既視感
空は深く、どこまでも澄み渡っていた。星々が瞬き、灯籠の光がゆっくりとその中に溶けていく。
カイルは、ふと息を呑んだ。
火を灯した灯籠が、手のひらから離れて、ふわりと宙に浮かび上がる。
それはまるで、何か大切なものが自分から滑り落ちていく瞬間のようだった。
……この光景、どこかで──。
一瞬、脳裏にざらりとした感覚が走った。
見たことがある気がする。
いや、もっと深い。まるで、もう一度、体験したような……そんな既視感。
「……ネマ?」
隣を見やると、ネマが灯籠の流れを見上げていた。ゆっくりと、淡い笑みを浮かべて。
カイルは無意識に彼女の表情を凝視していた。
この笑顔。こうしていること。
どこかで、まったく同じ情景を見た覚えがある。
「……とても古い本に、星返しのことが載ってたの」
その言葉に、心臓が小さく跳ねた。
言った。そう、言ったんだ──前にも。
でも、いつ? どこで?
わからない。ただ、確かに聞いた気がした。
「じゃあ……今回もちゃんと帰れるといいな」
自分の口から漏れた言葉に、自分で驚く。
どうして『今回も』なんて言った?
そんなつもりじゃなかったのに。
ネマは微笑んだまま、何も気にする様子はなかった。
カイルはそれを確認して、胸を撫で下ろした。
けれど心の奥では、じわじわと違和感が根を張っていく。
何かが、決定的におかしい。
灯籠が空に昇っていく。星々がそれを受け入れていく。
目の前の景色は変わらないはずなのに、
カイルの中では、どこかが確かに揺れていた。
──これは夢か?
それとも……何か、もっと深いものなのか。
カイルは静かに目を閉じた。
胸の奥で、小さな種火のような疑念が、ゆっくりと熱を帯び始めていた。
⸻
星返しの夜が明け、朝の光が差し込んだ工房には、どこか奇妙な静けさが漂っていた。
カイルは、目覚めた直後から胸の中に残る感触に戸惑っていた。
夢にしては生々しく、現実にしては繋がりがなさすぎる記憶。
ネマの声、灯籠の光、そして……笑顔。
何かが、確かにそこにあった気がする。
けれど、いくら頭を振っても、その「確信」だけが残って肝心の理由は思い出せない。
まるで、深い霧の中を歩いているようだった。
そんな考えを断ち切るように、扉がノックされた。
「おはよー」
開けると、サラがいた。背中に大きな鞄を背負い、手には──
「……注文書?」
見覚えがあった。確かに、こんな光景があった気がする。
違う。これは「今、目の前で起きている」のに、なぜか心が「またか」と反応していた。
「おー、よく分かったね。昨日の祭りの後、いろんな人から『あの薬を作った錬金術師は誰なのか』って聞かれてさ。ギルドにも連絡が殺到してるって」
カイルはサラの声を聞きながら、喉がきゅっと締めつけられるのを感じた。
まったく、同じだ。
昨日の出来事をなぞっているとしか思えない。
夢で見たはずの光景を、現実がなぞっていく。
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
「……カイル?」
サラの声に我に返る。
「いや……なんでもない」
そう答える自分の声も、一度聞いたような気すらする。
その後も、違和感は止まらなかった。
ギルドからの招集、王命の話。
それを伝えにきたリアンの顔、仕草、言葉。
次々と「記憶の中で見た」ことが、今、目の前で起こっている。
これは……偶然なんかじゃない。
そして、決定的な一歩が、数日後に訪れた。
届いたのは、大量の荷物を積んだ荷馬車だった。
丁寧に梱包された資料と器具の数々。
懐かしい匂いと、微かな香ばしさ。
そして、あの分厚い研究ノート。
ネマは研究ノートを開き、顔をしかめた。
「これ、普通の研究ノートじゃない……なるほどね、国の錬金術師が投げ出したのは、そういうこと」
カイルは冗談混じりに聞いた。
「詩でも書いてあった?」
ネマは目を見開いてカイルを見た。
──何で分かったの。
語らなくても、目がそう言っていた。その反応を見て、カイルの考えは、確信に変わった。
「……間違いない。戻ってきてる」
言葉にした瞬間、背筋が凍るような戦慄が走った。
時間が、巻き戻ったのだ。
何らかの形で、過去に──あの決定的な夜の「前」に、自分は還ってきている。
ネマは何も知らない。サラも、リアンも、皆、前と同じように振る舞っている。
けれどカイルだけが、その全てを覚えていた。
カイルは拳を握った。
これは、チャンスだ。
絶望の未来を回避するための。
「ネマ……少し、話したいことがある」
カイルは頭の中を整理しながら、とつとつと語り始めた。
⸻
全てを話し終える頃には、とうに日は暮れていた。
カイルはネマに、これまでの経緯を順を追って話した。
王の依頼。両親の研究資料。詩の形をした暗号。そして何よりも──ネマの死。
ネマは質問も遮りもせず、黙って聞いていた。腕の中のノートをきつく抱きしめたまま、息すら忘れたように。
「……信じろって言われても、難しいと思う」
一通り話すと、カイルは苦笑混じりに言った。
ネマはしばらく黙っていた。研究ノートを抱いたまま、目の前の兄をまじまじと見つめている。まるで、彼の顔の中に真偽を探すように。
カイルは一呼吸置いて、言葉を選ぶように続けた。
「でも、俺が見たのは、夢じゃない。……多分、未来だ」
ネマはやがて覚悟を決めたように口を開いた。
「……普通なら、信じられないって言うんだろうけど」
ネマは一度目を伏せて、小さく息を吐いた。
「でも、さっき言った『詩の正体』……お兄ちゃんが自力で思いつくとは思えない」
「おい」
ネマは、くすっと小さく笑った。
「ごめん。でも、事実でしょ」
「……まぁ、否定できないけどさ」
カイルは肩をすくめて笑ったが、どこかほっとしたようでもあった。
ネマは再びノートを見つめながら、静かに言った。
「さっき言ってた素材も、詩の解釈も、検証が必要だけど……筋は通ってる」
ネマは一転、すっきりしたような顔で言った。
「それにね、星返しで願ったの。こんな日がずっと続きますようにって」
カイルが小さく目を見開く。
「……ああ、言ってたな」
「もしかしたら、星が願いを叶えてくれたのかも」
ネマは視線を窓の外へ向けた。夜空には、いくつかの星が淡く瞬いていた。
カイルは静かに言った。
「……ネマ。まずは治療薬を作っておこう。賢者の石より、そっちが先だ」
あんな気持ちを味わうのは、二度とごめんだった。




