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聖女様は相談する

 月曜日の朝、杏は雑誌会で紹介する論文を米国の物理誌に掲載されていた、最近の高温超伝導の理論的研究をレビューしたものとし、そのコピーを持って自宅を出た。ひとつ問題を解決した週明けであるので心は軽やかでありそうだが、体が軽やかではなかった。

 

 体調が悪いのではない。物理的に体が軽くないのである。朝食はいつもより少なめにした。いつもならトーストにジャムを塗るのだが、しばらくはジャムなしにする。ヨーグルトについても、今買い置きのある分はしかたないとして、そのあとはノンシュガーにするつもりだ。いつもより貧相な朝食を終え、杏は家を出たのだった。

 

 ちょっとでも摂取しすぎたカロリーを消費すべく、なるべく早足で大学に向かう。信号まちのときなど、足踏みまでしてしまう。そうやって歩いていたら、大学までの所要時間がいつもより三分ほど早かった。通常十五分かかるところが十二分、速さにすると1.25倍である。運動エネルギーは速度の二乗で効いてくるので1.6倍くらいになっているはずだと暗算してしまう。

 

 研究室について、すぐに池田教授のもとに向かった。池田教授はちょうどよく在室していたので、早速選んだ論文を見せる。

「池田先生、雑誌会の論文ですが、こちらでいこうと思うのですが」

「ああ、これね」

 池田教授は杏の差し出した論文のコピーを手に取り、パラパラとめくり始めた。

 そしておもむろに池田教授は、杏に尋ねた。

「これ、現段階の理論を網羅していて良い論文なのはわかるけど、一ヶ月後の発表、間に合う?」

「と、おっしゃいますと?」

「神崎さんの今までの勉強の仕方から考えると、もとになっている参照論文、全部あたることになるんじゃないの?」

 そう言われて、杏はハッとした。

「た、確かに」

「そうすると、ちょっとこれ、きついんじゃないかね」

「が、がんばります」

「がんばってどうにかなる?」

「……」

 杏は答えに窮した。昨日、一昨日の論文を読むペースから考えると、実際のところ間に合いそうにない。

「先生、今落ち着いて考えるとちょっと厳しい気がします」

 観念して、杏は池田教授に伝えた。池田教授は笑いながら、

「まあ、大体、自分で選べない人が多いよ。で、こんなのはどうかね」

と言って、杏に三つの論文を寄越した。

 ひとつは重い電子系超伝導体についての理論、もうひとつは鉄系超伝導体の実験、最後に超伝導体と局所的対称性の破れについての理論であった。ちょっと見て杏は、最後のものに決めた。

「先生、これにします」

「やっぱりそれを選ぶか。とりあえず一週間後に様子を聞かせてよ」

「わかりました」


 杏はそのまま居室へ戻ろうかとも思ったが、土日かけて選んだ論文がもったいなかった。池田教授に言ってみる。

「先生、最初にお見せした論文なんですが」

「うん」

「時間的に無理なのはわかるんですが、ぜひ読んでおきたい論文なんですけど」

「それもそうだね。今現在の理論について、ほぼ網羅されているからね」

「そうなんです。研究のスタートに相応しいかと思ったんですけど」

「うーん」

 池田教授はうなったまま、しばらく何事か考えていた。

「これさ、超伝導に関係しているM1で輪講してみたら」

「輪講ですか」

「うちと、榊原研、網浜研のM1が主体になってやれば勉強になると思うよ。M1だけでやれば気楽にできるんじゃない?」

「M1だけでやると、私、甘えが出そうで怖いんですけど」

「何言ってるの、神崎さんが一番厳しいんじゃないの?」

「はあ、そうですかね。それはそうと、榊原研、網浜研には、どう話を通しますか?」

「むこうにはむこうの都合があるだろうしね。まず、僕が榊原先生、網浜先生に話しておくよ。スケジュールについては、院生同志で話したほうがいいんじゃない?」

「わかりました。お手数ですが、両先生とお話されたら教えてください」

「OK」


 その日はそのまま、雑誌会用の論文に取り組んだ。「局所的対称性の破れ」という強い単語に惹かれて飛びついてしまったが、結構難解である。ウンウンうなりながら読み進めていたら、池田教授がやってきた。

「さっきの輪講の話、榊原先生と網浜先生に話しておいたよ。あとは君たちで調整するといい」

「ありがとうございます。早速話してみます」

 SNSでのぞみと修二に連絡をする。ほどなく二人から返信があり、今日の夕食時に学食で打ち合わせすることにした。


 夕食時になった。いつもは研究室単位での夕食であるが、今日は輪講の打ち合わせのため、池田研・榊原研・網浜研のM1だけでテーブルを囲む。M1だけと言っても合計8名になってしまった。集まったのは中央食堂一階である。

 中央食堂は二階建てで、夕食時は一階だけの営業である。二階は定食主体で安く、昼食は毎回二階である。一階はアラカルトで好みのおかずを選ぶのであるが、ついつい欲張って会計が高めになってしまうことが多い。

 今夜の杏は、小ライスにスープカレー、サラダにした。他のメンバーは、サバ煮とかハンバーグとか思い思いのおかずである。ただ、男子は皆、ライスが大きい。のぞみのライスも男子と同じく大盛りで、ついじっと見てしまった。

「聖女様、なんか文句ある?」

「いや、ごめん、やっぱり実験の人は食べるな、と」

「そうなんだよ、肉体労働なんだよ。それにしても少なくない?」

「実は週末、家で論文読みながら、ずっと食べてたみたいで体重増えた」

 気づくと男子共が無遠慮に杏の腹のあたりを見ていて、杏は対抗して男子共を睨みつけた。なお、修二はわざとらしく、自分の食事を見つめていた。なんかイヤである。

 みんなが集まったところで、杏は用意していた例の論文のコピーを3つ回した。食べながら軽く目を通してもらう。

「最初この論文を雑誌会でやろうとおもったんだけど、池田先生に反対されたんだ。分量が多いって」

 杏も食べながら説明する。なるべく気楽にしてもらうためだ。

「それでね、超伝導を扱っているM1みんなで読んだらいんじゃないかって、先生に言われた」

 のぞみと修二を通して、あらかじめ伝えてあるから、みんなの反応はいい。

「で、どうすんの?」

 網浜研の佐藤真一が聞いてきたので、杏は答える。

「スタートは、雑誌会が終わってからがいいと思う。あとは曜日と時間だけど、私達理論は授業とゼミにさえあたっていなければどうにでもなる。実験の人のほうが忙しいと思うので、実験の人の都合を優先したほうがいいと思うんだけど」

 杏がそう答えると真一は、

「そうだね、俺たちけっこう実験あるからなあ。比熱の実験なんかだと二晩かかったりするし」

と言う。それからは、実験の人々の議論になった。しばらくして、榊原研の木村啓介が結論を伝えてきた。

「結局、みんながほぼ手が空くといったら金曜の夜か土曜日くらいしかないよ。僕としては金曜の夜かな」

 実験の人たちは、皆頷いている。杏もそれで行こうと思ったが、杏と同じ池田研の田村幸一が割り込んできた。

「それだとさ、平日の疲れがたまりにたまったあとに、エンドレスでやりそうじゃないか?」

 実験の人々の顔を見回しながら言う。

「みんなさ、消極的と思われたくなくて、無理してない? 実験のかたがついていたら、金曜の夜くらい、のんびりしたいだろう? オーバーワークは避けるべきだよ」

 実験の人はみな、下を向いている。杏は幸一の意見はもっともだと思うが、念のため訊いてみた。

「田村くんは、やらないほうがいいと考えてる?」

「いや、絶対にやったほうがいい。だけど、無理はいけないと思う」

「そうだね」

 杏は無理強いはしたくなかった。せっかくの新しい仲間なのだから。しかし杏に妙案は無く、杏もまた下を向いてしまう。

 のぞみが言い出した。

「だったらさ、金曜の午後五時はどう? 実験が終わらなかったら、その人は自由参加ということで」

 杏は訊いてみた。

「五時って、なんで」

「夕食は大体六時じゃん。おそくなると食堂がしまっちゃうから、みんな六時を目標に作業してる。金曜だけそれを一時間前倒しにするのは無理じゃないと思う」

「なるほど」

「だけど本当のポイントはさ、聖女様、あんたなんだよ」

「なにそれ」

「一番エンドレスになりそうなのは、聖女様でしょ。だけど夕食には勝てない」

「ま、まあ」

「そのあと夕食とりながら、議論ってのも楽しいと思うよ」

 のぞみはなかなかいいことを言う。杏は古い友だちに感心していたら、のぞみは余計なことを言い出した。

「修二くん、それでいいよね?」

「なんで僕に聞くの?」

「いやさ、修二くんの言う事なら聖女様も聞くと思って」

 なんてことを言ってくれるのだ。

 ほかの院生たちは「おお~」という声を上げていた。

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