聖女様は輪講を始める
雑誌会も終わったので、金曜夕刻のM1の輪講を始めた。杏が雑誌会で発表できなかった論文の輪講である。初日は言い出しっぺの杏が担当した。会場ははじめ池田研、榊原研、網浜研のゼミ室をもちまわりで使わせてもらうつもりだったのだが、三研究室のM1だけで八名、オブザーバーとして四年生やM2も出たがるものが続出し、教室を使わせてもらうことになった。ゼミ室のホワイトボードは小さいし、ペンがすぐ乾くのでペンのキャップに気をつけないといけない。その点教室の黒板は大きいし、チョークは扱いが楽である。
午後五時、杏が黒板の前に立つと、池田研のM1・M2さらに四年生が勢ぞろいし、他の研究室もほぼ同様で、十五名になっていた。杏としては参加者が何人いてもかまわない。多ければ多いほどいい。
「では、時間ですから始めます。集まってもらってありがとうございます」
「聖女様、かたいよー」
のぞみがちゃちゃを入れてきた。
「私としては、気楽にやりたいと思いますので、何か質問、意見、間違いの指摘などは、話のと中でかまわず入れてください」
イントロダクションから始め、古典的BCS理論ではうまくいかない部分を論文どおり紹介していく。杏は夢中になって喋った。必要に応じ、論文に出ていない式展開も黒板に書き連ねていく。
「聖女様、ストップ。時間だよ」
杏は喋りだしたら止まらない自信があったので、のぞみに時計係をお願いしていた。五時四十五分であった。
「では、なにかご質問は」
初回のためか、みな黙っている。杏は、あらら、と思っていたら修二が挙手した。
「神崎さんのお話では、高温超伝導体での超伝導発現機構に、格子振動が関連していないというお話でしたが、実験的な根拠はどうなんでしょうか」
高温超伝導以前の「ふつう」の超伝導は、結晶をつくる原子が熱で振動する「格子振動」をとおして発生すると考えられている。それと高温超伝導との違いを修二は質問してきたのだ。修二がそのあたりの事情を知らないはずはないので、四年生への教育的な配慮からの発言だと杏は思った。そのため、回答もていねいにすることにした。
「古典的超伝導では、原子を同位体に置換すると、原子の質量の半分の二分の一乗に反比例することが実験的に知られていますが、高温超伝導体ではそれが観測されていません。参照論文の……」
修二・真美を始めとした院生はみな、うんうんと頷いているが、四年生たちは参照論文リストをチェックしている。修二の目論見どおりである。
「同位体効果はですね、式的には……」
杏が黒板で説明を始めようとしたら、池田研M2の関根の待ったがかかった。
「神崎さん、それは池田研の四年生にやってもらたほうがいいよ。笠井くん、本田くん、来週までに二人で調べておいてよ」
カサドン、本田の二名はあちゃーという顔だが、関根はニヤッとしている。
「あと、高温超伝導体の同位体効果は、二千四年のネイチャーに面白い論文がでているはずだよ。こっちは実験のM1のひとが調べてみるといいんじゃないかな」
「私、調べます」
のぞみが手をあげた。
翌週はカサドン、本田の二名により同位体効果の導出から始まった。二人は交代で説明しながら、黒板に式をどんどん書いていく。
「笠井くん、その式12から13は、自明とは言えないと思うよ」
「え、そうですか」
「うん、12からきちんと式変形してみようか」
カサドンは式を書き始めたが、途中でつまってしまった。しばらく待ってから杏は黒板に行ってかわりに続きの計算を書き込んだ。
「なるべくていねいにチェックしといたほうがいいよ」
「はい、すみません」
カサドンだけでなく、本田も下を向いてしまっている。杏はちょっとやりすぎたかと思い、
「笠井くん、わからないことはわからないでしかたない。どうしようもないときは人に頼っていいんだよ」
と声をかけた。
「そうそう、聖女様だって、一年前はボロボロだったしね」
のぞみが言う。振り返ると去年の輪講を知る修二はうんうんとうなずいていた。
つづいてのぞみによる高温超伝導体の同位体効果の話になった。よく調べていると思うのだが、修二がときどき質問している。
「すみません、ちょっとそこわかりません」
「あ、ここですか。けれはですね……」
修二とのぞみのやりとりを聞いていると、基礎的なことにも触れていて、自分の理解のためだけでなく、他の参加者のことも考えて発言していることが伺われた。
輪講二日目は結局もとの論文にもどれず、関根の発案で来週田村が先週の続き部分を紹介することを決めて終わった。みんなで学食で夕食をとる。
夕食後、各研究室に散る。先週の杏は研究室にもどらずのぞみと一緒に帰宅したのだが、今日は関根に話がしたかった。
「のぞみ、今日、ちょっとだけ研究室で話してくる。先に帰っていいよ」
のぞみは杏の表情を見て、簡単にわかってくれた。
「あんまり遅くならないでね」
池田研ゼミ室に行くと、予想通り関根がコーヒーを啜っていた。
「関根さん、先週、今週とありがとうございました」
「なにが?」
「私、物理となると自分の世界に入り込んじゃって、他の人のことまで考える余裕がなくなっちゃって」
「あーそれか、でもいいんじゃない」
「いいんですかね」
「いいんだよ、緒方さんとか、唐沢くんとか、うまくフォローしてくれるよ。それどころかさ、余計なこと考えると、神崎さんのよさがなくなっちゃうよ」
「そうですか?」
「そうだよ、人のこと考えたら、カサドンに突っ込めなかったんじゃない?」
「そうかもしれません」
「いつかさ、神崎さんがさ、次の世代をひっぱっていくときまでに身につければいいんだよ。それに今日はカサドンのためになったよ、間違いなく」
「ありがとうございます」
「いいから早く帰んなよ。池田先生に怒られるぞ」
「はい、失礼します」
階段を降りて玄関にでると、のぞみがいた。
「あれ、帰ったんじゃないの?」
「飲もう!」
「ありがと」




