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壊れたコンパス

深い霧の中にいた。

どこから来たのかも、どこへ向かっていたのかも思い出せない。


足元はぬかるみ、冷えた空気が肌を刺す。

手の中には、錆びついたコンパス。針は止まり、もう北を示すことはない。


──これじゃ、帰れない。


前を見渡しても、後ろを振り返っても、目印なんてない。

足が動かない。息が苦しい。胸が締めつけられる。

まるで、体全体が霧の中に沈んでいくようだった。



「っ──……!」


カイルは、呼吸の乱れとともに飛び起きた。


息が荒い。心臓が速く打っている。

けれど、霧はもうなかった。ここは森ではない。暖かな部屋の中だ。


一晩眠ったことで、体調はだいぶ良くなった。頭も、はっきりしていた。

それでも、悪夢のようなあの日の光景は、胸の中に重しのように残っている。


ふと視線を動かすと、ベッドの縁に、小さな寝息。


ネマが椅子に座り、ベッドに覆い被さるように眠っていた。夜通し付き添ってくれていたのだろう。毛布をそっとたぐり寄せ、彼女の肩にかけてやる。するとネマがわずかに身じろぎしたが、またすぐに穏やかな寝息へと戻った。


カイルはしばらくその寝顔を見つめていた。


——救えたはずだった。


そう信じていた。エリクサーさえあれば、助けられると思っていた。


しかし、それは万能薬などではなく、致命的な毒だった。


だとしたら——次は、何をすれば。


カイルは呆然と宙を見上げた。


目指すべき道標を喪い、情熱も一緒に見失ってしまったような感覚。


そのとき、控えめなノックの音が、扉越しに響いた。


「……入るぞ」


低く抑えた声とともに、扉が開く。入ってきたのは、白衣姿のエリオだった。


「具合はどうだ?」


「……昨日よりは、だいぶ」


エリオはベッドに歩み寄り、すぐ前の椅子に腰掛けた。彼はちらりとネマに目をやり、小さく頷いた。


「『沈黙の錬金術師』とやらも、眠っていればただの少女か」


エリオはネマの寝顔を一瞥し、淡々とそう呟いた。


カイルは、エリオの口からその呼び名が出たことを、少し意外に感じた。


「街の人から聞いた——んですか」


思わず聞きかけて、敬語に修正する。


「話し方は、好きにしていい。形式に興味はない」


エリオはつまらなさそうに言いながら、手早くカイルの脈を取る。


「患者から聞いたよ。それも何人も。天候操作をやってのけた錬金術師がいるとね」


そのまま、カイルの目と口の中を確認し、手元の紙に何かメモを取りながら言った。


「しかし、考えたものだ。霧晶石の冷却力で雲を作るとは」


カイルは驚いて目を丸くした。


「ギルドの錬金術師から聞いたのか?」


「いや? しかし、自然な推論を重ねれば、自ずと分かることだ」


さらりと言い放ったその一言に、カイルは一瞬、言葉を失った。


「……すごいな。あんた」


思わず漏れた言葉は、ほとんど感嘆に近かった。


エリオは肩をすくめた。


「全てのことには、原因と結果があるものだ。その理を明らかにすることこそが、錬金術——少なくとも、私はそう考えてきた」


エリオは診察具を片付け、パン、と両の手を叩いた。


「さて。体調は問題なさそうだな。おおかた、過緊張による一時的なショック症状というところだろう。家に帰って、しっかり休め」


そのとき、ベッドの上から小さな寝返りの気配がした。


「……ん、」


ネマがうっすらとまぶたを開ける。寝起きの声はまだくぐもっていて、どこか幼く感じられた。


「ネマ。おはよう」


カイルが声をかけると、ネマはゆっくりと身を起こした。毛布を整えながら周囲を見回し、ようやく自分のいる場所を思い出したように、目を細めた。


「……おはよう」


ネマは首を小さく振ると、少しだけエリオに視線を向けた。エリオは軽く頷くだけで、言葉は返さなかった。


カイルは、隣で眠気の残る目をこすっているネマを一瞥した。


——彼女を救いたい。でも、どうしたら良いのか、もう、分からない。


深い霧の中で迷ったときのように、カイルは手探りで語り始めた──それが何かに繋がることを祈りながら。


「エリオ。少し……聞いて欲しいんだ」


カイルは、賢者の石やエリクサーを錬金するまでにネマの身体に起こった症状を、『両親の病』として話した。


初めは咳。血の混じった痰。そして、瞳を縁取る金色の輪。


それまで元気だった両親が、同時に、そして急激に生気を失っていったこと。


エリオは終始落ち着いて聞いていた。


「ときどき、思うんだ」


気付けばカイルは、話すつもりがなかったことまで話し始めていた。


「父さんと母さんは、賢者の石さえ作ろうとしなければ、死ななかったんじゃないかって」


ついに(・・・)言ってしまった(・・・・・・・)


目の端で、ネマの表情が少しだけこわばるのが、カイルには分かった。


両親の夢——そして工房を再開したあの日から、ネマとカイルの夢にもなった、伝説の物質。


しかし、カイルにとってもはやそれは、不吉な呪い以外の何物でもなかった。


ずっと胸の奥に押し殺していた感情は、もはや留めることはできない。


「昔からあるだろ? 『神の領域に踏み込んだ者は罰を受ける』とか、『真理を盗もうとした代償』とか……」


初めてネマの目に金の輪を認めた瞬間が、今でもありありと思い出せる。


それはまるで「これ以上踏み込んでくるな」と何か(・・)が警告しているようで。


しかし、一度禁忌を侵したものを縛り付けて離さない枷のようでもあった。


異様な雰囲気の兄に、ネマは少し戸惑うような視線を向ける。


「前は迷信だと思ってた。でも、あんなことがあって……やっぱり、人間が手を出しちゃいけない領域だったのかもしれないって……」


捲し立てた後には、素朴な感情だけが残った。


「……怖いんだ」


ネマが病にかかってから、カイルが吐いた初めての弱音だった。


しかし、それは誰に受け止められることなく、空を彷徨う。


……沈黙を破ったのは、くつくつというエリオの笑い声だった。


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