聖女様は北海道の初夏の一日をすごす
五月も終わりに近づいてきた。朝七時に目覚めると、そとの日差しは「朝」というよりは「午前」という感じだ。なにせ四時には日の出だからだ。家を出るのは九時すぎなので別に七時に起きる必要はないのだが、川崎時代の癖で七時に目覚めてしまう。最近の杏は、ニュースを見たあと、朝食前に軽くジョギングすることにしていた。近所の公園まで往復一キロメートルくらいである。
川崎と異なり、札幌は家と家の間が広く、その分空が大きく見える。気温は高くないが、日差しは強い。軽く汗が出るが乾燥しているのか、汗はすぐ乾いてしまう。。
ジョギングから帰ってシャワーを浴び、朝食をとる。八枚切りのトーストをバター・ジャムなしで食べる。コーヒーとトマトジュース、プレーンヨーグルトが、最近の杏の朝食だ。物足りないのは確かだが、ウェイトを落とすためがまんする。その日の気分によって、テレビをみたり、音楽を聴いたりする。ただし、テレビの朝の情報番組は好きではない。杏の興味があるなしに関わらず、延々とやっているのが好みではない。スマホで気になった話題をテレビで取り上げていたら見る程度だ。
九時すぎに家を出る。日によって大学までの経路を変えるが、碁盤の目のような札幌の道はどう行っても距離は変わらない。創成川を渡る橋から見える川べりも緑が多くなってきた。川を渡ると建物の高さと密度が増え、住宅街から商業地域に入ったことを実感するが、その分景色に季節感が無くなる。
そんな街から大学構内に入ると、銀杏並木が葉をつけており季節感満点となる。こころなしか空気も美味しく感じられる。
研究室に入るのは九時半ころとなる。池田教授はもう出勤しているが、他のメンバーは大体十時すぎである。まだ研究室が静かなうちに、杏は研究を始める。理論研であるから授業とゼミ以外は基本デスクワークなはずだが、どうしても情報交換とか打ち合わせとかはある。相手のあることなので時間と手間はそれなりにかかるので、その間自身の研究に百パーセント没頭するわけにはいかなくなる。だから朝のこの時間を杏は大切にしていた。
今日は雑誌会で紹介する論文の精読である。論文は途中計算がいちいち書いてあるわけではないので、書いてある数式の導出は参照されている論文などを見て自分でなさなければならない。かけだしの研究者である杏にとっては、これがなかなか荷が重い。なんとなく済ますこともできるが、それでは昨年扶桑で澤田先生に教わったことが無駄になる。だから杏は逃げずに自力で計算するのだが、あっという間に三十分やそこらは飛んでいき、研究室のメンバーが出てきていた。頭を抱えながら鉛筆を動かしていると、一つ先輩の関根孝が声をかけてきた。
「神崎さん、今日も悩んでるね」
「おはようございます。ここの帯磁率なんですけど、具体的にどういう値になるかちょっと見えなくて」
帯磁率というのは、物質に磁場をかけたとき、磁場をかけられた物体がどれだけ磁石になるかを表した数値である。
「うーん、直感的には見えにくいね。実験はどうなってる?」
杏は、参照されている実験の論文のグラフを見せた。
「実験は、あとこっちと……」
他の論文を見せると、孝は目ざとく帯磁率の実験結果のグラフを見つけ、
「このグラフの点線は理論値だよね。誰の理論だろう?」
と指摘し、
「やっぱり」
と言いながら、実験の論文が誰の理論を参照しているか示してきた。
「ほら、この点線は、神崎さんが読んでいる論文の著者の理論だよ」
「ありがとうございます」
「念のために、さらにこの点線のもとになっている論文見といたほうがいいよ」
「そうします」
やはり頼れるのは同門の先輩である。
あっという間に昼になる。研究室のみんなで学食に向かう。杏はいちいちメニューを考えるのが面倒なので、日替わりランチを食べることにしていた。今日は焼き鳥丼である。たまに疲れを感じている時は、ハンバーグカレーにする。
昼食の中心になるのは、ポスドクのケン=ウィルキンソンである。アメリカ人であるが日本の食事に興味津々で、なるべくいろいろな日本の食物を食べたいらしい。よって日替わりランチは彼にとってうってつけなのだ。ケンはその日のメニューは一切見ず、とにかく日替わりランチを頼む。彼はそれを食べながら、研究室の日本人メンバーに、その内容について尋ねるのだ。
「このヤキトリのタレと、テリヤキのタレはどう違うのですか?」
などと訊いてくるのだが、料理人でもない研究室のメンバーには答えようもない。と思っていたら、池田教授が発言する。
「焼鳥のタレと照り焼きのタレはほとんど同じだが、照り焼きのタレにはみりんが入っているんだよ」
杏は池田教授の意外な面に感心した。すると田村幸一が、
「池田先生は自分で魚料理をするくらい、魚好きなんだ。だから詳しい」
と杏に教えてくれる。ケンはケンで、
「みりんとはなんですか」
と池田教授に更に尋ねていた。
昼食が終わると研究室のゼミ室に戻りコーヒータイムである。毎月はじめにメンバーから集めたお茶代でコーヒー豆を買い込んであるのだが、こちらはポスドクの桑原誠が仕切る。湯を沸かし、ミルで豆を粉にし、ドリッパーで淹れるのだが桑原がすべて行ってくれる。ゼミ室の椅子に座っていると、各自のマグカップに桑原が淹れたてのコーヒーを注いでくれるのだ。新入りの杏が代わろうかと言ったこともあるのだが、やんわりと断られた。どうも桑原は自分で淹れたいらしい。実際「今月の豆は〇〇だ」とか「この豆は〇〇だから美味しい」とか言いながら淹れてくれる。桑原の淹れてくれるコーヒーは美味しいのだが、杏の本当の好みはローストがもっと深い豆だったりする。残念ながら毎月集められるお茶代ではそんな豆は買えない。
コーヒーを飲んだら午後の研究である。今日は一日中ゼミも授業もないので、思う存分勉強に集中できる。
長時間集中していると、頭の芯が熱くなってきてボーッとなってしまう時がある。杏が札幌に進学してきてよかったと思えるのはそんなときだ。窓から外を見やれば、木々の緑が目に染みる。たまに観光客らしき人影がフラフラするのを見ているのも、なんだか楽しい。この窓から見える景色は、秋も冬も、目を楽しませてくれるに違いない。
「神崎さん、夕食に行こう」
桑原に声をかけられ時計を見ると、もう午後六時をまわっている。この季節、北海道は日が長く、気をつけないと学食が閉まってしまう。研究室みんなで夕食に向かうのだが、池田教授だけは自宅で夕食を摂るので同行しない。
夕食も、ケンがうるさい。カフェテリア形式なので、新しい料理を目にするとかならず、内容を誰かに聞き、内容に関わらずかならず食べる。この間はオムライスに驚いていた。
夕食後も桑原の淹れてくれるコーヒーをみんなで飲み、もう一勉強と机に向かう。コーヒーのせいか、食後の眠気もなく集中できる。
「あんたぁ、なにしとるん」
振り返ると池田教授である。たいそう機嫌が悪そうである。
「はい、雑誌会の準備を……」
「そんなもん、どうでもいい。すぐ帰りなさい。いや、僕の車で送ろう、すぐ支度しなさい」
けっこうな剣幕で言われたので、机の上の論文を手当たり次第カバンに詰め込み席を立つ。いままでこんなに怖い池田教授を見たことがなかった。外は真っ暗だった。




