聖女様は夏の予定を考える
お盆は川崎の実家に帰らないとののぞみの発言を聞き、杏はいまさらながらお盆休みの計画をなんにも考えていなかったことに気づいた。現在、ゼミなど以外の杏の仕事は以下の二つである。
1 池田教授の進める高温超伝導発現機構モデルの数値計算
2 修二の十月の中性子実験についての予備評価
この二つを並行して進めるのはなかなかしんどい。特に今まで理論一本やりでやってきた杏には、実験についての計算は未経験のことだらけである。さらに杏は気になっていることがあった。それは六月の雑誌会で紹介した超伝導体における局所的対称性の問題である。あの論文では高温超伝導体については触れられていなかった。もし、高温超伝導物質で、一部の原子を置換することにより反転対称をやぶることが局所的にできれば、あの論文で触れられたようなことが発生するのではないか。もし発生したら測定にどう引っかかってくるか。
気になってはいるのだが、雑誌会後池田教授からの指示は何もない。でも調べたい。杏は夏休み中にやってみることにした。他の仕事を遅らせるわけにはいかない。したがってお盆休み中にすることにした。
ここで問題になるのが実家である。ゴールデンウィークも帰らなかったのだから、たまには顔を見せないとまずい。パソコンさえあれば実家で研究できない訳では無いが、やはり不便だ。とにかく母に電話してみる。
呼び出し音が何回か鳴ると、つながった。
「おかあさん?」
「杏、久しぶり」
父である。
「あれ、これお母さんの電話じゃないの?」
「そうだよ」
あれこれ言っても無駄かと思い、話を続けた。
「あのさ、お盆なんだけどさ」
「ああ、こっち帰ってこなくていいぞ」
「はい?」
「今年は二人でそっち行くわ」
「ホテル取ったんだ」
「いや、杏の部屋に泊まる。狭いけど、まあなんとかなるだろう」
「そうなんだ」
「だけど、車は借りるぞ。お母さんと一緒にドライブする。どうせ杏はお盆も勉強する気だったんだろう?」
お見通しであった。
のぞみに電話した。
「のぞみ、私もお盆川崎に帰らないことになった。両親がこっち来るって」
「そっかー、いいなぁ。私も聖母様に会いたいなぁ」
「うん、伝えとく」
のぞみへの電話はそれだけだったのだが、翌日親衛隊SNSに「聖母様 来道」なる投稿があった。のぞみ→明と情報が伝わったのだろう。ただ、杏も知らない両親の乗る飛行機の便名まで掲載されていた。
翌日朝八時に研究室に出た杏は、夏休み中の時間割を考えてみた。午前中は中性子実験についてやることにする。杏は実験経験がないので、わからないことは榊原研に出向いて質問するしかない。実験の最中に割り込んで質問する訳にはいかないし、夕方にしても修二をはじめ実験の人々は終わるまで帰らない勢いでやっている。よって作業が始まる前の朝イチで質問するのがお互いよい。
午後は数値計算である。理論屋ならではの仕事であるので、じっくり時間をかけたい。
杏独自の研究となる高温超伝導体における局所的対称性の問題であるが、帰宅後自宅でやることにした。教授にはだまってやる仕事であるので、あまり人の目に触れないほうが良い。ただ、自宅での作業だけでは絶対的に時間が足りないのは目に見えているので、日中の研究中、時間の合間を見てやることにもする。研究中、なにか詰まってしまったときは、他のことの研究を行うと、いい気分転換になるものである。ゼミの準備とか、教科書の勉強なども気分転換代わりになるだろう。
早速中性子の実験について考え始めたのだが、そもそも修二にどんな実験ができるのか聞いていなかったことに気がついた。東海村の実験施設のホームページを見てみたのだが、実験するための機材がたくさんある。実験目的により使い分けているのだ。修二の使う機材はどれだろう? 仕方がないので修二が来る十時頃まで、中性子散乱実験の一般的なことを勉強することにした。
十時を待って、修二にSNSで連絡する。
「もう着いた?」
「今ついた」
「ちょっと聞きたいことがあるから、榊原研まで行く」
「こっちから行こうか?」
「資料はそっちのほうがあると思う」
「了解」
榊原研に着くと、修二は杏をゼミ室に案内した。広い机のほうがやりやすいだろうとの判断だ。
「ちょっと待ってて」
修二はそう言って、一旦居室に戻った。杏は、修二のことだから中性子の実験の話だと見当をつけて資料を取りに行ったのだと考えて待った。そして確かにちょっとで修二は戻ってきた。手にはファイルやらノートやら、資料をたくさん持っている。
「コーヒーでも飲む?」
「ありがとう、でも長居したら悪いから。で、今度の実験だけど……」
忙しい実験系の人のことを考え、杏はさっそく本題に入る。実験機材の名前、その機材の特徴、各種データ、確保できそうな実験時間など、聞きたいことは山程あった。片っ端から聞いていると、もう十時半を過ぎている。
「ありがとう、またわからないことがあったら、教えてね。長時間ありがとう」
「僕としてはいつでもOKだよ。じゃ、また」
杏から見て、修二はちょっと名残惜しそうだ。でも心を鬼にして、池田研へともどる。廊下へ一歩踏み出せば、もう早く計算したい気持ちでいっぱいだ。
居室に帰って、サンプルを構成する原子の散乱断面積をもとに、一つ一つの測定にかかる時間を予測する。なぜなら、確保できるマシンタイムで、何回の測定ができるか、それによって実験の細かさを変えなければならない。しばらく計算して、杏は修二に大事なことを聞き忘れていたことに気づいた。サンプルを室温から液体ヘリウム温度まで冷やすのに、どれくらいの時間がかかるかによって、一つのサンプルを測定するのにかかる時間がかなり影響されてしまう。
修二にSNSで聞いてみようとスマホを取り上げる。するとSNSにはすでに修二からの着信があった。
「一回の冷却に約二時間かかるよ」
書き込みの時刻は、修二と別れた直後であった。
杏はうれしくて、つい事務椅子の上でくるくる回ってしまった。
「あんたぁ、なにしとるん」
ニヤニヤしながら椅子で回転しているのを池田教授に見られてしまった。




