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命の天秤  作者: 葛嶋心秋
6/11

想起

 ドクンッ

 その音と共に、グレイの足下の空気が爆ぜ、上昇する。グレイは、この世界で数少ない人種の一つ、ロートヒッツェ人であり、心臓をエンジンのように燃焼させることによって、身体能力を爆発的に高める事が出来る能力を持つ。

 グレイの目が燃える様に見開き、額の血管が浮き出る。皮膚の下を通る血流が、一瞬だけ赤く光るように見えた。

 グレイの周囲には陽炎が揺れ、空気は熱せられ勢いよく上昇していた。

「……行くぞ、鬼呪持ち」

 その声と共に、空気が一瞬、歪んだ。

 グレイの姿が、ロイの視界から消える。動こうとした時には、もう腹に、拳がめり込んでいた。

 ドゴォッ!!

 骨が内側から悲鳴を上げる音。

 鋼のような拳が、ロイの腹筋をへこませ、内臓を押しつぶす。

 体が反射的にのけ反る。吐き出された血が空に弾ける。

 壁に激突。背骨がゴリ、と嫌な音を立てる。

「ぐ、ああああッ!!」

 崩れる瓦礫の中で立ち上がったロイの口元からは血が垂れていた。喉の奥から内出血の血が混ざっている。

 拳を握る。

 顔をしかめ、右腕を振り上げ、踏み込んだ。

「うおおおおおッ!!」

 フルスイング。

 ……だが。

「遅い!」

 グレイは最小限の動きでその攻撃を避け、ロイの拳は虚空を裂いただけだった。

 次の瞬間。

 ガツンッ!!

 今度はロイの頬に、鋭く、垂直に打ち込まれた拳が食い込む。

 皮膚が裂け、奥の骨がミシ、と砕けた音を立てる。

 血を噴き、ロイの体は斜めに回転する。

 着地できず、地面に膝をつく。

 そのまま口から血塊を吐き出した。

「はぁ……はっ……くそ、当たらねぇ……!」

 手が震えていた。

 グレイは冷たい目で、ロイを見下ろしていた。

 ロイとグレイが戦闘を繰り広げている頃、

 ファウナは身を小さくして震えていた。

 (止めなきゃ……!このままじゃロイさんが死んでしまう……また私のせいで人が死ぬ……でもどうすれば……)

 拳が地を割り、瓦礫が宙を舞う。

 その時だった。

 背後に――気配。

「ここで、お前を討つ」

 鋭い声と共に、灰焔騎士団の一人がファウナに迫る。銀の短剣を手に、迷いもなく振りかぶる。

 ファウナの目が見開かれる。

「あ……っ」

 避けることも、防ぐこともできなかった。ただ恐怖で体が凍りついた。その瞬間――

 ザアアアァァァァ……

 騎士の腕、肩、胴――

 その肉体が、音もなく崩れ落ちていく。

 乾いた風に乗り、砂が粉のように宙を舞った。

 地面には、一握りの塵しか、残されていなかった。

 ファウナの手が震えていた。

「あ……ぁ……あ……!」

 殺してしまった。また、誰かを――。

 その光景を目にした者たちが、一人、二人と悲鳴を上げはじめる。

「化け物だッ!」

「砂漠の魔女だ!!」

「逃げろぉ!!」

 叫びと足音と、瓦礫を蹴る音。

 街の人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていく。

 ファウナは肩を抱えて崩れ落ちた。

 目の前では、ロイが痛めつけられ、自分は人を殺してしまった。

 息が詰まり、涙が滲む。

「生きていていいのか」――その問いが喉元で渦を巻く。

 ガンッ!

 ロイの背中が地面に叩きつけられる。砂利が舞い、地を抉った筋が残る。肩の骨が外れ、血が口の中に逆流してくる。

 視界が、ブレる。

 耳が遠い。

 グレイの気配がない。

 いや、もう背後にいる。

「お前の筋力は確かに異常だ。だがな、それだけじゃ俺は殺せねぇ」

 振り返る暇などなかった。

 拳がロイの左の肋骨を狙ってめり込む。

 ミシ……ッ! バキィ……!

 背中から何かが飛び出すような感覚。

「っ……ぐぅぅ……あ……ッ!」

 足が痙攣している。

 膝から崩れ落ちる。うつ伏せに倒れる。吐いた息と共に、赤黒い塊が地面を染める。

「終わりましたよ、エヴルさん。ラーラ」

空を見上げながら嬉しそうにグレイが言った。

 小さく、小さくロイが呟いた。

「…………ミラ……」

 次の瞬間電撃のような怒りがロイの体を襲う。手から血が出るほど強く拳を握りしめる。

 歯を食いしばった時だった。

 痣が――動いた。

 左肩から走る黒い紋様が、まるで心臓の鼓動に同調するように波打ち始めた。

 ドクン。

 一度全身が震える。

 ドクン……ドクン……!

「……う、ううぅ……ッ!」

 骨が鳴る音が肉の下から響いた。握った拳が異常に膨張し、皮膚が裂け、血管が浮き出す。

 視界の端が黒く染まっていく。音が遠いのか、近いのかよくわからない。

「なんだ……これは!?」

 グレイが動揺する。

 次にロイの口から溢れたのは、言葉ではなく、低く、獣のような唸り声だった。

 ロイが森の中で遭遇した成れの果てのようなそれに、ロイ自身もなりかけていた。

 筋繊維が皮膚を押し破り、肩から腕にかけて黒い炎のような靄が立ち上る。

 ロイが吼えた。

「ガアァァウウガアウゥァァァァ!!」

 グレイの拳とロイの拳が入り乱れる。

 だが、グレイは息が切れ、額を汗が伝っていた。

 さっきまでとはまるで違う。呪いの力だ。速さだけじゃない、重さも増している。これは本当にヤバイ。

 ロイは無尽蔵にグレイに攻撃を仕掛ける。グレイはその攻撃を受けるのにやっとになっていた。

 次の瞬間、ロイの拳がグレイの脇腹を直撃した。

 バキッ!

 鈍い音と共にグレイの体が空を舞い、建物の壁を貫いて吹き飛んだ。

 ロイの左腕から、黒い靄がドロドロと吹き出している。

 グレイが瓦礫の中でうごめく。

「かはッ!」 

 内臓が潰れて息が出来ない。グレイはそのまま意識を失った。

 近くの灰焔騎士団が、グレイをその場から救出するべく近寄っていく。

 そうしてグレイは一命を取り留めた。

 次に、荒い息を吐きながら、ロイは足を引きずって歩き出した。

 目に映ったのは、民衆が逃げていった、街の中心部。その中に、自分を拒絶した人間たちの姿が重なる。

 ――妹を奪った者。

 ――ファウナを殺そうとした者。

 (全部、殺してやる)

 黒い痣が更に広がり、左肩だけではなく胸元まで覆い始める。

 拳を握る。

 一歩、また一歩と、街に向けて歩き出す。

 その背中に、か細い声が届いた。

「ロイさん!」

 振り返ると、崩れかけた石畳を踏み越えて、彼の前にファウナが立ちはだかっていた。

 その姿を見た瞬間、ふとロイが呟く。

「……ミラ」

 すると痣が暴れ出した。ロイの体を痣が焼くように痛めつけ始める。

「ガアァァァァ!!」

 その時、異形の仮面を被った数十人もの兵士が、ロイとファウナを包囲した。

 手には火炎放射器が握られていた。

「放て!」

 炎が空を裂いた。

「ガァァァァ!」

 ロイは近くにいたファウナごと取り込んで、自分の肥大させた肉を盾として、丸い肉の塊になった。

 外側の肉が焼かれるとまた新しい肉が内側から這い出てくる。

 ファウナは肉に埋もれて、意識が遠のく。


 次に目が覚めた時、そこは何もない暗い世界だった。

 黒い空、灰色の地面。何もなく、何も動かない。

 だが、遠くに一人の少年が膝を抱えていた。

 ロイだった。

 彼は幼く、怯えたように、独りぼっちだった。

「ロイ……さん……?」

 ファウナが近づこうとした時、地面が軋んだ。

 彼の背中には巨大な黒い影が取り憑いていた。その巨大な黒い影がファウナを飲み込んだ。

 悲痛の声が、頭に直接、怒涛のごとく、全方位から聞こえてくる。

「熱い、痛い、誰のせいだ、失いたくなかった、俺の全てだった。俺が殺した。殺してやる。憎い。憎い憎い。殺してやる。俺のせいだ。熱い。痛いよ。母さん。ミラ。好きだった。殺してやる、愛していた。憎い。憎い!誰が殺した!誰の弱さか、憎い、殺してやる、憎い、悲しい」

 その憎しみと悲しみ、怒りのショックは大きく、ファウナは精神的に崩れそうになった。

 だが、ファウナは負けなかった。その負の感情を跳ね返すようにロイに近づいていく。

「ロイさん・・・こんな感情の中で生きていたんですね・・・。可哀想・・・。妹さんを失って、心が壊れているんだ。なんて声をかければいい?ミラさんならなんて声をかけた?私がミラさんに似ているからという理由でも構わない。この人は私を選んでくれた。だからわたしもこの人を選ぶ。私にしか出来ない事がきっとある。言葉を探せ。きっとこの人を救ってみせる」

 そう心に思いながらゆっくりと向かい風の中、ロイに近づいて行った。

 そして、幼いロイに触れて、こう言った。優しい声だった。

「痛かったね、辛かったね、もう、大丈夫だからね」



「大好きだよ、お兄ちゃん」



 すると辺りが白い光に包まれていった。そして目の前に現れたのは暖炉の前にいる二人の兄妹だった。

「これは……?ロイさんの記憶?」

 二人の兄妹が会話している。

「お兄ちゃん、今日はありがとう。いじめっ子から私を守ってくれて」

「当たり前だろ。妹がいじめられてるんだ。放っておくわけない」

「でもお兄ちゃん、こんなにボコボコにやられちゃった。ごめんなさい」

「謝らなくていい。俺はミラの兄ちゃんだ。当然のことをしたまでだ」

「お兄ちゃん、優しい……。ねぇ、お兄ちゃん……」

「なんだ?」

「大好きだよ、お兄ちゃん」

 

 

 

暴走していたロイの目が見開かれ、呪いが解除されていく。

 肉の塊が朽ちていき、ロイとファウナが現れる。

「出たぞ!」

 仮面の兵士達が火炎放射器を一斉に向けた。

 涙を流して気絶しているロイを抱きながら、ファウナが言った。その声は芯からその兵士達に響いた。

「やめなさい……!」

 火炎放射器が砂になっていく。

 いつしかその辺り一面が砂になっており、砂漠化していた。

 兵士達は怯え、逃げていく。

 ロイとファウナは粉状の砂の上に二人取り残されていた。

 あたりを見回すファウナ。少し悲しい表情を浮かべ、ロイを担ぐ。

「行こう」

 その言葉は砂に吸い込まれて消えていった。

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