聖女様は親衛隊を解散させる
その日のお泊りは全員怒りのままに飲みまくってしまい、お泊りセットはなんの役にも立たなかった。翌朝七時に杏が目覚めたのが奇跡のようである。
目覚めたとき杏は、ちゃぶ台を前に壁に寄りかかっていた。のぞみはちゃぶ台下に足を突っ込んだまま仰向け、真美は一升瓶を抱えてちゃぶ台に突っ伏している。発表の終わっている杏はいいとして、のぞみと真美の発表は今日だ。あわてて二人を起こす。
「えーまだ眠ーい」
「発表午後だから、まだ寝かせてー」
寝かせておいてもいいのだが、他の連中に何を言われるかわからないので無理矢理にでも起こすことにした。そのためにはパワーのあるワードが必要だ。
「親衛隊に仁王様っていわれていていいの?」
「「よくない!」」
交代でシャワーを浴び、目を覚ます。化粧の時間が必要だろうと、真美とのぞみを先に浴びさせた。杏はいつものすっぴんであるから時間がかからない。シャワーから出ると、キッチンで真美がフランスパンを薄く切り、フレンチトーストにしようと卵と牛乳にひたしているところだった。
「時間無いのに、ごめーん、ってか、なんでフレンチトースト?」
「聖女様がきのう、泣きながら握り潰したんだよ」
全く記憶にない。
ぐちゃぐちゃに握りつぶされたパンを真美はなんとか焼いて、メープルシロップをかけてちゃぶ台に並べる。杏はコーヒーを人数分淹れた。
「真美ちゃん、ごめん、私、無理」
のぞみが音を上げている。
「私こそごめん、飲んだ翌朝に甘いの無理だわ」
真美も厳しい。もちろん杏ものどを通らない。
「タッパーに詰めて昼に食べよう」
「そうしよう」
三人そろって大学に出、いったん各研究室に散る。昨日の杏は雑誌会会場に早めに着いていたが、今日はゆっくりめに三人そろって行くことにした。会場に入ると最後列に明が座っているので、のぞみと真美が挟み込むように明の両隣に着席した。明は呑気にも
「両手に花だな」
とか言う。のぞみがにっこり笑って、
「のぞみんって誰?」
さらに真美が、
「仁王様って誰?」
と聞く。明は、
「いや知らないねぇ。っていうか君たち、酒臭くない?」
「誰のせいだと思ってんだ?」
こういうときののぞみは本当に怖い。明は引きつった笑いを浮かべていた。
杏は昨日と同じ席に座る修二の横に座った。念のため聞いておく。
「親衛隊って知ってる?」
「なにそれ、昔のドイツ?」
どうやら修二は無実のようだ。
その修二の発表は、十一時すぎであった。
「高温超伝導体は、ドープされる電子やホールの濃度によって超伝導転移温度など物性が敏感に変化します。こちらの研究ではサンプルに圧力をかけることによって、ある意味超電導をになう粒子の濃度をコントロールすることの効果を、系統的に調べています」
「資料の系統ごとの結果はお見せしているグラフのとおりですが、残念ながら圧をかけると超伝導になりやすくなるのか、なりにくくなるのか、はっきりしたことは言えない状況です。一番ずるい言い方をすると、物質ごとに超伝導の発現機構が違うため、統一的な解釈ができない、ということになってしまいます」
質疑応答に入ったので、杏は早速挙手した。
「こちらの研究では、圧力は静水圧でしょうか?」
静水圧とは、圧力をすべての方向から均等にかけた場合のことである。
「はい、そのとおりです」
「では、一方向に限定した圧力をかけるのは難しいのでしょうか。それができれば、酸化銅の面間の相互作用が実験的にいじれるきがするんですが」
「そうなんですが、この論文でも触れていますが、まだ技術的に難しいようです」
「なるほど、少し違う話になるかとも思うんですが、銅や酸素以外の原子を、別の原子で置き換えると格子定数が変わり、似たような実験ができそうな気がするのです」
「そういう実験はあります。ただ、まだ系統的な結果が出てはいないようです」
ここで榊原教授が口を挟んだ。
「神崎さん、全くその通りなんだけど、一部の原子を置換すると結晶格子に局所的なひずみができるよね。そのランダムネスの評価が難しいので、そういう研究がまだ少ないんだと思う」
「ランダムネスの評価、についてもう少し詳しく教えていただけたら……」
「うん、まず実験的にはどれくらい結晶構造が乱れているかは、測定しにくいんだ。X線で結晶構造を測っても、結局平均値しか得られない。乱れ具合が評価しにくいんだ」
「回折パターンがぼやけるとかは、ないんでしょうか」
「経験的には、学内の装置ではわからないね。放射光でもつかえばわかるかもしれない」
「なるほど。乱れた系の理論については難しいことは、私でもわかります」
「ま、そういうことだね」
午前の発表が終わったところで明は席を立とうとしたが、のぞみと真美がそれを許さなかった。
「ちょっと話があるんだけど」
「が、学食でどうかな?」
「わたしたち、お弁当があるのよ。朝ごはん、のどを通らなくてさ。そのまま持ってきた」
真美がそう言いながら、タッパーを取り出し、ぐちゃぐちゃなフレンチトーストをみせる。
「ああ、おいしそうだね。でもなんでそんなぐちゃぐちゃなの」
「昨日ね、聖女様がパンを握り潰しちゃったのよ。あるSNSを見たらね」
のぞみが親衛隊のSNSをみせつける。
「私達もさ、一緒に飲んでてね、飲まずにはいられなくてね、朝食が食べられないほどね」
「仁王様ってだれのことかな?」
「だれのことでしょうねぇ?」
明はしらばっくれている。
「優花に聞いてみるか?」
「す、すみませんでした~」
明は、完全にびびっていた。気がつけば他の院生たちは姿を消し、いるのは杏、のぞみ、真美、明、修二の五人だけになっていた。皆逃げ足が速い。
「なにに、揉めてるの?」
無実の修二が尋ねる。
「うん、修二くんは無実。知らない方がいい」
「そうなの、修二くん、聖女様と昼食行っといで」
「わかった」
学食は少し遅くなってしまったので、混んでいる。ハンバーグカレーを食べる気にもならず、今日はナポリタンにした。修二はいつもの日替わりである。席がなかなかみつからない。無効にハンバーグカレーの大集団が見えるが、近づきたくない。少しウロウロしてしまったが、なんとか席を二人分確保できた。知り合いは近くにいない。
「明は、なんで怒られてんの」
「修二くん、それ知ったら多分怒るよ」
「神崎さんは、言いたくないの?」
「うん」
「じゃあ、聞かない」
それからいつも通り、物理の会話をした。先程の発表絡みの内容である。気がつけば昨夜のアルコールも抜けている。修二も楽しそうに話を聞いてくれた。
午後の発表が終わったところで、女子三人が集まった。なぜか明もいる。いるというか、のぞみと真美に挟まれている。
「早く言いなよ」
真美がそう言いながら、明をこづく。
「あ、あの、神崎さん、親衛隊は解散します。勝手なことをして、申し訳ありませんでした~」
杏は一応、聞いてみる。
「なんであんなことしたの?」
「俺としてはさ、聖女様を応援したいんだよ」
「応援って何を」
「物理もそうだし、その他も」
「その他って?」
「いや、それはさぁ、まあ、ほら」
「わかんない」
全く納得いかないのだが、のぞみが明に助け舟を出した。
「聖女様、まあ、少なくとも聖女様の悪口は一切ないし、実害もなかったし。投稿も週一くらいだから、ストーカーとも言えないし。許してあげてよ」
「ちょっとのぞみ、それは優しくない? ノゾミン、仁王様だよ」
「うん、それは許せない。だから今夜、明くんのおごりで飲もう!」
「飲もう!飲もう!」
真美も大賛成で、
「教養の方いくと、安くて美味しい店あるよ!」




