第104章 ネオ・シャンハイにて
2290年6月の恒星間天体マオのインパクトに直面し、第4次世界大戦を生き延び、国際連邦の保護下にいる地球人民約1億のうち、5%の500万人が選抜され火星へ向かうことになり、残りの9500万人には安楽死処置 (「ターミナル・ケア」)が施されることになった。その結果人口は、国際連邦本部のある月の約100万と、移住者を受け入れた火星の約600万、合わせて約700万にまで減少することになった。
主な登場人物
オガワ・マモル:第6部の主人公、2287年、8歳の時に選抜されて火星へ向かう途中で、1つ年下のミユキと仲良くなった。学士号を2つとC級航宙士の資格取得し、連邦の地球調査ミッションのメンバーに登用され、トウキョウ・レフュージをベースに活動している
ホシノ・ミユキ:第6部のヒロイン、マモルと同じプレインで火星へ向かった、15歳で火星の音楽コンクールのピアノ部門1位、一躍トップピアニストになった、アカデミー中期課程に進学
ミヤマ・ヒカリ (ママ):マモルの母親、ネオ・トウキョウで2289年6月末に施されたターミナル・ケアを生き残り、大陸に渡って巡り合った従兄のダイチたちと、長江流域の民衆を避難されるプロジェクトの幹部として活躍した、今はシャンハイの自治組織の幹部職員等を務める
ミヤマ・サユリ:中国名は楊小百合、ダイチの妹、ヤマモト・カオルのフィアンセ。病死、ヒカリは彼女に瓜二つ
張子涵:(チャン・ズーハン)ダイチの幼馴染で、元物流業者、ヒカリらとともに、民衆を避難されるプロジェクトの幹部として活躍、今は物流を中心と知ったビジネスを手掛けている
高儷:(ガオ・リー)ネオ・シャンハイでの最後のターミナル・ケアの生き残り、ダイチ、ヒカリたちの仲間に加わり、民衆を避難させるプロジェクトで活躍、今はシャンハイの自治組織の幹部職員、傷ついたカオルを引き取り、パートナーとしている
ジョン・スミス:ドイツ人、電気電子修理工房を営んでいたが、店を閉店、民衆を避難させるプロジェクトに加わった、今は小さな電気修理工房を営む
陳春鈴:(チェン・チュンリン)ダイチの幼馴染、自治組織の幹部の一人、民衆を避難させるプロジェクトで活躍し、兄と祖父をほぼ同時に亡くした傷心の周光立に寄り添い、公選制のシャンハイのトップとなった夫周光立を支えていた
ミヤマ・ダイチ (ダイチおじさん):ヒカリの従兄で、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、旧中国の長江流域に居住する国際連邦管理下にない民衆の自治組織のリーダーの一人、避難させるプロジェクトを率いる立場を務め、同僚を庇って命を落とした
楊清立:(ヤン・チンリー)ダイチの従伯父、民衆の自治組織のリーダー、相談役を務めた
徐冬香:(シュ・ドンシアン)楊清立の妻、民衆の自治組織で裁判所を統括した
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、長江流域で最大の人口である上海の最高実力者の孫、上海の自治組織の最高幹部の一人で、ダイチとともに、民衆を避難させるプロジェクトを率いる立場を務めた、公選制になったシャンハイのトップを上限の3期9年務めた
グエン:ベトナム人、中国名は阮華 (ルアン・フア)、民衆の自治組織の幹部で、ヒカリの元上司、民衆を避難させるプロジェクトでも活躍した
アドラ・カプール:インド人、上海の自治組織の幹部で、民衆を避難させるプロジェクトでヒカリの上司にあたる立場で活躍した
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)ダイチたちと幼馴染、自治組織のリーダーの一人、民衆を避難させるプロジェクトで活躍、亡くなったフィアンセのサユリに瓜二つのヒカリの出現に心乱され、ダイチに庇われる形で一命を取り留めたが、心に大きな傷を抱えた
光:(グゥアン):張子涵とジョン・スミスの一人娘、ヒカリから名前をもらった
デイヴィッド・カール・リチャードソン:連邦所属のベテラン航宙士、マモルとミユキが中継点の月から火星へ向かう便の船長、のちに民衆を避難させるプロジェクトにも関わった、今は航宙士養成校の副校長
アルバート・アーネスト・アーウィン:ミヤマ・ヒカリの国際連邦での上司、生き残ったヒカリとその仲間たちを最大限支援し、立ちはだかるAIを論破する活躍もした、インパクトに備える別の救援プロジェクトを進言、指揮し、大役を務めたのち、連邦の大臣にあたる委員を務めている。
カリーマ・ハバシュ:スペースプレインの航宙士資格を持つ、民衆を避難させるプロジェクトでも活躍し、今は張子涵の会社に専属パイロットとして勤務
年が明けて2300年6月。14日のママの誕生日に「おめでとう」のMATESを送ったら、「入院しました」という返信がきた。第四次大戦時に使用された生物兵器由来で、突然変異で病原性が高くなった病原体に感染したとのこと。サユリさんが命を落としたのと同じ病原体。早期に治療を開始したため、二週間程度で完治、退院可能との診断だった。
本来ならMPワクチンの効果で、発症することはないはずだった。実は39歳になったママは、最後にMPワクチンを接種したのがネオ・トウキョウで25歳のとき。ワクチンの効果は10年なので、ネオ・シャンハイに避難したときに「次回35歳で接種」として登録されるべきだった。ところが当時29歳だったことから「10年後の39歳で接種」と誤って登録されてしまった。接種の通知が来ないのを気づかなかったママは、そのまま4年を過ごしたことになる。
「お見舞いに行こうか」と言ったボクに対して「元気なときに会いたい。治ったら」とのママの返信。
当初の診断通りなら退院できると言われていた6月28日、ママの容体は急変した。最初の病原体の治療のために投与された薬物が、同じく生物兵器由来の病原体で、滅多に発症することのないものを活性化してしまった。ママは28日のうちに危篤状態に。集中治療室に入り、口もきけない。頭につけた電極を通じて検出した脳波を元に、声帯の形から作り出した合成音声に乗せて発話させる、という形でコミュニケーションをとることになった。
ボクは隊長にお願いして、休暇とミニプレイン1機の使用許可をもらい、ネオ・シャンハイに向かった。
「何かあったときの連絡先」として張子涵さんと高儷さんの連絡先を聞いていた。夕方に到着したネオ・シャンハイのターミナルには、高儷さんが迎えに来てくれた。
「ママは…いまどんな具合ですか?」
【お昼過ぎまでは、電極を介して発話する彼女とモニターを通じて会話できたけれど、さっき見たときは昏睡状態でした。お話ができるようになるといいのですけれど】
ホスピタルには張子涵さん、ジョン・スミスさん、二人の3歳になるお嬢さん、妊娠してお腹の大きな陳春鈴さん、そして亡きダイチさんの伯父さん、伯母さんにあたる楊清立さんと徐冬香さんが集まっていた。
ママの昏睡状態は続き、みんなはホスピタルの面会者控室で一夜を過ごした。
翌朝、周光立さんがやって来た。大きな袋に入れた差し入れのサンドイッチを持ってきたのを見て、高儷さんと陳春鈴さんが人数分のコーヒーを買いに行った。みんな言葉少なく、サンドイッチとコーヒーで朝食をとる。
9時頃に、かつてママの上司だったという、ベトナム人のグエンさんとインド人のアドラ・カプールさんがやって来た。暗い顔で入ってきた二人は、他の人からママの容体を聞いて、さらに暗い表情になった。
カオルさんがやって来たのは10時頃だった。できるだけみんなと目を合わせないように、隅っこに腰を下ろす。
11時過ぎ、看護師がやってきた。微かに意識が戻ったとのこと。
[最後の面会と思ってください]という彼に連れられて、ボクたちは、集中治療室のリモート面会ルームに入った。
奥のモニターに、集中治療室のベッドに横たわったママが見える。ママもモニターを通じてボクたちの姿が見えるようだ。集まった一人一人、名前を名乗ってママに声をかける。ママを姉と慕う陳春鈴さんの顔は、涙でぐちゃぐちゃになっている。最後に高儷さん。「カオルも来ているよ」と言う。カオルさんは黙ってモニターを見つめている。
ママの合成音声が聞こえ始めた。
「みんな…ありがとう…会えて…嬉しい」
合成音声のせいか、一語一語はっきりと聞こえる。
[逝っちゃいやだよぅ、シカリ姉さん]と陳春鈴さんが叫ぶ。
「ごめんね…ほんとに、私が…ワクチンのことを…」
「お前さんの名前を貰った娘の顔を見てやってくれ」とジョン・スミスさんが、お嬢さんを抱き上げてモニターに近づける。
「光ちゃん…張子涵に似て、ますます…美人」
[もっともっと美人になるのを、見届けて欲しい]と張子涵さん。
「あなたには…お願いしたいことが..」
[なんだい?]
「…ダイチのことで…私を、許してほしい」
[わかった]
「高儷。カオルのことを…よろしく」
[わかりました]と高儷さん
「それから…カオル」
カオルさんは俯き加減で黙っている。
「やはり、私を…許してください。私が…ちゃんと…言うべきことを言っていれば…」
ママの顔に苦痛が走る。医師が鎮痛剤らしきものを投与する。
しばらくしてママの表情が落ち着いた。
合成音声で、集まっている人ひとりひとりに呼びかける。3歳の光ちゃんにも。陳春鈴さんのお腹の子供にも。
「…素敵な人たちに囲まれた…楽しい人生でした…私のことを…忘れないでいて…そして、時々でいいから…思い出して」
[忘れられるわけ、ねぇだろう]と張子涵さん。
[かわいい部下のことを忘れませんよ]とグエンさん。
[私も」とアドラ・カプールさん。
[最高に優秀で、最高にチャーミングな部下だよ]と周光立さん。
[ダイチもサユリもあなたも 順番が逆よ」と徐冬香さん。
[私たちを見送って欲しかった]楊清立さん。
「伯父さん、伯母さん…本当に…申し訳ありません」
苦痛の表情はないが、疲れたのだろう。ママは目を閉じた。
みんなが心配そうに見つめる。
10分くらいして、ママがまた目を開いた。口元に微かに笑みが広がっているようにも見える。
「私は…どんな宗教も、信じていません…死後の世界とか…そういうことも…考えません」
みんな、一言半句も聞き逃すまいと聞き入っている。
「ただ…私の死んだ後、忘れないでいてくれる…人たちが…」
しばらく言葉が途切れる。脳の活動レベルも相当低下しているのだろう。
「…人たちがいれば…私は、その人たちの中で…生き続けるのだ…という…」
またしばらく途切れる。
「…だから…お願い」
「ママ。ボクは絶対忘れないよ!」
「マモル……わかってますよ」
言いたいことは山ほどあるのに、ボクは言葉にできなかった。
「ああ…ミユキちゃんに……会いたかったな」
相変わらずボクは何も話せない。
「…ミユキちゃんの、ことを……大事にしてね」
「うん、わかった」
やっと口にできた。
「みんな、ありがとう……マモル。ママはもう寝ますね…おやすみなさい」
これがママの、本当の最後の言葉となった。
その後ママは再び昏睡状態になった。そして翌6月30日の朝8時54分、波乱の生涯を送ったボクのママ、ミヤマ・ヒカリは息を引き取った。享年39。ネオ・トウキョウでケアされるはずだった日から、ちょうど11年が経っていた。
ママが亡くなったことを火星のミユキにMATESで報告した。入院したこと、容体が急変したことはすでに伝えていた。
「わたしも悲しい。どうか、気持ちをしっかり持ってね。つらいだろうけど」という返信を貰った。
リチャードソン船長とアーウィンのおじさんにも連絡した。「残念だ」という返信が相次いで入った。
ママの遺志で、遺骨は、セメタリ―に収める分を除いて長江へ散布することになった。
7月1日の午後、張子涵さんの会社の操縦士である、カリーマ・ハバシュさんが操縦するミニプレインを長江の上に飛ばして、楊清立さん、ジョン・スミスさん、ボクの3人で、遺骨の大半を散布した。
翌7月2日の午後、セメタリ―で行われた葬儀には100人以上の人が集まった。バンド「北斗七星」の人たちが、ママが大好きだったOという女性アーティストの曲を演奏した。それから、かつてミユキが弾き語りをした「星座の先のエピローグ」の演奏に合わせて、ママの遺骨はセメタリーのダイチおじさんの隣に収められた。