聖女様は待つ
約十日間、杏は耐えに耐えた。修二の不在に耐え、実験の不調に耐えた。今日は修二が帰ってくる日である。修二は遠慮していたが、強引に帰りの便名を教えてもらったので千歳まで迎えに行くことにしていた。夕方着の便なので、いつもどおりに大学に出て、午後までは通常業務をこなす予定だ。
別に今日の業務をはやくしたところで修二が早く帰ってくる訳では無いが、いつもより早めに家を出てしまう。十月も下旬に差し掛かろうかという札幌、着実に冬が近づいているのを感じる。
大学のイチョウ並木も色づいてきていて、研究室の幸一から落ち葉の上は滑りやすいと聞いていたので、自転車を慎重に走らせる。毎日のことだがまだ学生の姿はほとんどない。
理学部棟に入り、居室の鍵を開ける。まだ誰も来ていなので、自分のペースで研究できる貴重な時間だ。杏たちの実験は今朝早くに終わったはずだが、まだ生データを見ることはしない。それはしないで、もう何度もやってみた昨日までの実験データの処理をしてみる。ノイズを除去するパラメーターをいろいろ変えてみるが、有意なデータは見えるような見えないような、微妙なところである。
とりあえずグラフを紙にプリントアウトし、鉛筆でデータの信頼できそうなところを曲線でつなぐ。
そうしておいて、杏の予想する理論値を、相互作用の強さをいくつか変えて、これまたグラフにしてプリントアウトする。
実験のグラフ、理論値のグラフを並べたり、重ねて光にすかしてみたりして、なにか重要な情報が得られないか探る。
傍目から見ればとてもプロっぽい仕草であろうが、実は何も得られるものがない。こんなことをしていると十時近い。いつもならそろそろデータが送られてくる時間だ。パソコンのモニター上でいくつも並んでいるウィンドウのうち、メーラーのウィンドウを最前にする。
今か今かと待ち構えていると、スマホに着信があった。修二である。
「もしもし」
「神崎さん、おはよう。ごめん、今日、帰れなくなった」
胸が痛むほど、がっかりした。しかし帰れないには帰れない事情があるのだろう。
「なにかあったの?」
「今回の実験、データが荒れてるでしょう。すこしこちらのスタッフと話がしたくて、僕だけ少しのこることになった。先生は講義もあるから、そうもいかなくてね」
「うん」
「あとね、東京の両親がね、どうしても家に顔を出せってうるさくてね。今夜東京に泊まって明日帰るよ」
「そっか、修二くん、夏も帰ってないもんね」
「そうなんだ。さすがに断りきれなくてさ。明日の午前の便で帰るよ」
「うんわかった。迎えに行く」
「ええ、いいよ。忙しいでしょ」
「いや、行く。とにかく行く。行くったら行く」
「ははははは、じゃ、お願いするよ。十一時に到着予定」
「了解」
通話を切り、池田教授の部屋に向かう。ノックして返事を聞いて入室する。
「どうした神崎さん」
「先生、明日の午前中、お休みしてもいいですか」
「あ、お迎えか、いいよ」
「なんでわかるんですか」
「神崎さんが物理放り出して休むなんて、他にないだろう」
「すみません」
「なんなら明日一日休んでもいいぞ」
理解のある指導教官である。もともと今日の夕方迎えに行くために早退する許可をとっていたから、明日の午前の作業を今日のうちにやればいい。それだけのことである。
うまいことに、居室に帰るとメールで最新のデータが来ていた。
昼食のとき、のぞみに声をかけられた。
「いよいよ、今日だね」
「いや、明日になった」
「え」
のぞみが絶句している。
「聖女様、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「今夜、聖女様の家、行くよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫でも行く」
「ありがと」
いつもののぞみは杏を茶化したりする奴だが、やっぱり長い友達だ。大事なところでそばにいてくれようとする。遠慮せず、甘えることにした。
「そんなら、真美ちゃんにも連絡しとくか」
のぞみは女子会モードに突入し、スマホで連絡を始めた。
夕方、榊原教授が大学に顔を出した。池田研究室に来てお土産の帝大ブランドミドリムシクッキーを置き、杏のところにやってきた。
「神崎さん、唐沢くんの帰りがおそくなってごめんね」
「いえ、必要なことなんでしょうから」
杏は本心とは正反対の答えをした。
杏の家で行う女子会はいつも、杏の家にバラバラに集合である。のぞみと真美は実験だから、実験のきりがいいところまでやるしかなく、女子会の都合など知ったこっちゃないのである。
だから買い出しも杏の担当で、レシートをとっておきあとで割り勘である。ただし飲みたい酒は各自持参する。杏はワイン、のぞみはビール、真美は日本酒である。
杏はスーパーで、適当に肉や野菜を買っていく。真美が嫁にほしいと思うほどの腕をもつのぞみが、適当に調理してくれる。杏は食べないが、刺し身とかホッケとかも買っておくと、二人がよろこんで食べてくれる。朝食用のフランスパンも買う。親衛隊発覚時以来、女子会明けの朝食はフランスパンということになっている。誰かの機嫌の悪かったときは、八つ当たりのターゲットにもなる。
今夜の集合は早かった。杏がスーパーから帰ってきたら、二人共入り口で待っていた。
「ごめん、またせちゃった」
「ううん、早く飲みたかっただけ」
一升瓶を見せて、真美が笑う。真美一流の気の使い方だ。
「聖女様、これ、明くんが持ってけって」
そう言ってのぞみが見せてくれたのは、なんだか高そうな赤ワインである。明はふざけたやつだが、ときどきこういうことをするので困る。のぞみが惚れるのもわかる気がしてしまうのである。
集合が早かったので、今夜は最初からのぞみの料理でスタートした。杏は適当に食材を用意しただけなのだが、トマト系のパスタからスタートし、いろいろと美味しい料理を用意してくれる。真美はいつものように、
「妾になれ!」
などと言っている。
かなり気持ちが良くなったころ、杏のスマホに着信があった。修二である。
「もしもし?」
「ああ、神崎さん、夜にごめんね。父と母が、神崎さんとお話したいっていうんだ」
「え、は、はい」
一気に酔いがさめた。電話越しに上品な女性の声が聞こえる。
「杏さん、修二の母です。いつも修二がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ、お世話になっています」
こんなことなら、飲まなければよかった。ピンチである。
「つぎにこっちにいらっしゃることがあったら、ぜひうちに寄ってください」
「あ、はい、うかがいます」
「杏さんですか、父です。ほんと、一度、来てくださいね」
「はい、かならず伺います」
修二に代わった。
「神崎さん、急にごめんね。また明日ね」
「うん、明日ね」




