聖女様は乱心する
雪がちらつく日が多くなってきた。札幌は北国と言うより雪国である。日本海を越えてシベリアから吹いてくる季節風のせいだ。自転車通学の杏は、大雪が降ると根雪になってしまい自転車を春まで大学においておくことになりかねない。最近は毎朝天気予報をチェックしている。
杏は修二による中性子散乱実験のデータと、自分の仮説からの計算結果を比べる毎日を送っていた。そんなある日、計算している杏のもとに、修二がやってきた。修二は実験に忙しいので、朝イチとか、昼食時とか、キリのいいときしか杏のところにやってこないので、珍しいことである。
杏としてはいつでも来てもらうのは嬉しいのだが、今日の修二は硬い表情である。
「神崎さん、ちょっと話があるんだけど」
「なに、どうしたの?」
「ちょっとここでは」
修二がそう言うので、ゼミ室に行く。
「コーヒー飲む?」
修二の表情がただごとではないので、杏は少しでも心理的クッションになればと言ったのだが、
「いえ、結構です」
と、修二はつれなかった。
杏としては不安でしようがない。東海村での実験は、修二が聖女効果を排除したので問題ない。星見キャンプも楽しかった。最近は無理に修二のところに押しかけて、嫌われるようなことをした記憶も無い。
そうなると、修二が自分に飽きたのか、それとも好きな人ができたのか。
ゼミ室のテーブルを挟んで向かい合う。修二は黙ったままで、なかなか口を開いてくれない。時間ばかりが過ぎていくのに耐えきれず、杏は修二に言った。
「で、どうかしたの?」
「うん」
少しまた時間が経ってしまったが、修二が口を開いた。
「東海村の新発田先生ね、倒れたって聞いた?」
「うん、聞いた」
「でね、かなり悪いらしいんだ」
「そうなんだ」
杏も知らない人ではない。九月に東海村に行ったときはのぞみと二人、随分とお世話になった。お嬢さんにも会ったが、かわいい子だった。将来は研究者になりたいと言っていた。
実は日本の中性子実験は、尊い犠牲の上に成り立っている。加速器によって中性子を発生させる施設がまだ筑波にあった時代、中性子実験施設のトップが複数、任期中に亡くなっている。激務ゆえと言われている。中性子のメンバーは皆、そんなことは百も承知で新たな知識を探求している。
「でね、近いうちに榊原先生がその代理として、東海村に行くことになったんだ」
「そう、たいへんだ」
「でね、榊原先生は僕の指導教官だから、僕も東海村に行くことになりそうなんだ」
「え?」
指導教官の移動により、指導される院生が移動することもある。大学院ともなれば専門性が高く、簡単に指導教官を変えることはできない。つまり修二は先日のように出張で東海村に行くのではなく、東海村で生活していくということだ。
「籍は札幌においたままで、実質的な研究は東海村で、のこっている講義はネットで、という方向で話がすすんでいるんだ」
修二の声が、遠く遠く聞こえる。気がつけば杏の両の目から、涙が連続的に流れている。杏は、自分の思考よりも感情のほうが状況を正確にとらえていることを自覚した。
修二も黙ってしまった。杏は涙でぼやけた視界の向こうの修二を見つめる。物理的にぼやけて見えるのか、心理的にぼやけていくのか。テーブルの向こうの修二が、十メートルも向こうに感じられる。
杏はふと思いついた。やめてしまえばいい。物理なんか、やめてしまえばいい。
「修二くん、私、大学辞める。修二くんについていく」
「いや、それはだめだよ。神崎さんは神崎さんの物理を続けないと」
「そんなもの、どうでもいい。勉強だったら、机とネットがあれば、どこでもできるし」
「現実はそうもいかないでしょう」
「私今わかった。修二くんのいない生活は、無理。イヤ」
「神崎さんの気持ちは嬉しいよ。でもね」
「イヤなの。無理なの!」
叫んでしまった。
そこからは声をあげて泣いた。わんわん泣いた。




