聖女様は母になる
家に帰って、シャワーを浴びる。24時から実験だから、今できることは何もない。修二は東海村で実験直前の作業に忙殺されているだろうから、SNSで連絡することは遠慮する。
実験の人は羨ましいと思う。最新のデータを、目の前でリアルタイム見ることができるからだ。
実は杏もリアルタイムで見ることはできる。そもそも今どきの実験は、コンピュータによる制御下で行われる。そのコンピュータもネットワークに繋がれているから、実験機材に直接繋がれているコンピュータで機材を操作することもできるが、ネットワーク上の他の端末から制御用のコンピュータにログインし、操作するのが一般的だ。操作する端末は、制御コンピュータのあるローカルのネットワークに繋がっている必要すらなく、インターネット経由で他の場所からも制御できる。
それを利用すれば、自宅のパソコンからログインすると杏も実験機材を制御できるのである。制御自体は現場の修二たちに任せるべきであるが、収集中の生データをみることは問題ない。そのあたりのやり方は、九月に東海村に行ったとき、新発田教授にばっちり教わっていた。
しかし杏は、夕食時にのぞみに釘を差されたように、実験中の制御コンピュータへのログインを修二から禁じられていた。言うまでもなく、聖女効果を排除するためである。
今は午後九時。まだ実験は始まっていないし、おそらく実験室にはそれなりに人数がいるだろう。今ログインすると、ログイン数やログインしているユーザーをモニターされていたら、ばれてしまう。深夜になれば、不寝番の一人くらいで実験しているだろうから、ばれない可能性が高い。
杏は目覚まし時計を午前三時にセットし、寝酒を飲んでベッドに入る。日頃であれば午後九時に寝付くなどありえないのであるが、アルコールの力を借りてすぐに寝入ることができた。
目覚まし時計の力で午前三時に目覚め、ログインしても、データはよくわからない。データが見事に荒れていて、ほしい信号がノイズの嵐にまぎれてしまっているようだ。これは実験の専門家でないとどうにもならなさそうだ。
長時間のログインは危険なので、データを見たら素早くログアウトし、再び布団に入る。
寝れない。自分たちの実験が測定中だと思うと、興奮してしまう。
プロの人達は長期間の実験であっても体調を維持するのであろうから、すごいものだと思う。そんなことを考えていたら、いつの間にか寝ていたようだ。
朝になり、眠たい目をこすりながらも大学に向かう。
朝八時、研究室についていつもの作業を始める。その日の作業内容を確認し、他人に邪魔されないうちに計算しておきたい微妙な計算を優先して行う。九時すぎには東海村から修二のメールが入り、生データをもらう。
新発田教授に教わったとおりにデータをグラフ化する。なにがなんだかわからない。未明に覗いたときもそうであったが、猛烈なノイズに信号が埋もれているようである。
専門家は、ここから適切な処理をして有益な情報を得るのかもしれない。直接電話で聞いてみたいところではあるが、作業中かもしれないし、徹夜明けで寝ているかもしれないので、修二にSNSでノイズの除去方法を質問しておいた。
こうして実験データの検討をしながらも、いつもと同じルーティーンをもこなす。こなすのであるが、睡眠不足でパフォーマンスが下がっているのか、計算ミスが多い。
今杏が望むことは三つ。
実験がうまくいくこと。
実験と並行して、実験以外の研究を通常通り進めること。
そして修二が早く帰ってくること。
今日の昼食も、学食でボソボソハンバーグカレーである。別に学食が悪いのではない。自分の精神状態でそう感じるだけであることは自覚される。味覚が低下しているのであれば、苦手な生魚を夕食に食べてみてもいいかもしれない。栄養バランス的に、たまには魚をたべるのは有益だろう。
研究室のメンバーとの会話もはずまず、そんなことを考えていたら、スマホに着信がある。画面を見れば修二からである。飲み込みかけのハンバーグが喉に詰まる。
早く出たいのにハンバーグのせいで出れず、悶絶していると、切れてしまった。
水を飲んで心を落ち着け、とにかくかけ直す。
「ごめん、ちょっと出れなかった」
「やっぱり食事中だった? ごめんね」
「ううん、連絡くれてありがと」
「でね、データなんだけど、こっちでもちょっと困ってるんだ」
「そうなんだ、私の処理の仕方がおかしいかと思ったんだけど」
「こちらとしては、なんらかの機材の問題かもしれないと思って、調べてるよ」
「わかった。ところでそっちはどう?」
「うん、あったかい。Tシャツの上に、神崎さんにもらった作業着でちょうどいいくらい」
顔が赤くなる。
「ちゃんと睡眠とれてる?」
「うん、僕の担当が深夜から未明だから、このあと夕方まで宿舎で寝る予定」
「無理しないでね」
「ありがとう。まだこれからだからね」
「食事は?」
「ああ、ご飯が多いね」
「やっぱり。でも美味しいでしょ」
「うん。太っちゃうかもしれない」
「ははは、洗濯とかしてる時間ある?」
「工夫すれば大丈夫だよ」
いつまでも喋っていたいが、忙しい中無理して電話してくれたのだろうから、早めに通話をきることにする。
「長話してごめんね。早く寝て」
「うん、そうするよ。なんかわかったら連絡する」
「うん、おねがい。がんばってね」
「うん、じゃ、また」
電話を切ったら、研究仲間の田村幸一と目があった。
「なんだか、お母さんみたいだね」




