聖女様は雑誌会に臨む
池田教授に帰宅時間について注意されたあと、杏は朝八時に研究室着、夕食を学食で食べたら帰宅の毎日を送っていた。もちろん帰宅してからは、少しは勉強する。最近は雑誌会のプレゼン用のスライドを作るのに熱中し、気がついたら日付が変わりそうなことが多々あった。
そして雑誌会の当日がやってきた。
雑誌会では、M1全員が一つずつ論文を紹介する。持ち時間は一人十五分であるので、全員が発表するのにまる二日かかる。そのためか、ほとんどの院生は自分の分野に関係があるところだけ聴講し、関係ない分野の時間帯は研究室に戻ってしまうらしい。
杏はとめられない実験があるわけでもないので、基本的に全部聴講する気でいた。杏自身の予定は、一日目の午後二番手である。
初日朝十時前、会場の教室に入る。午前中は素粒子の理論・実験、そして岩田明の宇宙論、原子核の理論・実験の予定である。
会場をぐるっと見渡すと、明をのぞけば日頃付き合いの少ない素粒子・宇宙・原子核の人々である。やっぱり物性はぜんぜんいないのね、と考えていたら修二が一人、入ってきた。明に手を振り、そして杏に気が付き、杏の隣に座ってきた。
「やあ、おはよう」
修二が挨拶するので、杏も、
「おはよう。修二くんは素粒子とかも聴くんだ」
と訊いてみた。
「ひごろ専門のことしかやってないから、専門外にふれるチャンスだと思ってね。勉強時間もなかなかとれないし」
「そうなんだ、私も同じ」
さすがは修二である。専門バカにならないよう、気をつけているらしい。杏は同じとは言ったものの、本当のところは物理ならなんでも知りたい、それだけの理由である。だけど修二は、
「神崎さんは、やっぱり勉強熱心だね」
と、嬉しいことを言ってくれる。
最初の院生の発表が始まった。先端的な素粒子論は、去年一年間澤田教授に鍛えられた杏でも専門が違いすぎ、よくわからない。不可解なところがあったが、専門の違いかと考え黙っていたら、質疑応答のところで、その箇所についてある教授が質問していた。次の院生の発表でも、論理の飛躍を感じたが、杏は質問を遠慮した。するとやはり、さきほどの教授が質問していた。
雑誌会の聴講はだれでもできる。教官、院生、学部学生だれでもだ。そして質問もだれでもできる。しかし発言するのは教官だけだ。院生以下はどうも遠慮しているらしい。
三人目でもまたよくわからないことがあった。一人目二人目は超弦理論であったのどう質問して良いかもわからなかったが、この人は核子(原子核を構成する粒子)どうしの反応であったから、なんとか頭はついてきていた。質疑応答になったところで杏は挙手した。
「あー、質問が二人ね。どうしようか」
見回すと隣の修二が挙手しており、修二と目があった。修二が、どうぞ、という身振りをするので杏は質問した。
「勉強不足で申し訳ないんですが、式12から図3のダイアグラムになるところがよくわからないのですが……」
「えーと、この式を摂動展開して……」
発表の院生は、黒板に式を書きながら説明する。しかし杏はちょっと納得いかない部分があり、再び発言しようと思ったら修二が、
「その第三項とダイヤグラムがちょっとちがうような気がするのですが」
と発言した。杏の疑問点と一致している。すると発表者の指導教官が、
「うん、これ田中くんの展開、まちがっているよ」
と、助け舟を出し、解説してくれた。それにより杏は納得できたのであった。
その後午前中の発表では、杏や修二以外の院生も質問するようになり、なかなか活発な会となった。それにしても修二は、専門外についてもよく勉強しているようだ。
昼の休憩に入ったので昼食へ行こうかと席を立つと、最後列にのぞみと真美が並んで座っており手を振って合図してきた。杏と修二がそろってそちらへ向かうと真美が、
「いやあお二人さん、仲がいいね」
などという。のぞみも、
「同時に質問とかだもんねぇ」
というので、
「「偶然だよ偶然」」
と杏と修二がハモってしまった。
午後は物性の理論からスタートである。トップは同じ研究室の田村幸一、次が杏である。杏は自分の発表の心の準備でいっぱいいっぱいで、幸一の発表については全く頭に入らなかった。
いよいよ杏の番となった。物理学では、物性を研究しているものが一番多い。幸一や杏は物性理論であるから、午前中よりずっと聴講者が多い。すこし緊張を覚える。
「池田研の神崎です。よろしくお願いします」
杏はそう言って、発表をスタートした。
「いわゆるBCS理論は等方的な対称性を仮定しs波超伝導が実現しますが、重い電子系や高温超伝導では実験的に……」
論文の流れ通り、実験的に明らかにされていることから入り、各種超伝導体の結晶構造、結晶構造から考えられる対称性の話に入った。
「今回紹介する物質はこの表になります。残念ながら高温超伝導体は含まれておりませんが」
杏の高温超伝導好きを知る人々が苦笑いしているのが見える。それを見て杏は、すこし落ち着くことができた。
一通り説明が終わり、質疑応答に入った。初めに榊原教授が手を挙げる。
「常伝導状態での帯磁率ですが、どういった実験が考えられますか?」
「はい、常識的には単結晶を使って、印加磁場に対する応答の角度依存・温度依存を測定するんだと思うんですが」
「そうですね、その通りです」
そう榊原教授は言って、腕を組んで難しい顔をしている。実験上、何か困難がありそうだ。逆に杏が質問してみる。
「MPMSで、一回のスキャンにどれくらいの時間がかかりますか?」
「うーん、室温から液体ヘリウム温度までで六時間くらいかな」
「そうすると、すべての条件を網羅すると、一週間くらいでしょうか」
「そうだね、マシンタイムの確保が問題だな」
「先生、サンプルですが、ウランテルル系はお持ちでしょうか?」
「大洗から借りることになると思う」
「あとは、偏極中性子かとも思うんですが」
「MPMSよりもっとマシンタイムが確保しづらいね」
「あと、このビスマス系ですが、網浜先生、作成はお願いできるでしょうか?」
「えぇ〜俺ぇ〜? っていうか、教官側が攻められてな〜い?」




