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霧隠れ薬

──そこには、微かに緑色に発光する苔があった。


「……これか?」


カイルは身をかがめ、そっと近づく。苔は確かに、淡い光を放っていた。よく目を凝らさなければ見落としてしまいそうなほどの儚さ。手袋越しに触れると、柔らかく、しっとりとしていた。


どこかミントのような、清涼な香りが鼻をくすぐる。


(ネマの言っていた“光る苔”で、間違いなさそうだ)


鞄から試薬瓶を取り出し、ナイフで苔を丁寧に採取する。瓶が一つ、また一つと埋まっていくたびに、どこか満たされたような気持ちになる。罠は不発だったが、我が家の錬金術師様のおつかいを果たすことはできそうだ。それで今日は、よしとしよう。


そう思いながら、カイルは胸元のコンパスを確かめ、帰路を辿りはじめた。



カイルが家まで帰ったときには、日は既に傾いて、空は茜色に染まっていた。扉を開けると、夕方の光が工房の奥まで差し込む。薄暗い空気の中、ネマは調合台の前に立ち、ちらりと視線だけをよこした。


「戻ったよ。……ほら、光る苔」


カイルは試薬瓶を並べる。だが、その瓶の中身は、もう光っていなかった。


「……あれ? さっきまで、淡く光ってたんだけど……」


ネマは手を止め、瓶に視線を落とした。そのうちの一つを手に取ると、慎重に蓋を開け、手であおいで匂いを嗅ぐ。


「……お母さんのノートに、“爽やかな匂い”って書いてあった。きっとこれで合ってる」


そう言うと、ネマはそそくさと調合台に向き直り、苔を器に移す。試薬棚から素材を選び出し、手際よく準備を進めていく。


手持ち無沙汰になったカイルはネマに聞いた。


「……えと、何か手伝うことある?」


「ない。少し待ってて」


ぶっきらぼうに聞こえるが、悪気がないことは分かっている。カイルが素直に従い部屋から出ようとすると、あ、というネマの声で振り返る。


振り返ると、ネマは机に置いた錬金書のページを片手で留め、もう片方の手で持った空の試薬瓶を所在なげに揺らしながら言った。


「……ありがとう」


カイルにはそれで十分だった。


「出世払いな」


カイルは少し気が変わり、傍の椅子に腰を下ろすと、妹の調合を見守ることにした。


「なに」


何やら忙しそうに器具を操作しながら、横目でネマが見た。


「見てていいだろ」


ネマは一瞬うらめしげにカイルを見たが、ふと空気が切り替わったように、調合の作業に戻った。香りを確かめ、器具を温め、フラスコを火にかける。すり鉢を回す音、ガラスのかちりと鳴る音、泡立つ微かな気泡。


料理でも段取りは大事だけど、これはそれ以上だな。と、ぼんやりカイルは思った。素材自体の新鮮さ、すりつぶしてから空気に触れさせる長さ、加える熱の強さと均一さ、与える衝撃の大きさと継続時間……さまざまな要素が、全て噛み合うように管理しなければいけない。一つ失敗すれば、その魔法は、きっと失われてしまう。


ぽっ、と、軽い音がフラスコから立ち上がる。

中の液体が淡い白色に変わり、反応が終わったことを告げていた。


「……できた」


ネマは瓶を掲げて光に透かすと、それをそっと台に置いた。


「おお。さすがうちの錬金術師様」


「……うるさいな」


そう返す声は、しかし嬉しさを隠しきれていなかった。


「なんの薬なんだ?」


カイルが聞くと、ネマは心なしか得意げに答える。


「霧隠れ薬。体に塗ると気配を消せるの。見えなくなるわけじゃないけど、人や動物に気づかれにくくなる」


「へえ……なんか物騒な気もするな」


この薬を使えば、人に気づかれずに物を盗んだり、傷つけたりできてしまうかもしれない。カイルは少し身構えた。


「物騒って……なに想像したの」


ネマがむっとして答える。


「いやいや……え?」


カイルは聞き返すが、ネマはそっぽを向いて突き放すように言った。


「お兄ちゃんにあげようと思ったけど、不安になってきたな」


ネマはまだよく分からないことを言っている。


「おいおい、俺が盗みを働くわけないだろ。流石にもっと信頼してよ」


ネマは一瞬驚いたようにカイルを見たが、それから少しバツが悪そうに頭を掻いた。


「まあいいや、これ、あげる。有意義に使ってね」


ネマはそう言って、できたばかりの試薬瓶に蓋をすると、カイルに渡した。カイルはよく分からなかったが、ありがたく受け取り、探索用のベルトに付けた。瓶の底は、まだ少し熱かった。



翌朝。


いつものように霧の森へ足を運んだカイルは、昨日仕掛けた罠を順に確認していった。


──が、やはり今日も、何もかかっていなかった。


濃い霧に包まれた森は、音も匂いも吸い込んでしまうような沈黙に満ちている。

動物の足跡はどれも古く、泥に残る気配もぼやけていた。


(……やっぱり、罠の場所が悪いのか? それとも、気配に気づかれてる?)


枝を払いながら歩いていたカイルは、ふと昨日のネマの言葉を思い出す。


「霧隠れ薬。体に塗ると、気配を消せるの。人や動物に、気づかれにくくなる」


カイルは足を止め、自分の手元を見る。

腰に下げた小さな瓶──ネマから渡された、新しい薬。


(……体に塗ったら、気配を消せる薬、か)


そのとき、枝から滴る露がひとしずく、地面の葉に落ちて、パサリと音を立てた。


(……でも、気配って、“人”に限らないよな?)


気づけば、彼は試薬瓶の蓋を開けていた。


落ち葉をめくり、罠の縄の端に、ほんの少し──霧隠れ薬を塗りつける。


見た目には変化はない。だが、どこか空気がひとつ、しん……と静まった気がした。


「ま、ものは試しだろ」


独りごちて、彼は再び森の奥へと足を運んだ。



午後、森の奥から戻る帰り道。


行きにしかけた罠の前を通ったカイルは、驚愕した。


罠の一つに、体格のいい鹿がかかっていたのだ。


(……あの薬、効いたのか……?)


カイルは息を呑んだ。昨日まで空振り続きだった罠。それが、ただの偶然でいきなり変わるとは思えなかった。きっと、霧隠れ薬が罠の気配を隠したのだ。


手の中にある薬瓶の、微かな重みが、少し違って感じられた。


(ネマ……やるな)


カイルは罠の処理を終え、獲物を担いで工房へ帰った。


足取りは、自然と軽くなっていた。



夕方。工房には、香ばしい匂いが立ち込めていた。


今日は特別だ。久々にかかった大物の肉を豪快に焼き、ハーブで香り付けした。野菜で彩りを添えて、少し贅沢な夕食に仕立て上げる。スープにも、肉を多めに入れた。


「……すごい匂い」


ネマが珍しく台所を覗きに来た。


カイルは嬉しさを隠しきれずに言った。


「こんなに大きい鹿がかかったんだ」


カイルは手を大きく広げながら言った。


「ネマのおかげだよ」


「……私の?」


ネマは不思議そうに首を傾げた。カイルは上機嫌に答えた。


「霧隠れ薬を罠に塗ったんだ。そしたら、早速かかった」


ネマは数秒、黙ったままカイルの顔を見つめていた。


「……そっか」


それだけ呟いて、目線を鍋に向ける。


けれどその頬には、ほんのわずか、朱が差していた。


「うまくいったのは、たぶん偶然。材料の比率もまだ安定してないし……」


カイルは皿を並べながら言った。


「それなら、また試せばいいよ。そしたらきっと、偶然じゃなくなる」


ネマは返事をしなかったが、鍋の中身を見つめる横顔は、どこか満足げだった。


ほどなくして、夕食が出来上がる。


テーブルの上に、肉の焼けた香りとハーブの香気が広がる。


二人は黙って席に着き、手を合わせた。


スープをひと口飲んだネマが、ふと眉を上げる。


「……おいしい」


二人は、ささやかな宴で成功を祝いあった。

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