聖女様は運転手をつとめる
雑誌会もおわった六月半ば、北海道は梅雨もなく、さわやかな日である。杏が大学の居室で勉強していると、榊原教授が修二を伴って現れた。
「神崎さん、大変申し訳無いんだけど、明日の午前、新千歳まで行ってくれないかね」
「はい、私はいいですが池田先生に聞いてみないと」
「池田先生には言ってあるよ。実はフランスのアラン教授が日本に来ててね、中性子の実験をしていたんだけど、終わったからうちの研究室を見たいと言ってるんだ」
「アラン教授はどんな方なんですか?」
「重い電子系の大家だよ。初期から関わっている」
「そうですか。でも、なんで私が?」
疑問に思って聞いてみると、榊原教授の後ろで修二が手を合わせて謝っている。
「まぁ、いけばわかるかな? 午前十時にここを出れば、アラン教授の便に間に合うと思うので、明日は車で来てくれ。入構許可証はあとで持ってくるよ。ああ、燃料代とか高速代もちゃんと出すので安心してくれ」
翌日十一時すぎ、杏は榊原教授と修二とともに、新千歳空港の到着ロビーでアラン教授を待っていた。榊原教授は随分と杏に気を使っていて、今朝はわざわざ杏を池田研まで迎えにきたほどだ。ついさっきもロビーの開いている椅子を探して杏に座っているよう言ってくれたほどだ。たがが一人の院生に、気味の悪いほどの気の使いようである。
しばらくすると、榊原教授がアラン教授をみつけ、英語で声をかける。
「アラン教授!」
「やあ、榊原教授」
アラン教授は赤ら顔の背の高い人物で、気さくそうな感じである。とくに連れはおらず、一人で来ていた。荷物も少ない。
「アラン教授、こちらは神崎杏さん、こっちが唐沢修二くん」
「「アンシャンテ」」
「おーカンザキさん、カラサワさん、どうかよろしくー」
アラン教授はここだけは日本語になった。
榊原教授が、アラン教授を駐車場に案内する。アラン教授は機嫌よく最近の実験の話などしながら歩く。修二が気を利かせてアラン教授の荷物を持ち、杏は手ぶらでついていく。ちょっと手がさみしい。
「アラン教授、あの黄色い車です」
榊原教授が杏の車を示すと、機嫌のよかったアラン教授が車に走り寄った。
「オララ! 榊原教授、君の車か?」
「いや、神崎さんのだよ」
「すばらしい!」
なにが素晴らしいのかよくわからないが、アラン教授は助手席を希望した。
空港から少し走って高速に乗る。本線に合流したところで、アラン教授が杏に話しかけた。
「カンザキさん、きみは運転うまいね」
「なぜ?」
「車の向きを変えるのに、ステアリングでなく、アクセルをつかう」
「父に教わった」
「それできみは、競技に出てるのかい?」
「いえ」
「この車、競技用だよ。もったいないな」
その後大学に着くまで、アラン教授はずっと車の話をしていた。
大学でアラン教授は車を降りて、車の周りを一周して販売店のステッカーを見つけて言った。
「カンザキさん、このお店行きたい。フランスでも有名」
「買ったのは、北海道ではなくて東京なんですが」
「北海道にもショップがあるの知ってる」
杏は余計なことを知っているなと思ったが、
「わかりました。今度オイル交換するので、今週末お店がすいているなら」
と、言って北海道店に電話を入れる。
「もしもし、私、神崎と言いまして、東京店で車両を買ったんですが、オイル交換をお願いしたいんですが」
「いつがよろしいですか?」
「今週土曜日はだいじょうぶですか?」
「午後一時はどうでしょうか」
「お願いします」
その後、メンテナンスの内容をうちあわせして、電話を切った。
「土曜日の午後にお店に行くことになりましたが、同行しますか?」
「イキマス」
アラン教授はかなり興奮していた。
土曜日の昼過ぎ、アラン教授とともに自動車ショップに向かう。榊原研のゲストであるから榊原研の修二が同行するのはいいとして、何故かのぞみがついてきた。
「聖女様を男二人だけとドライブさせる訳にはいかない」
とのことだ。なお、今日もアラン教授は助手席である。
ショップは札幌市の郊外にあり、真っ赤な社屋に広々とした駐車場ですぐにわかった。敷地内には杏と同車種のものがたくさんあり、派手なステッカーが貼ってあるものも多い。整備工場で持ち上げられている車も、半分が杏と同車種だ。
空いているところに車を停め、店内に入る。
「こんにちは、お電話した神崎ですが」
と、近くにいる店員に声をかけると、その店員が担当の人だった。
「はじめまして、担当の永田です。こちらで店長をやっております」
「よろしくおねがいします」
車の鍵を永田店長に渡す。
「神崎さん、東京店でお買い上げ頂いてからだいたい半年ですが、なにか気になる点はありますか?」
「実はこの車、車好きの父が選んだもので、私自身はよくわからないんです。今日お願いする内容も、父の指示のままなんです」
「そうですか、それでしたら少し時間をいただいて、こちらで調子を見てみましょうか?」
「それは助かります。ぜひお願いします」
しっかりと点検をお願いした関係で、二時間近くかかってしまった。その間、アラン教授は店内に展示されている車にすわらせてもらったり、車の下側をのぞきこんだりと、忙しそうだった。修二はアラン教授の通訳として、ついて回っていた。杏はのぞみと二人、椅子に座って置かれているテレビを眺めながら喋っていた。テレビでは自動車競技のビデオが流されていたが、正直なところ、よくわからない。
点検・整備がおわり、会計は三万円ほどである。父に言われた内容であるので、杏は何も考えずカードで払う。しかし、修二とのぞみはその金額に驚いている。
「聖女様、私、お父さんのオイル交換にくっついて行ったことあるけど、こんなにかからなかったよ」
のぞみが小声で言うと、修二も言う。
「僕も正直、驚いた」
「そうなの? お父さんの言う通りにしているだけなんだけど」
なにやら揉めているのを見ていたアラン教授が、口を挟んできた。
「いや、こんなものだろう。車が車だし、オイルもいいものを使っているようだよ。ミッションオイルも交換しているしね」
そう言われて、今度は杏が驚いた。
「車が車って、どういうことですか?」
「カンザキさんの車って、もとはラリー車だと思う。だってロールケージ入っているし」
整備終了後、少しドライブということで、支笏湖に行くことにした。
支笏湖は、札幌の南方、車で一時間ほどのところにある。かつての火山の火口に水がたまったカルデラ湖で、周囲は四十キロメートルほどもあり、結構大きい。札幌からは山道を登り、峠を越えて湖面に出る。
梅雨のない北海道、日の長い季節でもあり窓を開けてのドライブは快適である。スピードオーバーに気をつけつつ、カーブ一つ一つを回るのはとても楽しい。基本通りにアウトインアウトで走っていたら、アラン教授が話しかけてきた。
「カンザキさん、ブレーキを使わないで曲がれるかい?」
杏は、コーナーへのアプローチでの車速は落とすな、という意味だと解釈し、
「OK」
と言いながら、一旦車をコーナーの逆方向に振ってからコーナーリングをしてみた。タイヤがクワァーと鳴る。
アラン教授は
「セボン!」
とか言って喜んでいる。
「今度は、奥まで突っ込んで曲がってみよう!」
と、更にリクエストを出すので、杏は次のコーナーではブレーキングポイントを奥に取り、強いブレーキで一気に減速、車が前のめりになっているうちに一気に向きを変えてみた。
「オー、ファンタスティク!」
アラン教授は大喜びであるが、修二が言ってきた。
「神崎さん、スピード落としてくれないかな、緒方さんがちょっと……」
杏がバックミラーでのぞみを見ると、顔が青い。
「アラン教授、後ろの人達が……」
杏はアラン教授に断って、車速を落とした。
のぞみにとって今日のドライブは「北海道」「高原の湖」「初夏」と最高の条件だったはずだが、それを楽しむ余裕が全くなくなってしまったらしい。湖畔に車を停め、景色を見ようと誘っても、元気がない。
「のぞみ、ごめん、調子に乗っちゃった」
「オガタさん、ゴメンナサイ」
杏とアラン教授が口々に謝ると、のぞみもすこしだが笑ってくれた。
十五分ほど休憩して、来た道を帰る。お詫びのつもりかアラン教授は夕食を奢ってくれ、そのレストランで売っていたお菓子を買い込んで院生三人に渡した。




