想起
ドクンッ
その音と共に、グレイの足下の空気が爆ぜ、上昇する。グレイは、この世界で数少ない人種の一つ、ロートヒッツェ人であり、心臓をエンジンのように燃焼させることによって、身体能力を爆発的に高める事が出来る能力を持つ。
グレイの目が燃える様に見開き、額の血管が浮き出る。皮膚の下を通る血流が、一瞬だけ赤く光るように見えた。
グレイの周囲には陽炎が揺れ、空気は熱せられ勢いよく上昇していた。
「……行くぞ、鬼呪持ち」
その声と共に、空気が一瞬、歪んだ。
グレイの姿が、ロイの視界から消える。動こうとした時には、もう腹に、拳がめり込んでいた。
ドゴォッ!!
骨が内側から悲鳴を上げる音。
鋼のような拳が、ロイの腹筋をへこませ、内臓を押しつぶす。
体が反射的にのけ反る。吐き出された血が空に弾ける。
壁に激突。背骨がゴリ、と嫌な音を立てる。
「ぐ、ああああッ!!」
崩れる瓦礫の中で立ち上がったロイの口元からは血が垂れていた。喉の奥から内出血の血が混ざっている。
拳を握る。
顔をしかめ、右腕を振り上げ、踏み込んだ。
「うおおおおおッ!!」
フルスイング。
……だが。
「遅い!」
グレイは最小限の動きでその攻撃を避け、ロイの拳は虚空を裂いただけだった。
次の瞬間。
ガツンッ!!
今度はロイの頬に、鋭く、垂直に打ち込まれた拳が食い込む。
皮膚が裂け、奥の骨がミシ、と砕けた音を立てる。
血を噴き、ロイの体は斜めに回転する。
着地できず、地面に膝をつく。
そのまま口から血塊を吐き出した。
「はぁ……はっ……くそ、当たらねぇ……!」
手が震えていた。
グレイは冷たい目で、ロイを見下ろしていた。
ロイとグレイが戦闘を繰り広げている頃、
ファウナは身を小さくして震えていた。
(止めなきゃ……!このままじゃロイさんが死んでしまう……また私のせいで人が死ぬ……でもどうすれば……)
拳が地を割り、瓦礫が宙を舞う。
その時だった。
背後に――気配。
「ここで、お前を討つ」
鋭い声と共に、灰焔騎士団の一人がファウナに迫る。銀の短剣を手に、迷いもなく振りかぶる。
ファウナの目が見開かれる。
「あ……っ」
避けることも、防ぐこともできなかった。ただ恐怖で体が凍りついた。その瞬間――
ザアアアァァァァ……
騎士の腕、肩、胴――
その肉体が、音もなく崩れ落ちていく。
乾いた風に乗り、砂が粉のように宙を舞った。
地面には、一握りの塵しか、残されていなかった。
ファウナの手が震えていた。
「あ……ぁ……あ……!」
殺してしまった。また、誰かを――。
その光景を目にした者たちが、一人、二人と悲鳴を上げはじめる。
「化け物だッ!」
「砂漠の魔女だ!!」
「逃げろぉ!!」
叫びと足音と、瓦礫を蹴る音。
街の人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていく。
ファウナは肩を抱えて崩れ落ちた。
目の前では、ロイが痛めつけられ、自分は人を殺してしまった。
息が詰まり、涙が滲む。
「生きていていいのか」――その問いが喉元で渦を巻く。
ガンッ!
ロイの背中が地面に叩きつけられる。砂利が舞い、地を抉った筋が残る。肩の骨が外れ、血が口の中に逆流してくる。
視界が、ブレる。
耳が遠い。
グレイの気配がない。
いや、もう背後にいる。
「お前の筋力は確かに異常だ。だがな、それだけじゃ俺は殺せねぇ」
振り返る暇などなかった。
拳がロイの左の肋骨を狙ってめり込む。
ミシ……ッ! バキィ……!
背中から何かが飛び出すような感覚。
「っ……ぐぅぅ……あ……ッ!」
足が痙攣している。
膝から崩れ落ちる。うつ伏せに倒れる。吐いた息と共に、赤黒い塊が地面を染める。
「終わりましたよ、エヴルさん。ラーラ」
空を見上げながら嬉しそうにグレイが言った。
小さく、小さくロイが呟いた。
「…………ミラ……」
次の瞬間電撃のような怒りがロイの体を襲う。手から血が出るほど強く拳を握りしめる。
歯を食いしばった時だった。
痣が――動いた。
左肩から走る黒い紋様が、まるで心臓の鼓動に同調するように波打ち始めた。
ドクン。
一度全身が震える。
ドクン……ドクン……!
「……う、ううぅ……ッ!」
骨が鳴る音が肉の下から響いた。握った拳が異常に膨張し、皮膚が裂け、血管が浮き出す。
視界の端が黒く染まっていく。音が遠いのか、近いのかよくわからない。
「なんだ……これは!?」
グレイが動揺する。
次にロイの口から溢れたのは、言葉ではなく、低く、獣のような唸り声だった。
ロイが森の中で遭遇した成れの果てのようなそれに、ロイ自身もなりかけていた。
筋繊維が皮膚を押し破り、肩から腕にかけて黒い炎のような靄が立ち上る。
ロイが吼えた。
「ガアァァウウガアウゥァァァァ!!」
グレイの拳とロイの拳が入り乱れる。
だが、グレイは息が切れ、額を汗が伝っていた。
さっきまでとはまるで違う。呪いの力だ。速さだけじゃない、重さも増している。これは本当にヤバイ。
ロイは無尽蔵にグレイに攻撃を仕掛ける。グレイはその攻撃を受けるのにやっとになっていた。
次の瞬間、ロイの拳がグレイの脇腹を直撃した。
バキッ!
鈍い音と共にグレイの体が空を舞い、建物の壁を貫いて吹き飛んだ。
ロイの左腕から、黒い靄がドロドロと吹き出している。
グレイが瓦礫の中でうごめく。
「かはッ!」
内臓が潰れて息が出来ない。グレイはそのまま意識を失った。
近くの灰焔騎士団が、グレイをその場から救出するべく近寄っていく。
そうしてグレイは一命を取り留めた。
次に、荒い息を吐きながら、ロイは足を引きずって歩き出した。
目に映ったのは、民衆が逃げていった、街の中心部。その中に、自分を拒絶した人間たちの姿が重なる。
――妹を奪った者。
――ファウナを殺そうとした者。
(全部、殺してやる)
黒い痣が更に広がり、左肩だけではなく胸元まで覆い始める。
拳を握る。
一歩、また一歩と、街に向けて歩き出す。
その背中に、か細い声が届いた。
「ロイさん!」
振り返ると、崩れかけた石畳を踏み越えて、彼の前にファウナが立ちはだかっていた。
その姿を見た瞬間、ふとロイが呟く。
「……ミラ」
すると痣が暴れ出した。ロイの体を痣が焼くように痛めつけ始める。
「ガアァァァァ!!」
その時、異形の仮面を被った数十人もの兵士が、ロイとファウナを包囲した。
手には火炎放射器が握られていた。
「放て!」
炎が空を裂いた。
「ガァァァァ!」
ロイは近くにいたファウナごと取り込んで、自分の肥大させた肉を盾として、丸い肉の塊になった。
外側の肉が焼かれるとまた新しい肉が内側から這い出てくる。
ファウナは肉に埋もれて、意識が遠のく。
次に目が覚めた時、そこは何もない暗い世界だった。
黒い空、灰色の地面。何もなく、何も動かない。
だが、遠くに一人の少年が膝を抱えていた。
ロイだった。
彼は幼く、怯えたように、独りぼっちだった。
「ロイ……さん……?」
ファウナが近づこうとした時、地面が軋んだ。
彼の背中には巨大な黒い影が取り憑いていた。その巨大な黒い影がファウナを飲み込んだ。
悲痛の声が、頭に直接、怒涛のごとく、全方位から聞こえてくる。
「熱い、痛い、誰のせいだ、失いたくなかった、俺の全てだった。俺が殺した。殺してやる。憎い。憎い憎い。殺してやる。俺のせいだ。熱い。痛いよ。母さん。ミラ。好きだった。殺してやる、愛していた。憎い。憎い!誰が殺した!誰の弱さか、憎い、殺してやる、憎い、悲しい」
その憎しみと悲しみ、怒りのショックは大きく、ファウナは精神的に崩れそうになった。
だが、ファウナは負けなかった。その負の感情を跳ね返すようにロイに近づいていく。
「ロイさん・・・こんな感情の中で生きていたんですね・・・。可哀想・・・。妹さんを失って、心が壊れているんだ。なんて声をかければいい?ミラさんならなんて声をかけた?私がミラさんに似ているからという理由でも構わない。この人は私を選んでくれた。だからわたしもこの人を選ぶ。私にしか出来ない事がきっとある。言葉を探せ。きっとこの人を救ってみせる」
そう心に思いながらゆっくりと向かい風の中、ロイに近づいて行った。
そして、幼いロイに触れて、こう言った。優しい声だった。
「痛かったね、辛かったね、もう、大丈夫だからね」
「大好きだよ、お兄ちゃん」
すると辺りが白い光に包まれていった。そして目の前に現れたのは暖炉の前にいる二人の兄妹だった。
「これは……?ロイさんの記憶?」
二人の兄妹が会話している。
「お兄ちゃん、今日はありがとう。いじめっ子から私を守ってくれて」
「当たり前だろ。妹がいじめられてるんだ。放っておくわけない」
「でもお兄ちゃん、こんなにボコボコにやられちゃった。ごめんなさい」
「謝らなくていい。俺はミラの兄ちゃんだ。当然のことをしたまでだ」
「お兄ちゃん、優しい……。ねぇ、お兄ちゃん……」
「なんだ?」
「大好きだよ、お兄ちゃん」
暴走していたロイの目が見開かれ、呪いが解除されていく。
肉の塊が朽ちていき、ロイとファウナが現れる。
「出たぞ!」
仮面の兵士達が火炎放射器を一斉に向けた。
涙を流して気絶しているロイを抱きながら、ファウナが言った。その声は芯からその兵士達に響いた。
「やめなさい……!」
火炎放射器が砂になっていく。
いつしかその辺り一面が砂になっており、砂漠化していた。
兵士達は怯え、逃げていく。
ロイとファウナは粉状の砂の上に二人取り残されていた。
あたりを見回すファウナ。少し悲しい表情を浮かべ、ロイを担ぐ。
「行こう」
その言葉は砂に吸い込まれて消えていった。