聖女様は説教される
池田教授に車で家まで送ると言われた杏は、足早に廊下を歩く池田教授の背中を必死に追った。背中越しにも教授の機嫌の悪さがよくわかり、待ってくださいと声をかけることもはばかられる。
駐車場で池田教授の車の助手席に乗り込むと、道を案内するよう言われる。
「ええと、北◯条東◯丁目ですので……」
そう言いかけたところで、
「わかった」
と遮られた。正直なところ、杏はなぜこのように扱われるか分からず、萎縮するだけである。あっという間に自宅につき、
「ありがとうございます」
と言ったら、
「明日十時に、私のところに来なさい。そうだ、網浜研の緒方さん、長谷川研の恩田さんもできたら来るように伝えておいてくれ。連絡先は知っているだろう」
「はい、伝えます」
「じゃあ」
そう言って、池田教授は去っていった。
自室に入ると、ちょっと震えが来ていた。先程の池田教授は本当に怖かった。ただ、自分が何をしでかしたかわからない。しかし、のぞみと真美には連絡するよう言われていたので、とにかくSNSで連絡した。スマホを持つ手が震え、簡単な文ですら、時間がかかってしまう。
せっかく論文を持って帰っては来たのだが、とてもではないが読む気力がない。インスタントコーヒーを飲む。飲みながら何をやってしまったのか、思い出そうとするが全く分からなかった。のぞみと真美から了解の旨連絡が来たところで、無理やり寝るためワインを飲んだ。
翌日午前十時、杏はのぞみと真美を伴って、おそるおそる池田教授の居室を訪れた。いつものように扉が開いているので、
「失礼します」
と断って、中に入る。驚くべきことに、網浜教授、長谷川教授も来ており、網浜教授と長谷川教授は応接セットの片側に並んで座っている。池田教授は事務椅子に座っていた。
「ああみんな来てくれたか。まあ、座ってよ」
池田教授は昨日とは一転し、おだやかな雰囲気であり、杏はほっとした。開いている長椅子に、無理やり女子三人で座る。
「神崎さん、昨日は済まなかった」
いきなり池田教授に謝られた。
「昨日いつもより帰宅が遅くなってしまったんだが、神崎さんが残っているのをみつけてしまってね、つい、カッとなってしまったんだ。うちにも高校生の娘がいるんだが、夜遅いことがあるんだよ。娘を持つ父親として、若い女性が夜遅くに一人で帰るのが心配でならないんだよ」
杏はようやく昨日の池田教授の気持ちがわかり、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。昨日は怖いだけであったが、今は教授が文字通り親身になって心配してくれていたのがわかる。自分の娘ならば言いたいことが言えただろうが、杏は自分の娘ではない。言えない言葉があの雰囲気にさせてしまったのだろう。
「ありがとうございます。以後、気をつけます」
杏はそうとしか言えなかった。
長谷川教授が話しだした。
「池田先生から話を聞いてね、僕も反省したよ。恩田くんはよくやってくれているんだが、やっぱり若い女性は気をつけないと」
真美は、
「はい、私は自転車なので、徒歩よりはマシかと思ってました」
といいつつも、うなだれている。
「確かに徒歩よりはいいけど、冬が問題だな」
長谷川教授は腕を組んで考え込んでしまった。
「神崎さんは、とにかく早く来て、早く帰るしかないな。少なくとも夏場は明るいうちに帰りなさい」
「はい」
池田教授に言われ、杏は明日から八時に大学に出ることにした。徒歩通学だから、満員電車は関係ない。
網浜教授は、
「我々実験系は、どうしても遅くなりがちだからな。あらかじめわかっているときは、車だな。君たち、車持ってる?」
のぞみは、
「神崎さんしか持ってません」
と答える。
「そうか、最終手段としてはいいだろう。言ってくれれば許可証は申請するよ。しかし、普段はどうしようか」
網浜教授も、腕を組んでしまった。
「君たちみんな、実家は北海道じゃないもんな。家族に迎えに来てもらうんじゃなければ、彼氏……、いやこれはなんとかハラスメントだ、失礼」
池田教授があわてている。のぞみと真美は、なぜか杏をじっと見ている。
「唐沢くんのことは、置いといてだな」
長谷川教授がとんでもないことを言い出した。杏はたまらず、
「なんで、そうなるんですか!?」
「いや、まあ、有名というか」
「そんな事実、無いです」
杏が必死に否定すると、ニヤッと笑ったのぞみが、
「聖女様、今の発言、修二くんに聞かれたら、知らないよ~」
などと言うので、
「いや、すくなくとも、まだ、彼氏じゃないです」
「まだなんだ」
どうにもこうにも、話が変な方向に行ってしまった。
結局、M1女子三人は朝八時に大学に出て、なるべく早く帰宅することで話がまとまった。さらに少しでも危険を避けるため、杏とのぞみは自転車を買うことにした。冬場については、あせって結論を出さず、じっくりと対策を練ることになった。
なおその後、池田教授は網浜教授と長谷川教授にとっちめられた。女子三人が解散を言い渡され、池田教授の部屋を出たところでドアを閉めるよう言われたのだ。不思議に思っていると、中から網浜教授の声が聞こえてきた。
「池田先生、女子と二人っきりで車に乗るのはまずいですよ」
長谷川教授が止めを刺す。
「奥さんに知られたら、離婚ですね」
「それだけはやめてくれ~!」
ドアを閉めた意味はまったくなかった。




