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聖女様は友を気遣う

 修二に実験装置の詳細を聞いた翌々日、杏はざっと立てた実験計画を携え、またも修二の許を訪れていた。

「サンプルを液体ヘリウム温度に冷却するのに二時間、そこから温度一度刻みで上昇させながら実験すると……」

 修二が気づいてくれた大事な情報に最初に触れつつ、説明を始めると、いきなりストップがかかった。

「神崎さん、サンプルのサイズは?」

「え、サンプルのサイズは、試料容器いっぱいじゃないの?」

「う~ん、単結晶だと、サンプルは小さいんじゃないかな。ものによっては大きなサンプルが用意できる場合もあるけど」

「複数の単結晶を容器に詰め込むことはできないの?」

「うん、サンプルの量があればそうする。だけど、その量が用意できない場合も多いよ」

「そうか、それはのぞみに聞かないとわかんないね。あとで聞いてみる」

 がっかりして杏は、荷物をまとめようとした。それも修二はストップをかけた。

「神崎さん、試料容器いっぱいの仮定で、とりあえずの話を聞かせてよ」

 杏はハッとした。サンプルのサイズが小さい分には、極端なことを言えば測定時間を長くすればなんとかなる。サンプルのサイズ以外でも、杏が見落としている部分はあるかもしれない。修二は「とりあえず」の表現で、さりげなくそれを指摘してくれている。

「修二くん、ありがとう。それじゃあ……」

 杏は説明を続けた。

 

 修二への説明のあと、杏はSNSでのぞみに連絡した。「サンプルのことでちょっと話したい」と。しばらくして返事があり、昼食時に話せることになった。のぞみの午前の作業が終わったら連絡をくれることになった。

 

 お昼になり池田研のメンバーが昼食へと席を立つ際、杏はのぞみと昼食を食べることを話し、みんなには先に学食へ行ってもらった。杏の居室は昼間でもみな各自の研究をやっているので静かだが、昼食のため人気がなくなると、また別の静けさに包まれたように感じる。真夏なので開け放たれた窓からは、学食へと向かう人々の話し声が聞こえる。のぞみから連絡があるまで勉強をつづけるつもりであったが、なにかのんびりとした気分になってしまった。窓に向かい、緑の濃いキャンパスを見渡す。

 

 極端なことを言えば、理論の研究は世界中どこでもできる。机とネットがあれば十分だ。現実問題としては、まわりの人に恵まれている方がいい。ここ札幌の池田研はその点について満足できる。教官にも仲間にも恵まれている。

 杏は大学時代、家族旅行でパリにいったことがある。そのとき小さな公園に、磁性研究の先人ランジュバンの名がついているのを見て興奮したことを思い出す。当時のパリは、物理学のみならず世界の文化の中心のひとつであったのだろう。しかしパリの風土は百年前でもやはり都会らしいものであったにちがいない。

 それにくらべこの北海道は、道庁所在地札幌であってもひろびろとした独特の空気がある。この空気にどっぷりと浸って勉強できる自分の環境を杏は気に入っていた。

 人が集まるといえば、原爆開発のためアメリカのロスアラモスに優秀な物理学者が集められたことがあった。アメリカのことだから大自然に囲まれてであろうが、戦争の足音は砂漠の真ん中にまで伝わっていただろう。

 量子力学の発展期には、コペンハーゲンに人が集まっていたらしい。北欧のコペンハーゲンの空気は、札幌とどう違うのだろうか。いちど行ってみたい。


 そんなことを考えていたら、声をかけられた。

「ごめーん、おそくなった」

「あれ、連絡くれるんじゃなかったの」

「なんか、直接来ちゃった」

 杏は「あはは」と笑いだながらも、のぞみの格好が気になった。上半身はTシャツ、下半身は見覚えのあるカーゴパンツ、そしてなんだかごついスニーカーである。じっと見ているとのぞみが、

「待って、いいたいことはわかる」

と言う。杏としては、

「いや、実験大変なんだな、と思っただけ」

「うん、大変だよ。だけど超充実してる」

「そうなの?」

「そうだよ。うまくいけば、世界中で私だけが作れたサンプルだよ。世界の最前線に私は立てる」

 杏は衝撃を受けた。自分の学問はまだまだ最前線に追いついていない。あとどれくらいの期間で追いつけるかもわからない。でも知らないうちにのぞみはそれに手をかけ始めている。

 そう考える杏をみて、のぞみが言う。

「うまくいけば、だよ。まだまだ、これからだよ」

「そうか、かんばってね」

「うん、これは私の研究なんだ。聖女様や修二くんの研究にも繋がるけど、とにかく私が成功させないと」

 初めてみるのぞみの気迫に言葉を失う杏であったが、気を取り直して聞くべきことを聞いた。

「そのサンプルだけど、大きさはどれくらいになるかな?」

「長さは、数センチくらいになると思うけど、直径は正直数ミリにしかならないと思う」

「束ねて測定器の容器に入れることはできるかな?」

「それだけの量をつくれるか、時間との戦いになる。酸素濃度も何種類か変えたものを作らないといけないし」

「現段階で、どれだけできたの?」

「ごめん、まだ全然。うまく行く方法を探している段階。網浜先生はね、できるようになったら、どんどんできるようになるって言ってくれてるんだけど、できるようになるまでどれくらい時間がかかるか、見当もつかない」

 杏は、問い詰めたようになってしまったみたいで、のぞみに申し訳なく感じた。

「聖女様、そんな顔しないでよ。私はやるよ。一回でも多くトライしてみるしかない」

「ねぇ、ちゃんと休んでる?」

「それは気をつけてる」

「本当? 少しは気分転換したほうが良くない?」

「じゃあさ、今度の日曜、襟裳岬連れてってよ。一度行ってみたい」

「わかった。私一度行ったんだけど、早朝に出発すれば、道もスイスイだった」

「スイスイと聞くと、ちょっと運転が怖いな」

 のぞみは支笏湖でのドライブが相当怖かったらしい。

「大丈夫、安全運転するから」


 のぞみのお腹が音を立てた。学食へ急ごう。

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