聖女様は降参する
月曜日、杏はいつものように研究室八時着になるように家を出た。昨日からちらつき始めた雪はまだ続いている。積もるような雪ではないが、空は昨日以上に暗い。昨日、中性子実験のデータの問題について、正直に教授たちに話をする決断をしていた杏であるが、一晩経つと再び気持ちが重たくなってきていた。天気も悪いしそもそも昨日大学に自転車を置いてきたので徒歩の足も重い。
家を出るとき手袋を忘れてきてしまったので、手が冷たい。理学部棟の中は暖房が効いてているだろうと思うと、重かった足も早くなる。
暖房に期待して理学部棟のドアを開けると、修二がいた。
「神崎さん、顔が怖いよ」
「え?」
挨拶も抜きに意外なことを言われ、杏は緊張を忘れた。
「僕も一緒に行くから、大丈夫」
「ありがとう」
とりあえず杏は修二と別れ、各自の居室に向かった。杏は自分の顔がこわばったままなのか、笑顔になっているのかわからない。でも、強い強い味方が現れ胸が暖かくなったことだけは確かだ。荷物を置いて、榊原研に向かう。榊原研前の廊下で、修二が待っていた。
「榊原先生は、あと三十分くらいで来ると思う。それまでゼミ室に居ようか」
修二はゼミ室へ杏を案内し、コーヒーを淹れてくれた。
「修二くん、ありがとう。せっかくみんなでデータ処理してくれたけど、正直に言うから」
「うん、必要なときはサポートするから」
しばらくしたら、のぞみと明が顔を出した。のぞみが手を振っている。
「やっほー」
意味不明の挨拶をして入ってきた。杏もいい言葉が思いつけず「ヤッホー」と返した。
雑談しながら榊原教授を待っていると、
「あれ、君たちどうしたの?」
と榊原教授が出勤してきた。修二がすかさず、
「こないだの中性子の実験についてわかったことがあるので、朝イチでご報告をと……」
「あ、そう。で、なんで岩田くんもいるの?」
「僕もデータ処理手伝ったので」
「ふーん、君たちがそろっていることからすると、網浜先生と池田先生呼んだほうがいいか」
榊原教授はそう言いながら、出ていった。
杏は修二たちと顔を見合わせていると、榊原教授が電話する声が聞こえてくる。
のぞみは、
「なんだか大事になっちゃったね」
と言った。明は、
「どうせさ、先生たち全員に説明しなきゃいけないんだから、一回で済んでいいんじゃない?」
などとのんきなことを言っている。杏にはそののんきさが助けになった。
もともと教授たち三人分の資料は用意してあったから、ゼミ室の教授たちが座りそうな席に置いていく。なんとなく座って待つ気にもならず、四人とも立って待つ。
教授たちはすぐやってきた。
「で、どうしたの?」
榊原教授が話をするよう促した。杏は仲間と目線を交わし、話し始める。心拍数が跳ね上がるのを感じる。
「今回の実験のデータですが、ある時間帯だけデータが乱れており、それ以外の時間帯ではきちんと測定できていることを、唐沢くんが発見しました。そのデータの乱れの原因ですが……」
「どうせ神崎さんが実験中にデータのぞいたんだろ」
小声で池田教授が呟いた。
杏は話を続けることができなかった。
しばらくゼミ室を沈黙が覆う。その沈黙を破ったのは、またも池田教授だった。
「僕は実験屋じゃないからさ、測定の問題はどうでもいい。とにかく測定結果を説明してよ」
それからは昨日仕上げたグラフ類の説明をした。議論は実験のトラブルにかかわることでなく、理論と現象の一致不一致になった。詳細は主に池田研で解析することになり、解散となった。
解散とはなったが、杏はどうしても一言謝りたかった。
「あの、今回は本当に申し訳ありませんでした」
網浜教授は、
「ああ、聖女効果は緒方さんから散々聞いていたけど、本当にあったんだね」
と言った。
「かと言って、科学者である私達がそれを認めるわけにもいかないしね」
網浜教授は手をひらひらと振って出ていいた。
杏をはじめ院生四人はどっと疲れ、すぐには立ち上がれなかった。教授三人はそろって出ていったが廊下から、
「ね、最初から僕が言ってたとおりでしょう」
という池田教授の声が聞こえてきた。測定結果が池田教授の理論的予想通りなのか、実験のトラブル原因が池田教授の推測通りなのか、どちらのことを言っているのかはわからない。
「聖女様、これにこりて実験中に余計なことしないでね」
杏はのぞみの指摘にうなずきそうになったが、先程網浜教授が言ったことが気になった。
「のぞみ、網浜先生にいろいろ言ってくれてるみたいじゃない」
「うん、言ったよ。網浜先生、嬉しそうに聞いてくれるんだもん」
「ちょっとひどくない?」
「そうかな? 大学一年から学生実験で誰が一番被害を受けてきたと思う?」
杏はのぞみに決めつけられてしまった。しかし、一矢報いたい。
「優花かな、イテッ」
のぞみが杏のほっぺたをつねった。




