の色や香りを確かめた後、小さくうなずく。
「これ、ひと束ください」
銅貨を渡し、品物を受け取る。簡単な礼を交わしたあと、ほんの間をおいてから、鞄を開いた。
「あの、私たち、小さな工房で薬を作っていて、仕入れてくれるお店を探しているんです」
青年は一瞬手を止め、瓶に目をやった。淡い青に金の粒子が揺れるマナポーション。光の加減で、瓶の中が微かに輝いて見える。
「へえ! きれいだね。こちらはお兄さんが?」
青年は後ろのカイルをちらりと見ていった。カイルは首を振って答えた。
「この子が作ったんだ。俺は付き添い」
青年は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに愛想良い笑顔で言った。
「へえ、それはすごい! 見た感じ、上等なマナポーションって感じがするよ。ほら、日に透かしても沈殿がほとんど見えない」
それを聞いて、ネマが一瞬何か言いかけたが、青年は畳み掛けるように言った。
「……でも、ごめんね! こういうのって、うちだと扱いづらいんだ。万が一、何かあったら困るからね」
物腰は柔らかかったが、差し込む隙のない、明確な断りだった。
礼を言って少し離れたところに戻ると、カイルはネマを気遣って言った。
「最初は仕方ないよ。数を稼ぐしかないんだ。……次は、俺が声をかけようか?」
ネマは首を振った。カイルは彼女の目を見て安堵した。断られても全く動揺していない。覚悟を決めた目だ。
その後も二人は、露店を張る行商人や、専門店の道具屋・薬屋に次々と声をかけていった。ネマは口数こそ少なかったが、説明の要点はきちんと押さえていた。用途、効果、成分、保存性――瓶を見せ、ときには試し嗅ぎをするように勧める。けれど、その反応は芳しくなかった。
「ふうん、悪くない色味だが……どこの工房の品?」
「うちは仕入れルートが決まっててね」
「すまないね、知らない品は扱えないんだ」
言葉は丁寧だったが、どこか警戒心がにじんでいた。品質よりも信用。薬である以上、それは当然の話だった。四軒、五軒と回っても、結果は変わらなかった。瓶の中の色は変わらず美しく輝いているのに、それを手に取る者はいなかった。
日が傾き始め、件数を数えるのもやめた頃、ネマは急に踵を返し、無言で市場を後にした。カイルも慌ててネマの跡を追う。
ネマが向かったのは、街の中でも小高くなっている丘の上、街が見下ろせる風見台という丘だった。カイルが少し遅れて追いついたとき、ネマはすでに丘の端に座り、遠く市場の方を見下ろしていた。
わずかな風が吹いていた。草の穂がそよぎ、若草の匂いを運んでくる。
カイルはネマの横に並んだが、すぐには声をかけなかった。風の音だけが二人の間を満たしていた。
やがて、ネマがぽつりと言った。
「売れなかったね」
それは責めでも落胆でもなかった。ただ事実だけを淡々と述べる声だった。それでも、カイルは言い訳めいた言葉を探して口を開いた。
「仕方ないよ。初めてだったし。……名前も知らない工房の薬なんて、誰だって警戒する」
「うん」
ネマは下を向きながら、静かなトーンで答える。
「それでも、良いものを作れば売れるって、どこかで思ってたな」
返す言葉を見つけられず、カイルはしばらくネマと一緒に街を眺めた。
──後ろから草を踏む音がしたのは、風が少し強くなりかけた頃だった。