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聖女様は条件をつける

 わんわん泣いていると、杏の視界の端、ゼミ室の入り口に、池田教授の顔が見える。

「やっぱりそうなったか。誰か、緒方さん、恩田さん、呼んでこい。榊原先生も」

 廊下をバタバタと走っていく音がする。

 

 しばらくして、のぞみが来た。榊原教授も来た。明やカサドンもいる。ちょっと遅れて、真美も来た。

 杏を挟んで、のぞみと真美が座る。修二を挟んで池田教授、榊原教授が座る。

 みんなが揃ったところで、池田教授が言った。

「神崎さん、スマホ、出してくれないか」

「はい」

「お父さんのところに電話して、スピーカーにしてくれないか」

「はい」

 杏はもう思考力が無く、言われたとおりにする。

「唐沢くん、神崎さんのお母さんの電話知ってるかい?」

「はい、知ってます」

「つないでくれ」


 父はすぐに電話に出てくれた。杏の声で、大変なことになっているのを察してくれたのか、「ちょっと待ってね」という杏の言葉に、素直に従ってくれた。杏はスマホを、テーブルに置く。修二もつながったのだろう、同じようにする。

 

「神崎さんのお父様、お母様、突然申し訳ありません。札幌国立大の池田です」

 挨拶が交わされる。

「実は、杏さんのお友達の唐沢修二くんですが、急に茨城県の東海村に移動することになりまして、それを先程、お嬢さんにお伝えしました。お嬢さんは大変動揺されまして……」

 杏は口を挟んだ。

「お父さん、お母さん、ごめんなさい。私、大学辞めて、修二くんについていきたい」

 母が聞いてきた。

「修二くんは、いいって言ってるの?」

「ううん。でも」

「だめだ。とにかくだめだ」

 父が言う。

 

 榊原教授が口を開いた。

「神崎さん、あなたの気持ちは素晴らしいことだと思う。だけど、研究者同士の交際では、こういうことはよくあることだよ。原子核の大石先生、奥さんのこと、知ってるだろう」

 知っていた。大石教授の奥様は、宇宙論の明と同じ研究室で研究生をやっている。大石教授と離れないため、研究生という身分に甘んじているのだ。

「大学だろうが民間だろうが、女性が社会進出する上で、配偶者と自分の仕事と、どう折り合いをつけていくか、みんな苦労しているよ。だからまず、神崎さん、自分だけひどい目にあっているとは考えないでね」

 そうだった。真美もカサドンとのお付き合いを、その理由で躊躇していた。のぞみだって考えているだろう。

 それに比べて自分は考えていなかった。考えないようにしていた。お花畑の中で暮らしてきた。

 下を向いてしまう。

「それでも、それでも、一緒にいたいです」

 声を絞り出した。池田教授がそれに答える。

「神崎さん、一年、待てないかね」

「一年待って、どうなるんですか?」

「大学院大学ってあるだろう。東海村も、拠点の一つだ」


 池田教授の言う大学院大学とは、博士後期課程だけ設置している大学で、一つの大学ではあるのだが、拠点は全国の研究機関に散らばっている。修二も東海村でやっていくのであれば、博士後期課程はそちらになるだろう。

 

「東海村も、理論部門はある。そこに君を、推薦する」

「一年ですか」

「つらいだろうが、ネットでも話せるじゃないか。唐沢くんもときどきは札幌に戻ってくるだろうし」

「はい」


 そうは答えたが、気持ちが整理できたわけではない。

 

 しばらくして、父が発言した。

「杏、先生もそうおっしゃっているんだ。とにかく、博士号だけはとりなさい。博士号を取ったら、一人前だ。あとは自分の好きにしなさい」


 答えられなかった。理屈はわかる。そのとおりだと思う。しかし、自分に耐えられるか自信がない。なによりも、修二とはなれたくない。

 

 母が言いだした。

「杏、あんた、今日、修二くんのところに泊まりなさい」

 杏は母が何を言っているのか、理解するのに時間がかかった。

 最初に反応したのは、父だった。

「お、おい、何言ってんだ。俺は許さないぞ」

「あなた、修二くんに不満でもあるの?」

「いや、もらってもらえるなら、修二くんだと思うけど」

「だいたい、私達だって、結局は勢いだったでしょう」

「先方にもご挨拶とかあるし」

「既成事実作っちゃえばいいのよ。なんなら明日伺うわ」

「……」


 父が黙った。杏は気がついたら、涙が止まっていた。

 

 沈黙を破ったのは父だった。

「修二くん、こんなやつだけど、よろしくお願いします」

「は、はい、こちらこそよろしくお願いします」

 ゼミ室がどよめいた。

 

「あ、あの、私、心の準備ができてないんですけど」

 大事なところで小心者の杏である。

「そもそもさ、あんたたち、お互い好きって言ってないでしょ」

 のぞみが突っ込む。

 榊原教授が立ち上がった。

「みんな、二人に話し合う時間をあげよう。唐沢くん、今日、実験はいいよ」

 そう言って、みんながゼミ室を出るよう促した。

 

 電話も切った。急にゼミ室がガランとした。先刻の自分の状態を考えると、かなり恥ずかしい。会話をどう始めればいいか分からず、沈黙に支配されてしまう。

 

 どれだけ時間があったか、修二が口を開いた。

「神崎さん、お正月で、お見合い写真の話があったでしょう」

「うん」

「あれ、僕、こっちに持ってきてないんだ」

「え」

「あれね、東京に置いてきた。両親にね、結婚するならこの人だって、言ってね」

「……」

「だからね、僕も、本当は東海村へは行きたくない」

「でも、中性子やるなら、最高の環境でしょ」

「だから、物理屋としては、東海村なんだ。でも、男としては、札幌にいたい」

「私も、物理屋としては札幌だけど、女としては、東海村に行きたい」

「困ったね」

「うん、困ったね」

「だけどね、僕は神崎さんに物理を続けてほしい。だって、僕を物理に引きずり込んだのは、神崎さんだよ」

「でも私は理論だから、机とネットがあれば、どこでもできる」

「だめだよ。学位は取らなきゃ」

「論博目指す」


 博士号の取り方は二種類ある。大学院の博士課程に通って、指導教官のもとで博士論文を書くのが一つ。コースドクターとも言われる。もう一つは、優れた論文を書き、それをどこかの大学で学位論文として認めてもらうのが論文博士、略して論博ろんぱくという。企業で研究開発をしながら博士号を取る人はこれである。工学系に多い。

 

「それが難しいのは、神崎さんわかっているでしょ」


 わかっている。無駄な抵抗をしているだけだ。

 

「神崎さん、物理も、プライベートも、僕と一緒に歩いて行ってほしい」

「それって、プロポーズ?」

「うん、結婚したい。なんなら学生結婚でもいい。でも、一年だけ待って」


 嬉しかった。札幌に進学を決めたときより嬉しかった。でも、ひとつだけ気になっていることがある。

 

「修二くん、わかった。一年待つ。だけど条件がある」

「条件?」

「うん」

「条件とは?」

「私のこと、名前で呼んで」

「名前?」

「うん、杏って呼んで」

「杏さん」

「杏」

「杏、結婚してください」

「はい」


 ゼミ室のドアが開いた。池田教授と榊原教授が入ってきた。このタイミングで入ってくるということは、全部聞いていたことになる。

 杏は抗議したかったが、池田教授はそれを許さなかった。

「神崎さん、唐沢くん、なるべく早く、一回東京行ってきなさい。ご挨拶してくるんだ」

「先生、授業とか、実験とかは」

「そんなもん、どうでもいい。ですよね、榊原先生」

「そうです、唐沢くん、行きなさい。すぐ行きなさい」


 修二が両教授に言う。

「あの、今夜のことなんですが、そういうことは、さすがに、神崎さんのご実家にご挨拶してからにしたいんですが」

 杏としては不満である。しかし、心の準備ができていないのも事実だ。

「私も、そのほうがいいと思います」

 とりあえず、そう言った。池田教授は、

「ああ、それはそうだな」

 更に廊下に乗り出して、

「笠井くん、飛行機の空き調べてくれないか」

などと言う。遠くから「はーい」と返事が聞こえる。

「明日、二名、空きがあったらなるべく早い便で予約押さえてくれ。航空会社どこでもいいぞ」


 のぞみ、明、真美がゼミ室に入ってくる。

「聖女様、おめでとう」

「修二、よかったな」

 真美と明が祝福してくれる。のぞみは泣いていた。涙声で、

「今夜は飲もう。記憶なくすぐらいね」

と提案された。杏は

「うん、気持ちよく、記憶なくしたい」

と答えた。


 その日の夜遅く、SKD聖女様親衛隊で親衛隊長のつぶやきがあった。そのつぶやきはハートマーク二つだった。

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